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金光教高田教会、我が信心を語る
22 絶対他力、絶対信、絶対感謝
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 問題山積でも感謝すべきことはいっぱいある
▲ 最初に救ってくれたのが絶対他力と絶対信の信心
▲ 絶対感謝が加わるようになったのは三十代も半ば
▲ 感謝の念が絶対信を保持するための優れた補強材に
▲ これら三つで、どんなところでも通っていける
▲ 国や教団についても、喜ぶべきところ,誇り得るところにまず目をつける
▲ 平均寿命こそが、国民の幸福度を示す唯一の物差し
▲ 世界一を喜ばず、不平タラタラに違和感 
▲ 「身捨つるほどの祖国はありや」の歌が嫌いに 
○ お金にまつわるいささか滑稽な苦労話
▲ できることは何でもさしてもらうのが他力の信仰
▲ 宝くじの一枚買いをはじめた
▲ 公衆トイレの清掃をはじめた
▲ 株の売買もはじめた 
▲ 思わぬところから援軍が 
▲ 株取引も、無駄にはならなかった
▲ 折も折、株式投資のお届け 
▲ 生きた神様のお働きを感得したい
平成二十五年十一月九日 大阪市 真砂教会にて
 私もいつのまにか七十と六歳にしていただきました。
 若い頃は、その年頃はといえば、すっかり枯淡の境地で、隠居状態になってしまっているように思えたのでありますが、相変わらず気持ちは殆ど若い頃のままですし、いまだに問題山積、前途多難、「日暮れてなお道遠し」の感があります。己の無力さを思い知らされぬ日は一日たりとてない、というのが、何か話をさせてもらう際の常套句のようになっております。
 話を聞いていただくといいましても、たいした実績があるわけでも、格別立派な行いができているわけでもありませんし、人様に自慢できるようなことは、あまりありません。
問題山積でも感謝すべきことはいっぱいある
 とは言いましても、この齢になりますと、もう、生きていられるだけでも有難いと思ってしまうのです。その上、元気でおれたらなおのこと有難いのです。
 そうして、いろいろと仕事上の悩みは尽きぬにいたしましても、ごく平凡な日常生活が維持できていさえすれば、何も思い煩うことがないのではないか、とさえ思えてくるのであります。
 朝目が覚めて、起き上れることが、まず有難いです。食欲があり、何を飲み食いしたいとか、何を買い求めたいと思いつくことが出来るのが有難いです。簡単な料理なら、面倒くさがらずに自分で作る気になれるのも有難いです。要するに、まだ気ままな独り暮らしがさせてもらえることが有難いのです。
 今でも、一日に4キロ余りは歩かしてもらうことができます。逆に、長時間神前で腰かけさせてもらうこともできます(お尻の痛みと闘いながらも)。
 視力聴力は格段に衰えましたが、メガネのおかげで、活字が読め、テレビもパソコンも見ることができます。世の中の動きや、人間そのものへの関心が薄れることもありません。
 その上、今年から、娘の一人が買ってくれた高価な補聴器を使わしてもらっています。自分からは、とても手が出るようなものではありませんが、いよいよ聞こえなくなってからでは、もう効果がないのだということで、有難く使わしてもらうことにしました。
 このように、問題山積、前途多難の中にも、感謝すべきことはいっぱい見つけることができるのです。どのような困難な状況の中にあっても、感謝の念だけは失うまいと心がけております。焦っても仕方がない、日々を感謝感謝で暮らしたいという思いがますます強まりつつあります。感謝の念を持ち得ること自体が、私にとって大きな救いとなっているのであります。困難に立ち向かう元気のもとにもなってくれるのであります。
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最初に救ってくれたのが絶対他力と絶対信の信心
 もともとは私は、そんなに感謝の気持ちの強い人間ではありませんでした。不平不満のかたまりでした。信心させてもらうようになってからでも、自分に都合がいいと思えることにしか、感謝する気になれませんでした。感謝ということを頑なに拒んでいるところがありました。これで大満足、何の心配もないと言える状態にこぎつけるまでは、安易に感謝などしないぞ、という気分でありました。それだけ危機感、切迫感が強かったのだとも言えます。
 最初に私を救ってくれたのは、絶対他力の信心、すべては自分の力でするのではない「させていただく」のだ「させてくださる」のだという信心であり、もう一つは、言わば、湯川安太郎先生に代表されるような絶対信の信心でありました。
