大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 ホームへ教会のご案内 教会長からのメッセージ
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金光教高田教会、我が信心を語る
14 おかげの舟に乗る
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 悩み多き中にも感謝の量だけは増すばかり
▲ 「大船に乗った気持ち」で生きられる
▲ 人が休む間も、神様は休みなくお働きくだされてある
▲ 自分にできる手立ては尽くさねばならない
▲ 我々には「祈って待つ」ことが加わる
▲ 祈りは我々の内部だけにとどまらず、どんな遠方でも瞬時に届く
▲ 願わずにおれぬことは、どこまでも願えばよい
▲ 祈り合えること、祈られてあることも有難い
▲ ごく普通の人間の助かりを求めたい
▲ ウソ、ハッタリ、きれいごとを言いたくない
▲ それでもまだ教会がつぶれないのが奇跡
▲ 教会のホームページの直接的成果はいまいちだが
▲ 「佐藤愛子 霊」というキーワードで入ってくる人が多いのは
▲ アクセス数の増加だけが励み
▲ 報いられぬことのほうが多くても、あてがわれてあるものを最大限に喜ぶ
平成二十一年十一月八日 奈良県 五条教会にて
悩み多き中にも感謝の量だけは増すばかり
 皆様には立教百五十年のご大祭まことにおめでとうございます。
 思い起こせば、私自身が神信心のまねごとをはじめるようになったのが、以前ここで話をさせていただいたように、はたちの頃、立教百年の前の年ぐらいでした。それ以来、年数だけはもう五十年を超えているわけですが、いつまで経っても、相変わらず種々の悩みと心配をかかえて生きております。
 悩むにも、幅広く悩もうとしますとそれなりの環境や蓄積が要りますから、私方の教会の信奉者の中では、私が最も悩み多き信者ということになるかもしれません。
 それでも昔と比べまして違いますのは、感謝の量だけは年々に増してきているように思うのであります。
 信心するようになりましてからでも、三十過ぎまでは、自分の願いをかなえてほしいという思いのみが先走って、感謝の心というものがほとんどありませんでした。今では、その頃やや蔑んでいた、いわゆる「有難やさん」というものに一歩でも近づかせてもらいたいと願うくらいであります。
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「大船に乗った気持ち」で生きられる
 また心配ごとがたとえどんなに大きくても、幸いそれで食事が喉を通らないとか、夜眠れないというようなことはありません。俗に「大船に乗った気持ちで」という言葉がありますが、信心さしてもらっていると、そういう気持ちになり易いのが有難いところであります。
 
