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金光教高田教会、我が信心を語る
20 次世代に手渡したい信心
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 我々が受け継いできた信仰を次世代に手渡したいのだが
▲ 多様な年齢層、多様な考えの人達に信心を伝えるのは容易ではない
▲ 信じられない人間にも望みを抱かせてくれた二人
▲ 説教集の中で唯一心に残った山室軍平の話
▲ 母親の深い愛と祈りが山室師を育んだ
▲ 同じ頃「湯川安太郎信話」とも出会う
▲ 徒手空拳でも生きていける希望を与えられる
▲ 信心すればしただけのことは必ずある。それがいちばん安心な生き方
▲ 神と人との関係は、親子関係で理解するのがやはり一番妥当か
▲ 信心とは「我が心が神に向かうこと」に尽きる
▲ 信心するからといって、気の進まぬことを無理矢理願う必要はないし、自分を偽ることもない
▲ 他宗教に帰依していた方がよかったと思ったことは一度もない
▲ 心を神に向けるため教会はある
▲ 家にも一人一人が神様と向き合える場所を
▲ おあてがいのままに生きるのがいちばんラク
▲ 祈れること自体が、神信心することから得られる根本的な救い
▲ 一年まさり代まさりの幸せを得よう
 平成二十三年十一月三日 高田教会布教百二十年記念大祭にあたって
我々が受け継いできた信仰を次世代に手渡したいのだが
 今年、私どもの高田教会も布教百二十年目を迎えました。今日は生神金光大神様の御大祭に併せて、その御礼のお祭りを仕えさせていただいたわけであります。
 次の大きな節目の年は百五十年目だと考えておりますが、その頃まで自分たちの多くがまだ生きているかどうかわかりません。そこで、この大祭はどうあっても、信心を受け継いでもらいたい次の世代の人々に、現在信心させて頂いている者たちの思いを伝える場としたいと思うようになりました。
 そしてこの御大祭を、私どもが受け継いできた信仰を、できることなら次世代に手渡す端緒としたい、そうでなければ、わざわざ記念祭を仕えさせていただく意味がないとさえ思えたのであります。
 そこで、それならどういう信心を次世代に手渡したいのかということが、記念祭の執行を取り決めさせていただいた時点から、私自身にとりまして、緊急の課題となり続けております。
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多様な年齢層、多様な考えの人達に信心を伝えるのは容易ではない
 ところが、私どもが信心を伝えたいと望んでいる次世代の人々といえば、主として、子、孫、嫁、婿、その他の親族友人知人ということになりましょうが、それぞれの思いは実に千差万別、年齢層も非常に幅広いのです。それぞれの家庭の事情によって、小中学生から還暦を過ぎた人たちまでが、次世代としてくくれるのであります。
 それらの人々の中には、素直に神様が信じられる人がいたり、すでにある程度信心を継いでいると言える人がいたり、信心を否定もしないが、それほど熱心でもないという人がいたり、無関心な人がいたりします。一人一人皆少しずつ違っていて、多種多様であろうと思います。
 中には、神様がもうひとつ信じきれない人、或いは、全く神様が信じられない人、信心を馬鹿にする人さえいるかも知れません。かく言う私自身が、その「信じられない人」「馬鹿にする人」の一人でありました。
 そのように多様な人たちに信心を伝えていくということは、なかなか容易なことではありませんが、とりわけ、「信じられない人」「馬鹿にする人」を相手に信心を説くのはむつかしいことなのです。
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信じられない人間にも望みを抱かせてくれた二人
 そんな「信じられない人」「馬鹿にする人」であった私でも、いろいろと読み漁ったものの中には、この世にはひょっとして自分を救ってくれる何かがあるかも知れぬ、と一縷の望みを抱かせてくれる話がないわけでもありませんした。
 そういう望みを抱かせてくれた二人の話をまず紹介してみようかと思います。その中の一人が他宗教の人であるというのは変な話かもしれませんが、事実に添って書こうとすると、どうしてもそうなってしまうのです。
 今はもう紛失してしまいましたが、その頃、教会のいたって貧弱な本棚の中に、講談社から出版された「訓話説教演説集」という分厚い本がありました。戦前(昭和初期かそれ以前)の各界の指導者と目される人々の訓話や演説(外国人のものもまじっていました)が写真入りで掲載され、説教は仏教界とキリスト教界の重鎮によるもののみであったように思います。昔、キリスト教界の重鎮として有名であった海老名弾正とか小崎弘道(「宗教」という訳語を初めて使った人)といった人々の名前もありました。
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説教集の中で唯一心に残った山室軍平の話
 戦後しばらくは、とにかく読むものが乏しく、活字に飢えていたので、その本にも何度かは目を通しているはずなのに、今ではその内容はきれいさっぱり忘れてしまっていますが、その当時でさえ、道徳訓に毛の生えたような話ばかりに思えて、唯一の例外を除いて、心に残る話はほとんどなかったのです。
 その唯一の例外というのが、救世軍というキリスト教の変わった一派の、これも昔はかなり有名であった山室軍平という人の話でありました。
 原本はもう手元にはありませんが、昔ある場所で要点だけを紹介した草稿が残っていますので、それを参照しますと、およそ次のような話です。