 言うまでもなく、私どもの場合、それらはすべて金光教祖様に発するものであります。不完全ながらも、それらの信心の身につき具合によって、今日まで一貫して、実際に救われてきてもいるのであります。
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絶対感謝が加わるようになったのは三十代も半ば
 そこに絶対感謝の信心というものが加わるようになりましたのは、やっと三十代も半ばを過ぎた頃でありました。それも、いわゆる「おかげ」というものを受けるために、なぜ感謝が必要なのかということを、いまだに論理的に説明できないでいるのですが、自身の感性として、そういう教えを受け入れるようになったとしか言いようがないのです。
 その最初のきっかけは、昔、九州芦屋教会に日吉績という先生がおられまして、感謝の信心ということを熱心に説いておられた、その教えに接したことと、自身が腰を痛めて、「当たり前」ということのありがたさを身に染みて感じさせられたことにもよります。
 全てのことを感謝で受けとめる、という絶対感謝の気持ちが、どうして幸せを呼ぶのか、論理的合理的な説明はむつかしいのですが、多くの人々が、経験的な知恵として、その事実を「発見」してきたのです。
 私がこれまで接した説明の中で、いちばんスケールが大きくて魅力を感じましたのは、これはこの道の人ではないのですが、ある人の、「有難うをいっぱい言うことが、宇宙に気に入られ、宇宙を味方につける一番の方法だ」という意味の言葉でした。
人間にとって都合がよいと思うことも悪いと思うことも、大きく見ればすべて善きことの実現のためにあるのだから、起こりくること全てに感謝することが宇宙の意志にかない、不平不足に思うことは、それだけ宇宙を敵にまわすことになるというのです。
 自分たちがいつも使っている神様とか、天地とかいう言葉を、単に宇宙という言葉に置き換えただけのことなのですが、それだけで私には、妙に新鮮に説得力を帯びて響いたのです。
 いずれにしましても、感謝ということにさえ説明がいる、という固定観念からも離れた方がよいという気がします。救われるから有難い、有難いから救われる、どちらもありでいいじゃないかと思うのであります。
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感謝の念が絶対信を保持するための優れた補強材に
 その感謝の念が、また、絶対信を保持するための優れた補強材の役目をしてくれるのであります。
 強い信念が何故良い結果をもたらすのか、奇跡をもたらすのか、救いをもたらすのか、といったことの納得のいく説明は、これまたむつかしいのですが、事実としてそれが欠かせないものであることだけは、よく知られていることです。私もまた、実際にそれでいろいろとむつかしい状況を切り抜けさせてもらいましたので、これまでずっと、絶対信の信心がより一層身につくように努めてきました。信念を強くするために、いろいろと工夫も試みてきました。神様にお願いした以上は、どうなろうと一切心配しないように、恐れないように、失望落胆しないように、あせらないように、そして、けっしてあきらめないようにと、自分に言い聞かせてもきました。
 それでも、いつまでたっても、そうしたマイナスの働きをする感情を、完全に追い払いきるのはむつかしいのです。いくら追い払おうとしても、あとからあとから湧いてくるのであります。
 ところが、何にでも感謝するということの方に力を入れておりますと、それほど力まなくても、結果的に、そうしたマイナスの働きをする感情を封じ込めることができていることが多いということに気が付いたのであります。単独に信念だけを強くしようとしても、不安な気持ちを追い払うのはなかなかむつかしいのに、感謝の念が、比較的容易に不安を和らげ打消してくれ、元気を与えてくれるのであります
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これら三つで、どんなところでも通っていける
 年取った今は、できるだけ単純に生きていきたいと思っております。取り巻く状況が複雑困難であればあるほど、心構えとしては単純でありたいと思うのです。絶対他力、絶対信、絶対感謝、これら三つで、どんなところでもすべて通らしてもらうしかないと思っています。通っていけると思っています。
 それらを自分の実感に即してごく単純に言い替えますならば、
 絶対他力といいますのは、「あせらずに自分にできることのみをさせていただく、おあてがいのままに生きる」「できないことまで無理にしようとして苦しまなくてもよい」ということであり、