「氏子、石や金でも船に積んだら浮かぶであろう。人はおかげの舟に乗るがよい」

という、単純な比喩ではありますが心にしみる教えがあります。心配に押しつぶされそうになったら、大きな船の甲板に大の字になって寝そべる自分を頭に描いてみるのもよいでしょう。
 事情が許せば、実際に寝ころぶのも悪くありません。私方では、パソコンやコピー機のある作業室には、枕と、細長くて薄っぺらい座蒲団が用意してありまして、頭が疲れたり、考えが行き詰まった時にはいつでも寝転がれるようにしてあります。実生活においても、信心という船に乗っていなかったなら、浮かんでいられるかどうか、まったく自信がありません。
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人が休む間も、神様は休みなくお働きくだされてある
 「果報は寝て待て」という諺がありますが、これは広辞苑によりますと「幸運は人力ではどうすることもできないから、あせらないで静かに時期の来るのを待て」という意味だとあります。広辞苑には兎角の批判があり、手放しで信頼できぬ面もありますが、この諺の解釈ばかりはなかなか行き届いていると思います。
 そしてこの諺の表現において、人力で及ばぬ事柄は時節にゆだねよということを「寝て待て」と表現してあるのには、なかなか深い知恵が込められているように思うのです。それは人類の長い経験の中から、人間が目覚めて意識的な活動をしている時よりも、何も考えずに寝ている時のほうが、我々流に言えば、神様が働いてくださり易いのだということを、知らず知らずのうちに探り当てた言葉でもあると思うのです。あれこれくよくよ思案していると、かえって神様のお働きの邪魔をしてしまうということなのであります。
 そのお働きを「潜在意識の働き」という言い方をする人もありますが、信心する我々は、単純に「神様のお働き」でよいと思います。そして、このことを角度を変えて言いますと、人が休む間も、神様は私どものために休みなくお働きくだされてある、と言えるということになると思います。
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自分にできる手立ては尽くさねばならない
 また、そのように寝て待つと言いましても、むろんその前に、自分にできる手立は尽くさねばなりません。できることがあればそれを一生懸命しなければなりません。その中には考えるということも含まれます。考えられる限りのことはとことん考えねばなりません。そこまでしてはじめて、「寝て待つ」ということが生きてくるのです。
 ずいぶん昔に読んで強く印象に残った話に、岡潔という、当時奈良に住んでおられた高名な数学者の「発見の鋭い喜び」という文章がありました。「春宵十話」と題して十日間新聞に連載されたエッセイの中の一話で、岡氏が多変数関数論という私にはチンプンカンプンの分野で、ある大きな発見をされるに至った経過を述べられたものです。
 岡氏がその分野の最もむつかしい問題を選んで格闘しておられた時のこと、数ヶ月間あらゆる角度から考えてみるが、どうにも解決の糸口がつかめず、行き詰まってしまわれました。そしてもう頭が働かなくなり、夢うつつのような状態が更に数ヶ月続きました。
 その当時は広島におられたのですが、夏休みに、親しくしておられた中谷宇吉郎氏(この方も雪の結晶の研究や随筆家として高名です)から北海道大学に招かれて、大学の一部屋を貸してもらって研究を続けられました。と言っても、ほとんどソファーにもたれてうつらうつら眠っているような状態で、他の人たちからはずいぶんと奇異な目でみられるようなこともあったらしいです。
 そして或るとき、ソファーに座って考えるともなく考えていると、突然考えがある一定の方向に開けてゆき、短時間のうちに、解決の糸口が疑いようもなく鮮明に浮かんてきて、どこをどうやればよいかがすっかりわかったというのです。そしてその時の発見をもとに、さらに数年かけて次々と世界的な業績となる論文に仕上げていかれたのです。そして、その功績によって文化勲章を授与されました。
 私がこの話をはじめて読んだのがもう五十年近く昔になりますが、まさに無意識の領域の働きの偉大さというものを実感させてくれる気がして、大きな勇気を与えられたのであります。そしてそれ以後、スケールはまるで違いますが、私自身、それと同じような過程を経て、いろいろな思いつきをさせてもらっております。
 その岡先生もとっくに亡くなられましたが、この文章は幸い今でも、同じ「春宵十話」の表題で光文社文庫で読むことができます。他の部分もすばらしい内容で、優れた教育論になっています。
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我々には「祈って待つ」ことが加わる
 このように「寝て待つ」ということには、やれるだけのことをやって待つ、考えられるかぎりのことを考えて待つ、ということではじめて成果が期待できるわけでありますが、我々信心するものには、その上に更に「祈って待つ」ということが加わるのです。これは実に有難いことでありまして、これができるようになってからと、できなかった時とを比べますと、気持ちの安らかさの上でも、得られる結果の上でも、大きな差が生じたように思います。
 それでその程度の実績かと言われれば一言もありませんが、実際そうやって手立てをつくしたとしても、自分にできることといったらしれたものだなあと、私はいつも思い知らされております。何をどうしたらよいのか、わからぬことの方がはるかに多いのです。
 そのような事柄に対しましては、ただただもうじたばたせず、できるかぎり神様のお働きに身をゆだねて、助かりや解決のもたらされるご時節を待つしかないようであります。
 そういう心のあやちを説いておられる次のような教えも心にしみます。

「まあ、みんな信心をせよ。金光大神(教祖のこと)は、どうにもならないと言われれば、じっと寝入るような心持ちになるのであるから、あなたらもそういう心になるがよい。どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。じっと眠たくなるような心持ちになれ」(石井この の伝え)
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祈りは我々の内部だけにとどまらず、どんな遠方でも瞬時に届く
 ところで、岡教授の発見をもたらした無意識の領域の働きを呼び込んだのは、問題を解決したいという強い意志でした。願望でした。そのように強い意志や願望が、無意識の世界に働きかける力を持つということはすばらしいことです。
 祈るということは、更にいっそう強い強い意志の表れです。そして更に有難いことは、単に我々の身体の内部だけにとどまらず、外部にまで働きかける力を持つということであります。岡教授の発見ということは、あくまで岡教授の頭脳の内部でのみ起きた出来事だと言えますが、祈るということは、天地万物を生み出し動かしなさる目に見えぬ大きな力に直接呼びかけることであり、その呼びかけは、どんな遠方からでも瞬時に届くのだという意味のことを教祖様は言っておられます。