 軍平師は山奥の貧しい農家の生まれで、八人兄弟の末っ子でありましたが、十五歳で上京し、印刷工となり、十六歳でキリスト教の街頭伝道に接して入信されました。
 熱心に信仰を始めましたが、キリスト教が大衆から浮き上がっていることを痛感し、十七歳の春、なろうことなら一般民衆が聞いてわかるように宗教を説き、読んで合点のいくように宗教を書きあらわすものたならせてもらいたい、と神に祈ったといいます。後に読んだ伝記によりますと、その願い通り、「平民の福音」という名著の評価の高い本を書き著したとあります。
 苦学しながら伝道に従事し、ほどなく新島襄を慕って京都の同志社に入学したが、ある時失業してしまいました。月末に食費を払うあてがなくなったので、律儀な彼はその日から食堂で食べることをしなくなりました。
 午前中の授業が終って他の学生が食堂へ行く時にも、部屋に帰って黙って座っていて、鐘が鳴ったら午後の授業に出るというようなことで、二日経ち、三日経ち、五日経ちして、土曜日になりました。
 土曜日には、いつもは大津まで歩いて出かけて、泊まりがけで伝道の手伝いをすることになっていたので、やはりいつものとおり出かけて行きました。空き腹をかかえて人通りの多いところをよろめくのも外聞が悪いというので、遠回りして、小さな山を三つほど越して行くコースを選びました。
 二つの山をようやく越して、三つ目にさしかかろうというところに竹藪があり、そこから一本の柿の木が道の上にのぞいており、おいしそうに実がなっていました。おまけに竿まで立てかけてあります。思わず叩き落とし、かじってみたら渋柿でした。その場で大地に突っ伏し神に詫びました。
 大津に着いて、その晩宿をしてくれた家で五日ぶりに食べさしてもらい、翌日は何度か集会に出て、三回とも食べさしてもらい、翌朝もう一度食べさしてもらって、京都に戻ればまたもとの絶食生活に戻ったのです。前後十一日間そういうことが続いて、十二日目の朝、ついに神様に訴えました。
 「神様もう私は行きづまりました。今日もしあなたが何とか道を開いてくださらないならば、私はもうこの上の辛抱はできにくいと思います」と…。
 すると、その祈りの終るか終わらないうちに、学校の幹事から呼び出しがありました。恐る恐る出かけて行きますと、「君は苦学生だということだが本当か」と問われました。「そうです」と答えると、「実は門番をしながら勉強する学生を一人雇いたいのだが、君はそれをやりたいか」というのです。「何分よろしく願います」ということで、十二日目にはじめて、食堂で安心して食事をしたといいます。伝記によりますと、それは明治二十三年、今から百二十一年前のことでありました。
 それから二十五年めに、山室師は朝鮮の京城、今のソウルで、その時の幹事であった金谷充という人に再会しました。
 その人は更に偉くなって、当時日本の統治下にあった京城の市長をしていたのですが、たまたまその市長を訪問した山室師は、いろいろの話を交わした後に尋ねました。「金谷さん。あなたは昔、私を学校の門番に雇い入れて下さったことをご記憶でしょうか」「よく覚えています」「それでははじめて事情を明かすのでありますが」ということで当時の始末を話し、「こんなわけで、あなたはそれと知らないで、私を飢餓から救われたのですよ」と言いますと、大粒の涙がたちまち金谷氏の両眼から流れ出ました。
 それから後、その金谷さんという人は、生きている間幾度か人に語ったそうです。「自分が一生涯になした最も善いことは、あの人が飢えに迫っているのを知らないで救うたことであった」と。

