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金光教高田教会、「血脈」を生んだ霊現象
29大きな信心
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲  時代を問わず場所を問わず、人間には天地の神様を求める心が具わっている 
▲ そういう心の受け皿として教会はあるのだが…
▲ 金光教祖は人が寄り付く頼りがいのある霊能者の一人
▲ 教会・教団の成り立ちとして、これ以上自然なあり方は考えられない
▲ 教祖広前のようなわけにはゆかぬが、それでも我が教会は今日まで存続できた
▲ 一生懸命やっても、結果を出すのはむつかしい
▲ 教祖の信心は、教会や教団という枠には収まりきらない
▲ 教会や取次者の存在意義は「真の信心」の手助け
▲ お供えの多少で差別せず、真心のみ受け取る
▲ 純粋潔癖公平なあり方はプラスにもマイナスにもはたらく
▲ それでも、この道の信心と、培われてきた気風に誇りが持てるのが何より有難い
▲ たまには遠方からも訪ねて来られて元気をもらう
▲ 天地の神様に心を向け頼ることを知らぬ人は、糸の切れた凧のように漂い続けるしかない
平成二十八年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
時代を問わず場所を問わず、人間には天地の神様を求める心が具わっている
 昨年春には、天地の神様というみ名が万葉集に出てくるという話を、「天地(あめつち)の神も助けよ草枕旅ゆく君が家に至(いた)るまで」という歌を引用してさせてもらいましたが、その後ある映画を観ていたら、次のような画面に出会いました。
 世界各地の子供たちが、わが国では考えられぬような遠距離を、苦労しながら通学する有様を描いた映画なのですが、その中の一例として、インドのある貧しい漁村の子供たちが、
 「天の神様、地の神様、全てを守る私たちの神様、幸せが続くようお守りください。…永遠の幸せをお恵み下さい」
 というような歌詞を繰り返し歌いながら、障害のある兄の車椅子を弟たちが押して通学していたのです。
 どんな厳しい環境にあっても、彼らは決して自分たちのことを不幸だと思っていないらしいのは、とても考えさせられますが、同時にこれらのことは、時代を問わず場所を問わず、人間には生命の根源たる天地の神様を求める心が具わっている、ということの現れだと思うのです。
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そういう心の受け皿として教会はあるのだが…
 そういう神様を求める心の受け皿として、金光教祖様のお開きなされたこのお道の教会が、ここ桜井の地でも、また私方の大和高田の地でも、ほぼ時を同じくして125年にわたって、存続し続けてきたわけであります。
 その何割かの期間を、私自身も、その教会の番人として、また信心の世話人として御用させていただいてきました。そのことを真に有難いことと思わせていただくと同時に、抱えている難問題もまた尽きることがありません。
 いくら人間に神様を求める欲求があり、そこに受け皿があるといいましても、そう簡単に人は寄り付かないのです。そうした欲求はあくまで潜在的なものであり、世の中が進むにつれて、生半可な知恵や知識で覆い隠されてしまって、なかなか表に出ることがないのであります。
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金光教祖は人が寄り付く頼りがいのある霊能者の一人
 そういう世の中で敢えて神様を求めようとする人は、生まれつきよほど宗教的感性の豊かな人か、もしくは質の良い宗教的環境で育った人たちだけで、そういう人の数はきわめて少ないです。あとは切羽詰まって藁にもすがりたい人たちで、そういう人はいつの世にも絶えることがなく、数としては先に述べた人たちよりずっと多いかもしれません。
 切羽詰まった人たちが何かに頼ろうとする場合、その人の知的レベルや、悩みごとの内容にもよりますが、評判の高い霊能者や拝み屋さんなどが、最も寄り付きやすい存在として考えられます(霊能者と言いましても、御霊様が見えたりする人のことだけではなく、いわゆる「神がかり」になる人も含む広い意味で使っています)。

 金光教祖様もまた、最初はそういう頼りがいのある霊能者の一人とみなされて、人が寄ってきたのです。
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教会・教団の成り立ちとして、これ以上自然なあり方は考えられない
 まさにそういう使命を背負って生まれてこられたらしく、幼少の頃よりとても変わった子供さんで、神信心がお好きでありました。成人してからも、農業の傍ら、各地の神社仏閣に参詣するのを何よりの楽しみとしておられたのです。
 それが四十代半ばになられて、ご自身の身の上に神様の目覚ましいおかげが現れ、「お知らせ」まで頂かれるようになりました。それがいつの間にか世の中に知れ渡ってしまい、拝んでくれと頼みに来る人が引きも切らぬようになったわけです。おちおち農業をしておれなくなってしまい、とうとう神様からのお頼みを受けられるという形で、家督を子供さんに譲り、隠居して「お取次ぎ」の御用に専念されるようになったのであります。