 絶対信といいますのは「神様は必ず願いを聞き届けてくださる、力を貸して下さる、お任せすればけっして悪いようにはなさらない」ということであり、
 絶対感謝といいますのは、「日々に授けられるもの、身の回りに起こること、すべてが有難いのだ」ということになろうかと思います。
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国や教団についても、喜ぶべきところ,誇り得るところにまず目をつける
 ところで、「問題山積、前途多難」ということは、単に私個人の身の上だけのことではなく、教団についても、日本国についても言えることであろうと思います。しかし、これらについても、私はまず、喜ぶべきところ、誇りうるところに目をつけたいと常に思うのです。
 一つだけ例を挙げるとしますならば、今年もまた、日本の女性の平均寿命が世界一であると発表されました。かつては男性も世界一でありましたが、今は5位くらいに後退してしまいました。それにしてもたいしたものだと思うのであります。
 それが山岳地帯の特殊な部落の住民の平均寿命というのではなく、或いは数百万、数千万程度の人口の国家の平均でもなく、一億を超す国民の平均値なのです。そのことをもっともっと喜び、誇りに思ってもいいのではないかと思うのですが、大方の人もマスコミも何とも思っていないらしいばかりか、時には、それさえも不足や批判のタネにしている人たちをみかけたりするのは、私には実に奇妙なことに思えてならないのであります。
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平均寿命こそが、国民の幸福度を示す唯一の物差し
  と言いますのも、私は、平均寿命こそが、国民の幸福度を示す唯一の客観的な物差しであると思っているからです。それ以外の物差しによる統計はすべて主観に過ぎません。それぞれの考え方次第で、或いは国民性によって、数値はいくらでも変わるのです。
 何故そう思うのかとかと言いますと、人生の形式上の目的は「生きる」ということそれ自体であると思うからです。バスケットボールの選手のすべての動きが、あの丸い輪に球をいれるための動きであるのと同じ意味で、すべての人は生きるために生きているのです。その営みにどういう意義を見出すかは、人によって千差万別で、私たち信奉者にとっても重要な課題ではあるのですが、生きるために生きるという点だけは万人共通なんです。
 その生きる寿命が長いということは、とりもなおさず、総合的に見て、生存に適した快適な条件に恵まれていたということでありまして、平均寿命が長いということは、理由の如何を問わず、国全体がそういう快適な条件に恵まれているということなのです。
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世界一を喜ばず、不平タラタラに違和感
 そのことに対する感謝や誇りの気持ちを全く持たずに、どこかの福祉国家をうらやんでみたり、国民総幸福度世界一を目指す小さな国をもてはやしてみたりする人たちをみますと、私はものすごい違和感を持つのであります。
 そうは言うものの、その長寿に問題ありとするならば、それが、一つには、分不相応に恵まれた医療保険制度によってもたらされているという点です。ということは、膨大なツケを子孫にまわした上で成り立った長寿なのです。それなのに、苦心してその費用をけずろうとでもしようものなら、不平タラタラです。そういう老人の声を、この間もあるテレビ番組で放映して不満をあおっていました。、私はそれにも大きな違和感を持ちました。
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「身捨つるほどの祖国はありや」の歌が嫌いに
 国家・社会に批判の目を向けるということは大事なことだとは思います。しかし、自国に対する感謝や誇りの気持ちを欠く批判精神は、あまりいただけません。
 例えば、寺山修司という人の短歌に「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」というのがあります。これがこの人の歌の中では人気ナンバーワンなのだそうです。
 後半の部分は、この国は我が身を捨ててまで守るに値する国だろうか、いや、そうは思わない、というくらいの意味で、過去の歴史に対する反省などを踏まえての歌でありましょう。若い頃なら、私もこの歌が気に入っていたかも知れないのですが、歳を重ねるにつれて、私はこういう発想がもてはやされるのを、だんだん不愉快に思うようになってきました。小賢しいと思うようになりました。