 数多くの訓話説教の中で、この話にだけは心を動かされました。自分はとてもそんな立派な心がけにはなれないと思いつつも、そこに神の働きといったものの片鱗をみる思いがしたのであります。
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母親の深い愛と祈りが山室師を育んだ
 ところで、山室師のそうした「立派な心がけ」が生まれてくるにはそれなりの訳があるのでありまして、その源は母親にあったことがわかります。
 同じ説教の中で母親について熱く語っているのでありますが、軍平師のお母さんは、この子に何もしてやれることがないというので、何様かわからないけれど神信心をはじめて、「どうぞこの子が無事に成人して、あまり人様に迷惑をかけないで何か善いことをする人間になりますように」と、朝な夕なに祈ったといいます。それだけではまだ気がすまず、わが真心の証として、当時の山奥での貴重な栄養源であった鶏卵を一生涯断つという決心をし、とうとうそのことを生涯貫いたというのです。
 後になって軍平師が「お母さんの祈りはもう神様に届いています。また神様は私を助けておいでなさる。私は必ずなんとかして世の中を益する者になりたいつもりでおりますから、もう安心して卵でも何でも食べられる時には頂いて、長生きして私たちの末を見とどけてください」と何回すすめても、「理屈はそれですむかも知れないが、私の真心が承知しない」と言って、頑として応じなかったとあります。
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同じ頃「湯川安太郎信話」とも出会う
 さて、それと同じ頃、強烈なインパクトを持つもう一つの説教集に出会いました。玉水教会初代湯川安太郎師の信話集であります。偶然最初に手にしたのが第二集でありましたが、後から思えば、十冊近く出版された信話集の中でも、とりわけこの第二集がインパクトが強いのです。
 どうやって調べたのかはもう忘れましたが、湯川師の入信もまた、奇しくも明治二十三年の暮のことでありました。十八歳の山室師が京都で食うや食わずの生活をしていたちょうど同じ頃、大阪では二十一歳の湯川安太郎青年が、重病の床についていました。
 病名は定かではありませんが、当時の医療水準では、半年間養生しても経過がはかばかしくなく、ついに衰弱して寝返りもできぬほどになり、医師からも見放されてしまったのです。
 信心嫌いであるけれども孝心の厚かった湯川青年は、このまま親を置いてはどうしても死ねないという気持ちから、神様になと頼るしかないと、いろいろ頼る目当てを物色したあげく、「天地金乃神」という神名を思い出し、寝床の中からその神に向かって祈りました。
 「私はまだ死ねません。親に果たさねばならぬ役前が残っております。どうぞお助け下さい」とくりかえしくりかえし祈りました。薬を飲むこともやめてしまって一心に祈ったのです。
 するとその翌日、まるで芋を蒸すような熱が出、多量の汗が出始めて昼夜に六枚の寝巻がズクズクになりました。とりわけ臍のあたりから臭い匂いのするウミが出るようになってから、七日間で気分がよくなりました。
 そこで、人が止めるのも聞かずに床屋に行って散髪をしてもらい、絶食十四日間の衰弱体で、風呂にも入れてもらい、ヤッサモッサの末正月を迎えました。そして一日に雑煮を二杯食べ、二日には四杯食べて、そのまま仕事(初売り)に出かけました。
 それが湯川師の「一を信じたら二を信じ、二を信じたら三を信じる」という信心の始まりでありました。(「一つ信じられたら二つ信じます。二つ信じて三つ信じられないことはない」という言い方もなさっています)
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徒手空拳でも生きていける希望を与えられる
 そういう行き方の信心から起こされた奇跡の数々が信話集には出てくるのですが、私はとりわけ第二集の中の次のような話に心を魅かれました。そこにカゴ一つとゴザ一枚で小売り商売を始められたという話が出てくるのです。
 「剣先するめを買え」という神様のお知らせで(信心をはじめて十一カ月で、神様からものを教えてもらうようになったと思われるようになられたとのことです)、湯川師は「そんなもの売れるものか」と人から笑われながらも売りにまわられました。
 案の定、十二三軒まわってみたがさっぱり売れません。思案にあまって四つ辻に立ってお伺いをされると、「色街へ行け」とお知らせがありました。それで新町、堀江と当時の色街を三百軒近くまわってみましたが、やっぱり全然売れません。それでもその時湯川師はあまり落胆されませんでした。「まだ大丈夫だ。今ちょうど四時だから、日が暮れるまでには、二時間ある。何でもその間におかげ蒙ろう。行くところまで行きつけばきっとおかげが蒙れる」と、はりきる思いでまわり続けられたら、その時を境にバタバタっと売り切れてしまったというのです。
 粗筋だけをたどればこういう話でありますが、この話といい、先の山室師の話といい、それが当時の私の心に強く響いたのは、いわばそれらが私に「徒手空拳」でも生きられる術を教えてくれ、生きられる希望を与えてくれるような気がしたからであろうと思います。
 二十歳頃の私は、気持的には天涯孤独、無一物、人生の意味目的目標喪失状態、絶体絶命の落ちこぼれ状態でありました。そういう八方塞がりのような状態の中から、生きていける一縷の望みを見いだしたような気がしたのであります。
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信心すればしただけのことは必ずある。それがいちばん安心な生き方
 そういうお二人の話をはじめ、いろいろな人達の教えや話に触れることで、自分でも神信心をさせてもらうようになり、おかげも受けるようになったのでありますが、そういう自身の体験はすでに語ったことがありますし、改めて語るには時間とエネルギーを要しますので、今回は控えさせて頂きます。関心とパソコンをお持ちの方は、教会のホームページを覗いてみてください(「1 おあてがいのままに」他参照)
 人間、信心するのもしないのも自由ですが、ただ、今日までいろいろと経験を積ませてもらって自信をもって言えることは、すればしただけのことは必ずあるということです。それが、どんなに苦労があっても、いちばん安心な生き方です。
 金光教祖も「戸締まりをして家の内に寝ていても、信心がなくば野中に寝ているも同然と思えよ」と言っておられます。
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神と人との関係は、親子関係で理解するのがやはり一番妥当か
 金光教祖はまた、「此の方の信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである」と言っておられますが、神様の御心であるとか神様と人間との関係であるとかは、親子関係で理解するのが、やはり一番平易で妥当性が高いように思われます。たとえ人間の親がどれだけ欠点だらけであってもです。
 山室師も同じ説教の中で次のように述べています。
「過去四十年来私にとって、神様が厳としておわすのみならず、それが慈愛の父上だということを目にみるごとく信ぜしむるものがあるとすれば、それは母の愛がその信仰を私に与えたのである。弱い水呑百姓の妻であった私の母にすら、あれほど高貴なる犠牲的の愛を授けたものは、母にも優る大なる愛の持ち主でなくてはならぬ。即ち私共の親にも優る親がこの天地を主宰して在ますに違いないと、こういうふうに考えてみると、それが他の人に通用するか否かは別として少なくとも私自身にとっては、これくらい有力な有神論はないのである。即ち私は母の愛を通じて天の父を見、また天の父を見ることによって母の愛を、今更のように深く心に感銘しているのである」