「願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出て来る。神様も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、何百里あっても、拝めばそれが神に届く、女郎ぐものとおりである」(伍賀慶春 の伝え)

 私たちの身体を指して「小天地」という言い方をいたしますが、その身体の中枢部である頭脳から、いちばん遠い位置にある足の先の痛いかゆいが瞬時に脳に伝わるように、神様のお体と言えるこの天地の中のどこにいても、たとえ宇宙の果てからでも、祈りが瞬時に神様に届くというのは、当然のことながらまことに有難いことに思います。
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願わずにおれぬことは、どこまでも願えばよい
 そしてまた、「身の上のこと(大小にかかわらず)何なりと実意をもって願え」と言ってくださいますように、心の底から本気で願わずにおれぬことなら、どんなことでも願っていいのだとわかったとき、私にはそれ自体が大きな救いでありました。そしてそれは自分自身の生き方に革命をもたらすほどのものでした。それ以来私は、自分が心の底から本気で願わずにおれぬことは何なのかを、常に考えながら、自分の心の底を覗きながら生きるようになったのであります。
 そして願いそれ自体もまた授かり物で、自分の知恵や力や計らいでどうこうしなければならぬものでもないと考え、自分にはどのような願いが授けられているのか、あてがわれているのか、という観点からも自分の願いを考えられるようになり、それだけでもずいぶんと気持ちが楽になりました。
 そうした願いは、目先目先の差し迫った願いも含めて、これまでに叶えられたものよりも、どちらかといえば、まだ叶えられぬものの方が多いように思うのでありますが、たとえ叶えられようと叶えられまいと、或いはまた、何年かかろうと、何十年かかろうと、何度生まれ変わろうと、願い続けずにはおれぬものばかりなのであります。
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祈り合えること、祈られてあることも有難い
 また、「子供のことは親が頼め。親のことは子が頼め。あいよかけよで立ち行く」と言われますように、祈り合うということの大切さを教えられ、人のことを祈り人から祈られるということの「効力」も信じられるようになりました。
 そして、特定の願いがどうこうというのではなく、親教会の先生や、ご本部の金光様の祈りの傘のもとにあるということも、また有難いと思えるようになりました。