 別に身を捨てろとまでは言いませんし、今はその必要もなかろうとは思うのですが、この祖国が好きで、かかえる過去の如何にかかわらず祖国を愛するようになった昨今、こういう言い方をされると、いい気がしないのであります。
 いかに国家や教団が問題山積、前途多難でありましょうと、私は、いつも嬉しく有難く元気な心でいたいのです。我が日本国のことにつきましても、感謝すべきところ、誇れるところにまず目を向けたいですし、ましてや、大恩あるこのお道この教団に対しましては、感謝の念は限りがなく、誇り得るところがいっぱいあると思っているのであります。
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○ お金にまつわるいささか滑稽な苦労話
 話を個人的なことに戻します。先に述べました絶対他力、絶対信、絶対感謝の信心ということの、いささか滑稽ながら、私なりの近頃の取り組みの一端を聞いていただくことにいたします。
 お金にまつわる苦労話なのでありますが、やっと今一息つかせてもらっていますので、それを機会にそのことをとりまとめてみたいと思うのであります。
 昔、この真砂親教会のご近所の老松町というところで、私のご先祖が天王寺屋という系列の両替商を営んでおりました。そういうめぐりを背負ってのことかどうか定かではありませんが、若い頃からお金の苦労だけは尽きません。
 そういう中でも、何とかおかげを頂きまして、教職舎とお広前の建て替えをさせていただきました。そういう、教会としてのやりくりの苦心とは別に、もう6、7年以上前にもなりますか、個人的な事情で、毎月かなりのお金が要ることとなりました。
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できることは何でもさしてもらうのが他力の信仰
 教会のお下がりの一部を給与として使わせていただくのと、国民年金以外に個人収入の当てはありません。ただただ神様にお願いし、おすがりするしかないわけでありますが、いま聴いていただいたような、絶対他力の信仰といいましても、ただ単に願うだけで何もしないで手をこまねいているというのではなく、その願いに添って自分にできることがあれば何でもさしてもらう、というのが他力の信仰なのだと私は思っているのであります。
 かと言って、できることは何も見つかりません。と言うより、余計な心配は一切せずに、本来の御用にますます打ち込む以外に、できることなど何もない、というのが、多分この道における模範解答なんでしょう。正論なのでありましょう。そうではありましょうが、凡夫の身としましては、他にも何か手段がありはしないかと、探さずにはおれなかったのです。
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宝くじの一枚買いをはじめた
 辛うじて、すぐにもできることとしてまず思いつきましたのが、こんなのが手段というに値するかどうか、甚だ疑問ではありますが、宝くじの1枚買いということでありました。
 それまで、宝くじを買うなんてことは、愚かしいこと、見苦しいこと、恥ずかしいこととして一度もしたことがなかったのですが、初めて、そんなものでも買わずにおれぬ気になったのであります。主として親教会参拝の折、私鉄のターミナルの売り場で、普通の宝くじと、結果がすぐにわかるスクラッチくじという2種類のくじを1枚ずつ買うのです。ですから、買うとしても、せいぜい月1回か、多いときで2回ぐらいのことです。
 しかも1枚しか買わないといいますのは、出費が惜しいからでもありますが、確率というものを一切あてにせず、神様のおかげのみに頼ろうという気持ちからでたことでありました。買わねば可能性がゼロですけれども、1枚でも買えば、当たる可能性が出てくるのです。本当に必要とあれば、神様になんとかしてもらえるという希望が持てたのです。
 スクラッチくじの方は、帰宅してから、軽く拝んでけずってみます。当たらなかった時の心構えとしましては、けっして失望落胆しないように、少ない額ながら国に寄付がさせてもらえたと、喜ぶようにしていました。普通のくじの方は、抽選日まで、ご神前の祈念詞にはさんでお供えしておきました。
 世間一般でも、当たる秘訣の一つとして、神棚や仏壇に供えておくとよいと言われているようです。私も置き場所にはしていましたが、当たりますようにと真剣に祈ったことはありません。こういうことでは、なかなか真剣に祈れるものではないのです。よろしくお願いします、という程度の気持ちにしかなれないのであります。