 こういう神観は、キリスト教独自の教義から出たものというのではなく、どの宗教にも通用しそうな極めて普遍的な神観です。私は特定の宗教の特定の教義を信じなければ救われないと説く人の話には全く興味がないのです。
 また、母親が「何様かわからないけれど神信心をはじめて、…朝な夕なに祈った」というのがいいですね。このようなことは、どのようなルートから拝んでも通じる普遍的な神様、というものの存在を肯定しているからこそ言えることなのです。
 そういう普遍的な神様についてなら、「慈愛の父上」とか「一生死なぬ父母」とか、喩え方の違いはいろいろとあっても不思議ではありません。
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信心とは「我が心が神に向かうこと」に尽きる
 その信心ということを一口で言うなら「心が神に向かうこと」に尽きると思います。すなわち信心とは形ある一切のものを生み出す目に見えない力(神)と向き合おうとすることです。要するに自分の製造元と向き合おうとすることです。目に見えない力に頼りすがり、問いかけることです。その上でその力を信じ、その力に任せ、感謝することであります。
 その向かう気持ちの強さに応じて、こちらから押す力に応じて押し返してくださるのです。小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響いてくださるのです。
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信心するからといって、気の進まぬことを無理矢理願う必要はないし、自分を偽ることもない
 それも、気の進まないことを別に無理矢理願う必要はないのです。その時その時で、心の底から本気で願わずにおれぬことを願えばよいだけです。そのためには、自分自身が本当は何を望んでいるのかを知るため、つねに自分自身と向き合えばいいだけなのです。
 そのことをはじめて私に教えてくれたのが、高橋正雄師の「心の底から生まれたがっているものを生まれさせよ」という言葉であり、また湯川安太郎師の「願いはありのままをありのままに願えばいいんです」といった言葉でありました。
 正雄師は(「正雄先生」と、皆よく言い習わしていたのです)、ご自身のある願いについて(私などがここに気楽に引用するのがはばかられるくらい立派な願いでありましたが)、それがかなえられるかどうかはわからないけれど、それを願うことなら心の底の底から本気でできる、命がけでできると言われ、実際、生涯その願いに添って生きられました。
 私はその正雄先生の願いの内容はさておき、各自が願う中味の、どうしてもそのことを心の底から本気で願わずにおれないという、言わば「内的必然性」ということにむしろ注目しました。私は、人間の内部にはそういう願いが授けられてあるのだ、ということをその時初めて知った、と言うか、確信できるようになったのです。そしてそういう願いに目を向けながら生きようとすることができるようになっただけでも、自身にとっては画期的なことでありました。それ以前はそのようなことは考えたこともなく、なんとなくまわりの空気や要求に流されて生きていただけでしたから…。
 それが、自分自身と本気で向き合うようになると、それまでに教育されたり、しつけられたり、刷り込まれたりしていた考えが、かなりいいかげんで、無責任で見当外れであることにも気づくようになりました。
 また、それまではなんとなく信心というものは、背伸びしてでも、道徳的な振舞や立派な行ないをするように強いたり、さもなければ幼稚な現世利益のみを追求するものだというイメージが強かったのですが、信心するからといって別に自分を偽る必要はないし、取り組み方次第では、現世利益のようなものも大切な取り組みの対象となり得ることがわかって少し安心しました。
 そして、こういう高橋師や湯川師の言葉も、もとをたどっていけば金光教祖に行き着くところが、また有り難いと思うのです。どちらも教祖の「身の上のこと何なりとも実意をもって願え」という教えを、それぞれの流儀で消化吸収し、自分のものとされたように受け取れるからです。
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他宗教に帰依していた方がよかったと思ったことは一度もない
 最初にキリスト教の人の話を持ってきましたけれども、かといって私は、これまでに自分の帰依する宗教がキリスト教であった方がよかったとか、或いは他の宗教であった方がよかったとか、一度も思わずに来れたことを、とても有り難いことであると思っています。
 理由はいろいろとあるのですが、その一端として、私が次のようなことを言い出してからもう二十年以上になります。それは金光教祖の説かれた信心の基本的な特徴として、次の四点が考えられるというのです。ふだんは半ば忘れかけていて、何年かごとにおさらえをするのですが、なかなかすらすらと出てきません。それでも、考えそのものは今も変っていないのです。
1 時間と場所と施設を問わず、いつでもどこでもできる信心
2 連れのいらぬ、一人でもできる信心
3 金も物もいらぬ、素手でできる信心
4 特定の儀式儀礼にとらわれぬ、形にしばられぬ信心