 このような数々の教えに支えられて、また前回ここで話をさせていただきましたように(「1おあてがいのままに」)、要所々々で救いの手をさしのべてもらって、これまで信心を続けさせていただくことができました。また教会の御用も続けさせていただくことができ、なんとか教会が存続させていただくことができたわけであります。
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ごく普通の人間の助かりを求めたい
 これからも私は、あくまで平々凡々、ごく普通の人間の助かりというものを求め続けたいと思っております。教祖が自らを「凡夫の身」と言われたのとは一段低次元の凡夫の身の助かであります。格別立派な心がけになれる人でなくても、意志の強い人でなくても、優れた才能に恵まれた人でなくても、つまりは私のような人間でも、それなりに救われ、満足の得られる信心を求めていきたいと思っております。
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ウソ、ハッタリ、きれいごとを言いたくない
 御用の上では、できるかぎり嘘ハッタリのない言動ということを心がけてきました。そもそも教祖様の教えには、嘘ハッタリがないのが私にとっては大きな救いであり魅力であったのであります。
 きれいごとを言うのもあまり好きではありません。個人的なつきあいで人を信じることにやぶさかではないのですが、人間一般となると、性悪説に傾くことも多いのです。ことに国際関係は、性悪説に基づいて手立てを講じておくのが鉄則だと思っております。理想はその上で追求すればよいと思うのです。
 嘘ハッタリを言わず、きれいごとも言うまいとしますと、勢い無口にならざるを得ません。その上あまり無駄口も利きたくないとなりますと、人と向き合っていても間がもちにくいのです。要するにもともと布教には向いていない性格なのです。しかし、向いていようと向いていまいと、選り好みのできる境遇や状況ではありませんでした。やるしかなかったのです。
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それでもまだ教会がつぶれないのが奇跡
 そんな私でも、これまでなんとか教会をつぶさずに守って来れましたのは、それこそ奇跡としか言いようがありません。そればかりか、ほとんど貯えもなく、計算上は不可能に思えたのに、教職舎と会堂と、二度にわたって建て替えもさせてもらうことができました。
 会堂の建て替えをさせてもらった頃から、或ることで中学の同窓会の活動が盛んになりまして、ちょうどよいタイミングで、そのための会議や作業に、会堂の二階を役立てさせていただくことができるようにもなりました。
 また近年、教会の向かい側にあった池が大方埋め立てられまして、そこに多目的ホールが建ち、それにつれて池と教会の間にあった建物が取り壊されて整地され、木が植えられ、遊歩道ができ、ホールと教会が庭続きのようになりました。
 しかしそのようなことはあっても、教会がこれからも存続していけるという保証はありません。依然として難問山積、悲観材料には事欠かないのでありますが、そういう中でこそ、大船に乗った気持ちでいられる努力をせずにおれないのであります。
 それに、心配そのものを打ち消そうとしても無理でありますので、それと自分の人格形成の努力とをからめて、何ものをも恐れない勇気ある人間になりたいとも願っているのであります。
 そして何より欠かせないのが感謝の心です。「いつも嬉しく有難く元気な心で」ということを自分に言い聞かせ、口癖にしようとしているのであります。
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教会のホームページの直接的成果はいまいちだが
 教会から視界を遮っていたものがなくなり、目立つようにはなりましても、通りがかりにわざわざ中に入ってお参りしてみようかという人はなかなかいません。入ってくるのはお金の無心に来る人ばかりです。
 三年前に教会のホームページを始めましたのは、もちろん、この道を社会に広めたいとの願いからではありますが、広い世間には、このような私でも必要としてくれる人があるかもしれない、との期待もあってのことでありました。
 いまだにたいした成果は上がっておりませんが、それで直接信者を獲得しようというよりは、とにかく読んでもらえるだけでも有難いと考えております。
 形にあらわれたところといたしましては、ページの内容量が増すにつれ、アクセス数(ページを開いて見てくれる人の数)が徐々に増してきております。
 最初の頃は、例えばヤフー(情報を提供してくれる会社名)で、「金光教高田教会」ではなく「金光教」という総括的なキーワードで検索してみますと、百位前後でやっと「高田教会」のホームページが表示されるに過ぎませんでした。
 検索用の画面は、一画面に十項目ずつ表示されますので、「高田教会」のホームページにたどりつくのは、順に画面を変換していって、やっと十番目ということになります。余程のことがないかぎり、見てもらえるのはせいぜい二、三回変換されるところまでですので、そういう「金光教」というような漠然としたキーワードでは、未知の人になかなか見つけてもらえそうにないのであります。
 ホームページの中味を分類して情報として配信してくれるヤフーの掲載順位を上げる確実な方法は、明らかにはされていませんが、ある程度の見当はつくらしいのです。ホームページの立上げを依頼した業者の担当の青年が、いろいろと工夫をしてくれましたが、それでもあまり効果がありませんでした。結局は内容の更新回数やアクセス数がものをいうらしいのです。自分で多数回アクセスしても効果はあるらしいのですが、そうまではしたくありません。