 それでも、買い初めの頃には不思議なことがありました。非常に高い確率で低額の当選がでたのです。2千円を筆頭に、五百円とか三百円とか、百円とかが高い確率で出るのですが、高額当選だけは出ないのです。一度だけ、高額当選の番号と、最後の1の位だけが1字違っていたことがありました。たまに1枚ずつしか買わないのに、その結果はすごいことだと思いました。そこに神様のご意志をみたような気がしました。まだまだ楽はさせてくださらないけれど、こちらの気持ちだけは、ちゃんと受けとめてくださっているように思えて、元気が出たのです。
 その後は、普通の確率に戻りましたけれど、相変わらずそのまま続けていました。しかし、先月かぎりでとうとう打ち切りにさせてもらうことができました。幸いなことに、その必要を感じなくなったからです。
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公衆トイレの清掃をはじめた
 その頃、もう一つ、すぐにでもできることとして思いついたのが、これも笑われそうですが、公衆トイレの清掃ということでありました。何の関係があるねんと言われそうです。もともとそれ以前から、ウォーキングの途中で立ち寄る公園のトイレの汚さが気にはなっていたのですが、自分からきれいにするという行動に移すまでには至っていませんでした。ところが、トイレの清掃が金運を招くという話を何かで読んだのをきっかけに、やっと行動に移す気になったというわけであります。
 もちろん、日頃世話になっているご恩返しという意味も込めてのことではありましたが、欲と二人連れでやっと動く気になれたというのが、実際の姿であります。
 ところが、たいへんなのは、一度も世話になったことのない大便所の方の掃除でした。最初の頃の汚れ方は半端ではなく、ほんとに気持ちが悪かったのです。
 しかし、それにもだんだんと慣れてきまして、時折、便器がつまって外に水があふれている状態になったのをも、あのラバーカップというのを使って自分で直せるようになりました。自分用のブラシや金ばさみを買ってきて、掃除用具入れに置くようにもなりました。そして、以前ほどは汚されなくなりました。
 それでも、どんなにきれいにしても、汚す人はやっぱり汚すのです。そして、汚したままで平気で出ていくのです。時には、わざわざ便器の後ろの外側に盛り上げていく人がいるのです。自分の家のトイレでなら、絶対にそんなことはできまいと思うのですが、何らかの不満のはけ口にでもなっているんでしょうか…。それとも、しつけのなっていない子供の仕業なんでしょうか。いずれにせよ幸せな人たちでないことだけは確かです。それにまた、ジュースの空缶やら、紙パックやら、なんやかや捨てていく人も多いのです。だから、何もしないでいいという日はほとんどありませんでした。
 そんなことが3年半ほど続いた頃、掃除用具入れに鍵がかけられるようになりました。そして、毎日ではないけれど、誰か係員によって定期的に掃除がなされているようになりました。それで私の出る幕はなくなったのであります。
 それからしばらくしまして、偶然そのワケを知る機会に恵まれました。ライオンズクラブの主催による、教会の近くの公園の年1回の清掃奉仕に、町内からも参加していたときのことです。私の前で、勇退した前市長さんが、町総代さんに話すのが聞こえてきました。
 「わしは、今の市長にこの前言うてやったんや。『あんた、公園の便所を覗いてみたことがあるんか。どんだけ汚いか。何とかしいや』と…」。
 「ははーん、そういうことか」とそれで合点がいきました。私が掃除をしていたのは、たった1カ所の公衆トイレの、しかも男性用の部分だけでありましたが、前の市長のお声掛かりで、市内の全部の公衆トイレがそこそこきれいに保たれるようになったわけです。そういうことを偶然教えてもらえたのも、一種の「お知らせ」ではないかなあ、と受け取らしてもらい、気持ちがすっきりしたのであります。 
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株の売買もはじめた
 時間をそれより少し前に戻します。
 トイレ掃除をはじめて丁度1年経った頃、新聞の読書欄で、とある記事が目にとまりました。
 株式取引に関する入門書で、初心者がとりつきやすい斬新な方法を紹介したものでした。そんな本が読書欄で紹介されたのは後にも先にもその時だけでありました。それを果たして金運と言えるのかどうか、微妙ではありますが、早速買い求めて通読し、インターネットで調べて、その本の著者が始めたスクールの、大阪にある教室の一つで、思い切って夜間の授業を一通り受けることにしました。
 費用が15万円余りかかるのですが、どういう手続きを経て、どうやって株の売買すればよいのかという知識が皆無でありましたので、その手助けをしてもらう意味も込めて受講したのです。