 すなわち、基本は、いつでもどこでもそのままの姿で、神様とじかに向き合える信心だということです。職場からでも、便所の中からでも、寝床の中からでも、必要なら何でも願えばよいし、お礼を申せばよいのです。そして、死に際に至るまで、神様に心を向け神様に願うことには意義があると教えられているのです。
 ですから、極端な例を挙げますと、仮に誰ともどんな団体とも関わりを一切持ちたくない、ただ一人で信心したいと思うヘソ曲がりな人がいるとしたら、そういう人にでもできる信心だということなんです。
 そのことの善し悪しは別としましても、基本がそうであるということは、大いに私の気に入っているところなんであります。
 しかしながら、基本はそうであるとしても、人間一人で生きるのではありませんから、その上で、自身の必要に応じて、いろいろな人や組織や場所との繋がりを「付加価値」として選択していけばよいのであります。
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心を神に向けるため教会はある
 その付加価値の第一として、まず、教会というものがあります。そこは心をいちばん強く神様に向けやすい場所です。また教会に足を運ぶことによって、神様を忘れないでいられたり、なお一層神様に心が向いていくということがあります。或いは、神様に強く向かう心が、教会に足を運ばせるということもあります。金光教祖は、少年時代から、宮寺にお参りすることが何よりも好きであったそうです。一教の開祖となる程のお方はさすが違います(「付加価値」という言い方、考え方に抵抗を覚える信奉者もおられましょうが、別に固執はいたしません。もっと適切な言い方、考え方があれば教えてください)。
 教会にはまた信心の世話をしてくれる教会長、教師がいて、信心することの意義や仕方について(知っていることを)教えてくれたり、悩み事を聴いてくれたり(時には助言をしてくれたり)、その人全体を見守り祈ってくれたり、願い事を神様に取り次いでくれたりします。自分が祈っておかげが受けられるということと同時に、人から祈られておかげが受けられるということも大いにあり得るのです。
 そうなると、「素手でできる信心である」と言いましても、そういう教会の維持存続のため、応分のお供えはせずにおれなくなりますが、その点についても教祖は、あくまでもお供えする人の真心のみを重視し、取次者に神様を商法にすることをきつく戒められました。そのため今日に至るまで、教団の純粋性が割合に保たれていると言えるのであります。
 また、参拝者同士の横の繋がりというものも当然生まれてきます。「信心に連れはいらない」という教えは、連れがなければお参りできないというような自立心のなさを戒められたもので、自立した信奉者同士が仲良くしたり、連帯して何かを行なうということは、たいへん結構なことなのです。
 また「形にとらわれない信心である」と言っても、教会では団体行動としての儀式・作法というものも生まれてきます。信奉者の神様に対する敬意や祈願や感謝の気持ちを表現するのに、その時点で最も相応しいと思われる所作や式次第が考え出され、約束事として皆がそれに従うのです。そういう儀式に参加することは、自身のためであると同時に、布教の御用につながり、神様への御恩返しにもなります。
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家にも一人一人が神様と向き合える場所を
 できることなら、それぞれの家にも神様に一番心を向けやすい標、神様を大切に思う気持ちを具体化する標、すなわち神棚や御社のようなものがあった方がよろしい。更に欲を言えば、家族一人一人がいちばん神様と向き合いやすい場所を確保できることが望ましいのです。
 家族の中に一人でも信心するものがいれば、それだけ一家は繁栄に向かいますが、信心は一人一人がするのがやはりいちばん望ましいのです。祈られて助けられるということもあるにはありますが、食事や排泄と同じで、どうしても他人に代わってもらうことができない部分があります。と言うより、そんな部分の方が圧倒的に多いのです。ですから、できることなら子孫や信者さんの子弟、一人一人全員に信心を伝えたいのであります。
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おあてがいのままに生きるのがいちばんラク
 人間はまた、あてがわれてあるものが一人一人みな違います。能力も性格も境遇も一人一人違います。信心して、「おあてがい」のままに、「おあてがい」を活かしつつ生きるのが一番ラクな生き方です。
 流れに逆らってじたばたしても、どうにもならないことの方が多いのです。信心は、流れに身を任せながらうまく浮くコツを会得させてくれます。但しラクな生き方と言っても、苦労がなくなるわけではありません。何をするにしても苦労は避けられませんが、信心すれば、苦労が大きければ大きいほど味わえる喜びも大きいのです。また、自分の無力さを思い知れば知るほど、有り難さもましてきます。何事にも感謝する気持ちになれます。それがまた更なる幸せを呼び込むのです。
 私自身、それ以来、教会育ちという「おあてがい」の中で、自分に何ができるのか、何をしたいのか、何をしなければならないのかを、つねに神様と自身に問いかけながら生きてきました。
 しかし問いかけるといっても、湯川先生のように直接答えが返って来るわけではありません。常に「片便で願い捨て」です。それでも、そのようにして思いつかせてもらったことや、する気にならせてもらったことは数限りがありません。