 それでもホームページの内容がふくらむにつれて、多様なキーワードを入口にしてアクセスしてくる人が増えてきました。どういうキーワードで入ってきたかということが、調べればわかるようになっているのです。
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「佐藤愛子 霊」というキーワードで入ってくる人が多いのは
 その中でいまのところ一番多いのは「佐藤愛子 霊」というキーワードです。といいますのは、作家佐藤愛子さんの「血脈」という、テレビドラマにもなった小説のことを取り上げた話を載せているからです。
 柳本教会での話をもとにした「『血脈』を生んだ霊現象」という表題の話の中で、二千ページに及ぶその作品を短くまとめて紹介したのです。ほんの少しだけですが、著者の文章をそのまま引用した部分もありますので、ホームページに掲載するにあたりまして、ご本部の指示通り、著者の了解を得るために、親教会参拝の帰途、中之島図書館に立ち寄ってわざわざ著書の住所を調べ、自分の書いた文章の引用部分に赤線を引いたものと返信用の葉書を入れて、掲載許可の依頼状を書きました。
 わずかなことでそこまでするのは大げさすぎるような気がしたのでしたが、一方では、その要約をするのにはかなり苦心しましたので、それをきっしょに自分が要約したものを読んでみてもらいたいという気もありました。何か反応があるかもしれないと思ったのです。
 案の定、著者からは掲載快諾の返事とともに、これほどきちんと要約されたものをそれまで見たことがない、感心した、との感想と感謝の言葉をいただきました。この話はこれまでにも何回か吹聴したのですが、単に自慢話をしたいわけではなく、自分の話と原著に少しでも関心を持ってもらいたいがために吹聴するのである、とご理解いただきたいと思います。
 その話を掲載して以後、佐藤愛子さん関係の人物や事柄をキーワードに検索して入ってくる人が非常に多くなりまして、その話のページへのアクセス数が今でも毎月ダントツに多いのです。試みに昨日「佐藤愛子 霊」をヤフーで検索してみましたら、1ページ目の9番目にありました。念のためグーグルというもう一つの情報配信サービスでも検索してみますと、こちらの方も1ページ目の5番目に表示されていました。
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アクセス数の増加だけが励み
 ここ数ヶ月、アクセス数が増加の傾向にあり、8月(平成21年)はじめ頃、久しぶりに「金光教」で検索してみましたら、なんと1ページ目に表示されていたんです。泉尾教会に続いて第七位になっていました。特別変わったこともしていないのに順位が上がったのですから、やっぱりアクセス数が大きく関係しているのだろうなあと思いました。しかし、この順位は絶えずコロコロ入れ代わりますので、あまりあてになりません。
 月々のアクセス数は今年の五月が最高で、ことに「血脈」のページへのアクセスがやはり一番でした。多分佐藤愛子さんの本が新しく出るか、話題になることがあったのでしょう。8月もアクセスが2番目に多かったので、当分1ページ目での表示が続くものと思っていました。
 ところが九月に入って調べてみますと、大きく順位を下げていたので、これまた驚きました。どういう基準でそうなるのか、やっぱりよくわからないのです。その後も2カ月程内容を更新していないせいもあるのでしょうか、順位は3ページ目くらいまで下げたままです。
 いずれにしましても、今のところ目に見えた成果といたしましては、わずかながらもアクセス数が増加傾向にあることだけが励みです。それと、もう亡くなられましたある教会長が、その中の2、3の話を教会誌に掲載して、未信奉者にも配布してくださったことが、とても励みになりました。
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報いられぬことのほうが多くても、あてがわれてあるものを最大限に喜ぶ
 このように、私の人生には、いくらがんばっても報いられぬことや、どうがんばっていいのかさえもわからぬことの方が、まだまだ多いのであります。と申しましても、実際のところはそれほどがんばっているわけではありません。とにかくその時その時で、自分に出来ること、したいことをさしてもらうことができれば、有難いことだと思って、楽なように楽なように生きさせてもらっているだけであります。
 信心をはじめさせてもらった五十年前、いちばんつらかったのは孤立感でした。この世に自分がたった一人孤立している、と感じていたときの淋しさと心細さは大変なものでありました。今も一人暮しではあるのですが、その頃ほど淋しいとも心細いとも思わずにおらしてもらえるのが、何より有難いことだと思っております。
 具体的には、子や孫がいてくれ、少数ながら自分をある程度は理解してくれる人たちがいてくれるということがあってのことでありましょうが、根本的な理由としましては、信仰そのものの持つ力が、そうならせてくれたのだと言えると思います。
 それが単に子や孫がいるから淋しくないということになりますと、子や孫のいない人は救われないという話になってしまいかねませんが、そんなものではないと思います。信心さしてもらう者は、自分にないものを嘆くのではなく、現に与えられてあるものをまず最大限に喜ばせてもらうところから、助かる道がひらけていくと思うのであります。
 それぞれにあてがわれてあるものはみな違います。お互いめいめいが自分に恵まれあてがわれてある運命や境遇や能力やらを、それらがどのようなものであれ、最大限に喜ばせていただき、活用させていただいて、おかげにしてまいりたいものであります。
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談話室より
 坊っちゃん(男36歳) H..21.11.19