 ためらいはあまり感じませんでした。そういう取引に手を染めることが宗教家としてふさわしいかどうか、などという一般論は、私にはどうでもいいのです。自分が自分なりに一生懸命に神様と向き合う中で生じてきた成りゆきであります。私の、一回限りの、かけがえのない、やむにやまれぬ成りゆきなのだと思っているのです。
 私がその気になれましたのは、その本の著者の、株はギャンブルではなく、ちゃんとビジネスとして成り立つのだという考え方と、あくまで自分の本業としての仕事を持った上で、副業としてするべきだという考え方に、共感できたからでした。
 そこで、わずかな資金から恐るおそる練習を始めたのですが、4年間は悪戦苦闘でした。当時は全体的に下降相場で、なかなかスクールの理論通りには利益を出せません。下げ相場でも利益の出せる「空売り」という方法もあるらしいのですが、その方法を習得するには、更に何倍もの費用がかかるので、そこまでする気にはなれませんでした。
 自分に最も適したやり方が工夫でき、アベノミクスにも助けられて、利益が出せるようになるまで、結局5年近くもかかってしまいました。そんなことでは当然急場の間には合わなかったわけです
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思わぬところから援軍が
 そのかわり、思わぬところから援軍があらわれました。
 あるとき、岡崎に住む息子が、下請け専門なのに世界的大企業という会社の課長になっているのですが、就職したときからそのままになっている部屋を整理しに帰って来ました。そして、ついでのようにして、「好きに使って」と言って、お札の入ったかなり厚みのある封筒を置いていってくれたのです。多少は事情を知ってくれていたからです。
 そんなことなどもあって、何とか急場ををしのがせてもらうことができ、おまけに、お金を必要とした事情そのものが、今から1年半程前にとうとう解消したのであります。
 このように、私自身は、普通の尺度からみてもまことに頼りない人間ながら、何かと子供たちに助けられることが多くなり、時には信者さんにも助けてもらい、最近では、孫にまで助けられるようになりました。
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株取引も、無駄にはならなかった
 ならば、緊急避難のつもりで株の売買に手を出したことは無駄であったのかと言えば、そうでもありません。それまでは予想もできなかったような知識や経験や収入を得る手段が、そっくりそのまま手元に残されてあるのです。せっかくですから、もうしばらくは、気分転換ボケ防止の意味も込めて、あまり欲張らずに楽しみながら続けさせてもらおうかと思っております。
 最初の頃、株価というものは、常にこちらの裏をかく悪魔的な動きをするもののように見えました。しかし、少数の銘柄に的を絞って観察を続けておりますと、正確ではないにしても、ある程度は動きがよめるようになり、それほど恐ろしいものではなくなり、利益も出せるようになってきたのです。
 そして、わずかでも収入を増やさせてもらえる可能性を手にするということは、いろんな考え方はありましょうが、私どものような教会を維持するためには、大きな力になるのであります。
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折も折、株式投資のお届け
 そういう折も折、お結界で、株式投資のことを真剣に考えているという、信者さんのお届けがありました。そんなことは、これまで一度もなかったことでした。親の代からの商売を継いでおられるのですが、今の時代、それだけではどうしても限界があり、発展が望めません。このままでは家庭を持つこともむつかしく思えるらしいのです。今の仕事を続けながら収入を増やすには、株式投資しか考えられないが、リスクも大きいので、いろんな角度から慎重に検討中だとのことでした。
 それを聴きまして、こういう場合こそ、私の体験を聴いてもらうのが自分の使命であると感じたのですが、直ぐにということは思い止まりました。その時はすでに、数字の上での損失はゼロにはなっていましたが、それまでにかけた費用の回収ができていなかったのです。勘定してみますと、スクールの費用や、そこからしばらく取り寄せた情報の費用、それに、証券会社から時々刻々の相場の変化を伝える情報の費用など、締めて四十数万円回収できなければ、損失ゼロとは言えません。せめて実質黒字に転じるまでは、黙っていることにしました。