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祈れること自体が、神信心することから得られる根本的な救い
 それに何よりも、そういうことができること自体に、言い知れぬ心の安らぎがあるとは、私のみならず、多くの信者さんが述懐されるところであります。まさに「一生死なぬ父母に取りついたと思うて、何事でも無理と思わず、天地の神にすがればよい」ので、それこそがまさに、神信心することから得られる根本的な救いであると、実感的に言えると思います。
 そのように生きて五十年余り、これといって人様に誇れるような業績はありませんが、どうにかこうにか自分らしく、というか、おあてがいのままに今日まで生き延びさせていただいたことだけでも有難く思います。
 教祖様は「わが身、わが一家を草紙(練習帳)にして、神様のおかげを受けて人を助けよ」と言われましたが、「わが身を練習帳にして神様のおかげを受ける」ことまではできても、人を助けるということまでがどこまでできたか、我ながらはなはだ心許なく思います。
 しかし、あの大秀才の高橋正雄師(一族からその後芥川賞作家をも輩出した家系です)にしてから、助かるとはどういうことかはっきりしない、というような意味の発言をどこかでされたらしいのです。人が助かるとか、人を助けるとかいうことがどういうことなのか、つきつめて考え出すと、なかなか一筋縄ではいかないのであります。
 私に多少なりともできたと言えるのは、後に続く人たちが信心のしやすくなるような、物的ならびに精神的な環境を整える努力が少しはできたかな、ということぐらいであります。
 物的環境を整えるということでは、ささやかながら教会の建て替えをさせていただき、それ以前よりは、施設がすこしは小綺麗で機能的になりました(それとて、もちろん私一人の力ではありませんが)。
 精神的環境を整えるということでは、これまでしてきたことや考えたことをできるだけ書き残すようにしてきました。ホームページを設けて、それらの一部を読んでもらえるようにもしました。もともとは自己顕示が苦手なのでありますが、敢えてそういうことでもしないことには、布教者としての役目が果たせそうにないのであります。
 これとてどこまで人様の役に立つかはわかりませんし、読む人によってはかえってお邪魔になっているかもしれないのでありますが、せめて私と同じようなタイプの人たち(もともと教会などには寄りつかないようなタイプの人たち)が、少しでも信心しやすくなるようなお役に立てれば有難いと思うのです。
 教団的にも、昭和五十八年の教祖百年祭の年に、新しい本格的な教典が刊行され、儀式や拝詞も、借り物色の強いものから、本教の信心の内容をより強く反映したものに改められて以来、ずいぶん信心がし易くなったと、私などは考えています。
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一年まさり代まさりの幸せを得よう
 「信心をさんせい(「しなさい」の岡山弁)。一年一年とありがとうなるぞ」とも言われます。
 神信心によって得られる、根本的な救いとか幸せという点では、万人共通でありますが、同じ信心をしても、あてがわれる具体的な救いとか幸せとかは、人により様々です。
 或いは、信心するということは、すでに授けられてある大きなお恵みや幸せに気づかせられていく過程でもあります。また、それに気づくことが、更なる幸せにつながっていくのであります。私の場合も、信心させてもらったおかげで、些細なことに見えたようなことにでも、しだいしだいに大きな幸せを感じるようになりました。
 先の教えのように、年月を経てはじめて味わえる幸せもあります。
 私の場合、若い頃は極度の孤独感と心細さにさいなまれていましたので、少々無理をしてでも、自分自身の家庭を持つということが最大の救いであり、励みでありました。
 それには当然言い知れぬ苦労がついてまわりましたが、それだけになお、五十年目の今年になって、免許とりたての大学生の孫が運転するレンタカーにはじめて乗せてもらってドライブした時、大きな幸せを感じました。「独りぼっち」からの出発であっただけに、そのことが、長年の信心の末授けられた幸せの一つのシンボルのように思えたのであります。
 現在もまた独り暮しであるにもかかわらず、淋しさや心細さをほとんど感じないでいられることを、この上なく有難く思います。人間というものはどこまで行っても結局は孤独なのだ、という考え方もあるにはありますが、それはまた別個の問題です。
 また、「代まさりのおかげを受けよ」とも言われます。
 これは、子供や孫のない人にとっても、けっして無関係な教えではないことをまず断っておかねばなりませんが、何にせよ、自分ができなかったことを子孫ができるようになるのは嬉しいものです。たかが運転免許のようなものであっても、私自身はとうとう免許を取れずに来てしまいましたので、息子や娘の運転する車に乗せてもらった時も、同じように嬉しく有難い気がしました。
 子孫をはじめ次世代の人たちには、信心するにつけても生きていくにつけても、自分たちがしたような苦労はさせたくないと思います。そのかわり、そういう我々を踏台にして、信心しながら更なる上の苦労を求めてほしいと思うのです。
 そのようにして、次世代の人たちにも一年まさり代まさりの幸せを得てほしいと切に願うと同時に、更には死生の安心をも得てほしいと願うのですが、その話もまた別の機会にゆずることにします。
 最後に次世代の人たちに贈りたいのは、教祖様の次のような教えです。信心というものの基本を、これほど的確に平易に具体的に言い表した言葉を他に知りません。