 日頃、悩みや心配ごとは神様にお預けして、お任せして、と思いながら、気がつけばついつい心配したり悩んでいたり、目の前のことに集中できていないことがあります。

 『氏子、石や金でも船に積んだら浮かぶであろう。人はおかげの舟に乗るがよい』という教えのところで、先生が、「大きな船の甲板の上に大の字になって寝そべる自分を頭に描いてみるのもよいでしょう」と補足されていて、なるほどなぁ~って思いました。とてもイメージしやすくて、ホッとしたような気がします。

 また、「あれこれくよくよ思案していると、かえって神様のお働きの邪魔をしてしまう」というところで、心くすぐられる思いとともに、「そう考えると、僕自身、けっこう神様の邪魔をしてきてるよなぁ」なんて、自分自身を笑ってしまいました。

  『果報は寝て待て』について、自分にできる限りの手立ては尽くしつつ、そして待ち、さらに「祈って待つ」ということが加わるということを読み、「なるほど、僕は寝てばっかりだったかもしれないな」と反省しております(笑)。……でも、まぁ、「寝る子は育つ」って言いますから……なんちゃって(笑)。

  『祈る』ということは、『更にいっそう強い強い意志の表れである』とともに、『天地万物を生み出し動かしなさる目に見えぬ大きな力に直接呼びかけることであり、その呼びかけはどんな遠方からでも瞬時に届く』ということについて、『小天地』という言葉が、心に響きました。

  『足の先の痛いかゆいが瞬時に脳に伝わるように、神様のお体と言えるこの天地の中のどこにいても、たとえ宇宙の果てからでも、祈りが瞬時に神様に届く』というのは、先生も書いておられますが、誠にありがたく、そして、とても分かりやすい表現だなぁと思いました。

  『身の上のこと(大小にかかわらず)何なりと実意をもって願え』という教えは、神仏の前でだけは、余所行きの言葉で祈りがちになる私たちにとって、ほんと救われる思いがいたします。人のことを祈り、また、人からも祈られるという営み。改めて、ステキなことだなぁと思いました。

  『報いられぬことのほうが多くても、あてがわれてあるものを最大限に喜ぶ』生き方。情報が氾濫する社会において、メディアの煽りもあって、現状の不足や不満ばかりに目が行きがちな私たち現代人。常々、それぞれの立ち位置を意識し、忘れたら、またそれを思い出す、そんな営みを大切にしていきたいと思います。

 教会長より

 多くのツボを押さえた感想、ありがとうございます。それだけ受け止めてもらえたら、話させてもらった甲斐があるというものです。

 T.Oさん(男 教会長 68歳)H.22.2.17

 「私方の教会の信奉者の中では、私が最も悩み多き信者」との地下(じげ)の立場を先ず告白し、それ故に、といふより、それ故にこそ、感謝の量だけは年々に増してきてゐると言はれ、「氏子、石や金でも舟に積んだら浮かぶであろう。人はおかげの舟に乗るがよい」との教祖のみ教えをテコにされ、「果報は寝て待て」といふ「寝て待て」の内容への深い洞察と理解、そしてそれが遂にしてどこまでもどこまでも神に頼み神に祈る生き方の中に大安心の道と世界が開かれるといふ、諄々とした畳みかけのお話ぶり、まことに美事なことと、触発され、教示されるところでありました。
 そして次の告白のお言葉がまことに先生の先生らしいところで、貴先生ほどではありませんが、小生にとっても気脈を通じ、ウンウンと共感し諾かれるところであります。即ち、御用の上で、できるかぎり嘘ハッタリのない言動といふことを心がけてをるとおっしゃり、きれいごとも言ふまいとすると、勢ひ無口となり、人と向き合っても間がもちにくいとおっしゃる。こんなところは、実に正直なお言葉で、小生の中にもこのやうな気質があり、従って、もともと布教に向いてない性格であり、しかし向いてゐやうとゐまいと、やるしかなかったのだとおっしゃる。全く小生のことをおっしゃって下さってあるやうな、共感の部分がここにあり、むしろこのやうな先生に私なんぞは魅力を(「きれいごと」「おべんちゃら」では断じて非ず)感じてならないのであります。
 この教話について、「坊ちゃん」といふ方のコメントを併せて読まして頂き、小生もまた胸がホコホコと嬉しくなりました。

 教会長より

 掲載がはばかられるくらい過分なお言葉を頂いてはいますが、それでも他の人にも読んでいただく意味はあると思います。
 そういえばO先生は、父君の予期せぬご帰幽により、やむなく大学の勤めを辞して、教会の御用を継ぐことになられたのでしたね。
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