 そういう費用がやっと全て回収できて、実質黒字に転じたのが、今年9月の始めでした。早速、遠方に住むその信者さんに、実は、とメールをしました。自分の体験をあらかた出来るだけ具体的に述べた上で(このような場ではあいまいなことしか言えませんが)、私としては、勧めることも引き留めることもようしないので、あとは自分で判断してほしいと言いました。
 本音としましては、背中を押したい気持ちはあるのですが、しばらくは、成り行きを見守るつもりです。いずれにせよ、収入がほんの少し上積みされるだけで可能性がぐんと拡がる、ちょうどその境界線にいるという点では、私自身も覚えのあることで、身につまされまして、先々何とかよい展望が開けていくことを、心から願わずにおれないのです。そして、この時期にこういうめぐり合わせになったということに、何かしら見えざる手のお導きお計らいといったものを感じてしまうのであります、
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生きた神様のお働きを感得したい
 常々、自分及び参拝する人々が、「日々の生活の中で、生きた神様のお働きを感得させていただきますよう」ということを願い続けているのでありますが、今回は、お金をめぐる苦労話ということで、まことにちんけで無様な取り組みの数々を、敢えてきいていただきました。
 目覚ましい奇跡とか、おかげ話というのではないですけれど、また、森羅万象すべて奇跡ならざるものはない、という考え方もひとまず横において、それらのことを通して、少しなりと、生きた神様のお働きというものを表現させてもらうことができたらなあ、と念じて話をさせてもらったのであります。
 そして、私の場合は、問題山積の中を、教祖様をはじめ先覚諸師より授けられた、絶対他力、絶対信、絶対感謝の信心を行じようとすることで、これまでのところは、どうにかこうにか生きさせてもらってきました。
 教会の現状は、まことに不徳にして、お恥ずかしいこと、相すまぬことにはなっておりますが、一方で私は、人様にどう思われようと、ただ今授けられてあるこの境遇、この生活形態がたいへん気に入っております。気分はつねに受け身、つまりは他力、流れに身を任せて生きているだけなのに、結構なところに運んできていただきました有難うございます、とお礼を申さずにおれないのであります。
 そしてこれからも、いかに前途多難でありましょうとも、それらの信心を頼りに通らせてもらうしかない、それで必ず通らせてもらえると確信しているのであります。
 ご清聴有難うございました。
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談話室より
M.0さん(男80歳)
国民平均寿命についての解釈は卓見であり全く同感です。
ブータンが世界一幸福など噴飯ものです。

「身捨つるほどの祖国はありや」の短歌は典型的なサヨク の反日短歌です。

教会長より
サヨクにせよ、ウヨクにせよ、党派的な傾向をを名指しで批判するのは立場上避けており、事柄そのもののみの批判にとどめているつもりです。
それにつけても、昨今の秘密保護法案に対する新聞の論調は異常です。私の購読する新聞(毎日)は、連日反対論の洪水でした。確かに、便乗して秘密の範囲を拡げて、都合の悪いことを隠そうとする政治家や官僚が出てくるのは警戒しなければならないでしょうが、羹に懲りて一生懸命なますを吹くような反対論ばかりではうんざりしてしまいます。
その中で唯一まっとうに感じられた例外が、山田孝男という記者の「秘密とのつき合い方」という11月18日付のコラム記事でした。毎日ラジオのパーソナリティーの子守康範さんも、さすがその記事だけを早速とりあげて好意的に論評していました。
軍事機密をはじめ、国家の安全や重大な国益に関わる秘密の漏えいには、早急に何らかの歯止めが必要だという基本認識を欠いたように感じられる偏った意見は、どれほど真剣であっても全く心に響いてきません。まるで軍事機密など漏れても平気だ、国益などどうでもいいと叫んでいるようにしか聞こえないのです。
そんなキャンペーンを張っていたのは朝日、毎日だけで、読売、産経はそれほどでもなかったようですが、どんな大々的なキャンペーンも、心に響かねば逆効果ですね。
またまたつい、話の本筋とはあまり関係のない余計な脱線をしてしまいました。

「教会長のメッセージ」でも少し触れたように、今回も、たとえ不本意でもある程度自分の私生活をさらけ出さねば話ができない、話にならない、というジレンマとたたかいながらの打ち明け話でした。
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