 「信心といっても別にむずかしいことはない。親にものを言うように、朝起きたらお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる」
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談話室より
 坊っちゃん(男39歳)H.24.3.28

 『次世代に手渡したい信心』を読ませて頂いて、自分の身の上を振り返ってみますと、自分自身は広い意味で、宗教や宗派を問わず、『宗教心的なもの』、を先祖から引き継いだのかもしれないなと思っています。
 私の家や親戚一同はと言いますと、それぞれに宗派はあるものの一般的な仏教の家系ですので、どっぷり家の宗教ごと金光教ということではありません。仏教の家系でありながら、金光教の信仰にも熱心だった祖母の影響で、物心ついた頃から拝む対象というのが仏さんだったり、金光さんだったりしました。そして、神社に行けば神社の神様だったり、キリスト教会へ行けば横文字な感じの神様だったり、トイレに行けばトイレの神様だったり……(笑)。
 いい意味で、そこらへんは曖昧な感じなんですね。ま、極めて日本的と言っちゃあ、日本的なのかもしれませんね(笑)。
 先生のお話に照らし合わせてみますと、おそらく、『何様かは分からないけれども、どのようなルートから拝んでも通じる普遍的なる神様的な目に見えない大いなるもの』に、子供の頃から手を合わせたり、祈っていたんだろうなと思います。

 そういった流れで、私自身も、『どの宗教にも通用しそうな極めて普遍的な神観的なもの』、が好きであったり、特定の宗教の特定の教義を信じなければ救われないと説くような人たちの話には全く興味がなかったりします。
 早朝、カソリック教会のラジオ放送でおっしゃっている、『心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も、相手の胸に響かない』、という聖パウロの言葉が好きだったり、『暗いと不平を言うよりもすすんであかりをつけましょう』、という呼びかけも好きだったりします。
 だからと言って、カソリック教徒になろうという飛躍した話にはならず、宗教や宗派を問わず、いいお話は生きていく上での参考にさせて頂きたいなと思っています。

 金光教祖の説かれた信心の基本的な特徴として、先生も挙げられています、

(1) 時間と場所と施設を問わず、いつでもどこでもできる信心
(2) 連れのいらぬ、一人でもできる信心
(3) 金も物もいらぬ、素手でできる信心
(4) 特定の儀式儀礼にとらわれぬ、形にしばられぬ信心

 という四点は、いつでもどこでもそのままの姿で、神様とじかに向き合えるということで、ほんとありがたいなぁと思っています。
 極めて自分勝手な宗教心しか持ち合わせていない私ですが、『おあてがい』の中で生かされている命と向き合い、日々お礼を申し上げながら過ごさせて頂くという営みは、大切にしていきたいなと思っています。

 教会長より

(1)~(4)までのような感覚を共有できる人となら、他宗教の人であっても仲良くなれそうですし、同じ教団内であっても、そういう感覚を共有できる人は必ずしも多くありません。
それでも、この教内で、いろんな方たちの祈りの傘に幾重にも覆われてあることに感謝し、そういう縁を大切にしたいと思っています。


S.Sさん(男 50代)H.29.10月

 初めてメイルをします。普段はシンガポールに住んでいます。
 大分遅いですが、最近このホームページを知りました。
 特に二十章の内容は驚きとともに感動しました。
 特に以下です。
 (1) 時間と場所と施設を問わず、いつでもどこでもできる信心
 (2) 連れのいらぬ、一人でもできる信心
 (3) 金も物もいらぬ、素手でできる信心
 (4) 特定の儀式儀礼にとらわれぬ、形にしばられぬ信心
 教会のない海外の地域に住んでいても、インターネットで信心を進められる時代だと思います。教会に行くと付加価値があるということも面白いと思います。お徳?
 実戦に弱く本で勉強していますが、もう一段、教祖様や直信の方々の言いたかったこと、秀でた方の知恵を身に着けたいと思っています。

 教会長より H29.11.21
 Sさんからのこの便りが絶妙のタイミングで届いた経緯は、「32廃れることのない信心」で紹介しています。「特定の儀式儀礼にとらわれぬ、形にしばられぬ信心」という表現も、ほんの少し変えてみました。併せてお読み頂ければ幸いです。
 その後もSさんとのメールの遣り取りは続いています。
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