 言ってみれば、「受け皿」すなわち教会の成り立ちとしては、これ以上自然で理想的なあり方は考えられないのであります。
 当時、そのような宗教行為をすることには大変な困難が伴ったのですが、周囲の人々がお上の認可が得られるよう奔走して、何とかしのいでこられました。教団設立についても、最初、ご本人には全くその気がおありでなかったのに、周囲が、それでは後々のものが助からぬことになりますと教祖様を説得し、奔走して設立にこぎつけたのです。
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教祖広前のようなわけにはゆかぬが、それでも我が教会は今日まで存続できた
 その金光教祖様の広前の出社である教会が全国各地に散らばり、教祖様から教えを頂いた人々の書き残したものや、聞き取り調査したものをもとに編まれた教典などを手がかりとして信心をしていけば、教祖広前と同様におかげが受けられることが約束されてます。しかし実際は、私のような凡庸で不徳非力な取次者のもとには、なかなか人が寄って来ないのです。教会が受け皿としての役目を十分には果たし得ていないのです。評判を聞きつけて人が列を作り、自ずから生まれた広前のようなわけにはいかないのであります。
 もちろん、その後生まれた教会の中にも、湯川安太郎師の玉水教会のように、行列のできる広前が幾つかはありました。その他の教会も、多いとは言えぬまでも、取次者の力量に応じて、そこそこの人数を集めて存続してきておられるようです。
 しかし中には、参拝者が減って消えていく教会、後継者が得られなくて消えていく教会も少なくありません。私方もそういう瀬戸際にある教会の一つと言えますが、今更それを嘆きたいわけでも愚痴りたいわけでもありません。125年間そうでなかった時期は一度もなかったので、むしろそういう状況で、ここまで持ちこたえ、存続させていただくことができたことが有難くてならないのであります。
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一生懸命やっても、結果を出すのはむつかしい
 教団全体としても、統計上は、戦前のある時をピークに信徒数が減少し続けていますが、その「教勢不振」の原因もいろいろと取りざたされてきました。
 昔の初代の先生方とは苦労が違うだの、信念の強さが違うだの、或いは、時代がすっかり変わってしまっただの、高橋正雄先生が信心をむつかしくしてしまったからだの、信心が内向的になり過ぎて活気を失っただの、いろいろと言われはしますが、どれもこれももう一つピントがズレているように思われてなりません。また、今更言ってみてもどうしようもないことばかりです。
 教団でも幾度か「活性化」が図られてきました。こういうことはえてして掛け声倒れになりやすいのですが、それでも私は必ずしも無意味だとは思いません。教会のカベには常に教団の信心運動の標語が掲げられてきましたが、それらをまともに記憶していなくても、それでも意味はあると思うのです。
 ある時ある先生から、その当時のご本部の内局の方針をどう思うかと問われたことがありました。何か批判的な意見をお持ちだったのだろうと思います。その時も、自分としては、ただただご苦労様ですとしか言いようがない、という風に答えた記憶があります。それなら代わりにあなたが責任をもってやってみてくれと言われたとしても、全く何もできる自信がなかったからであります。
 今は今で、私は、教団の中心部にいる人たちも末端にいる人たちも、それぞれに一生懸命頑張っていることと思っています。何しろ日本一、ひょっとしたら世界一真面目な教団かもしれないのですから…。それでも結果を出すということはなかなかむつかしいのであります。まともな信心の布教とは、もともとそういうものなんです。
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教祖の信心は、教会や教団という枠には収まりきらない
 ピント外れの意見を一つ加えるだけになるかもしれませんが、この道の信心を普及させていくのが困難な理由として、私が考えていることがあります。
 それは、教祖様のご信心そのものと、教祖様のご布教姿勢そのものに原因があるのだと言えると思うのです。しかもそれは、むしろ良い意味でそう言いたいのです。
 「信心は大きい信心がよい」と言われましたが、教祖様の説かれたご信心は、大き過ぎて、教会や教団という小さな枠には収まりきらないのだと思うのです。つきつめれば、いつでもどこでも、ひとりで神様と向き合うことのできる信心なのであります。ということは、教会に行きたくなければ、行かなくてもできる信心ということにもなってしまいます。
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教会や取次者の存在意義は「真の信心」の手助け
 そういう信心にとりまして、教会や取次者の位置づけというのは、「どうしてもなくてはならぬもの」、と言うより「ないよりはあった方がいいもの」「いないよりはいてくれた方がいい存在」ということになるでしょう。とは言っても、それで教会の必要性が低くなるわけでも、取次者の値打ちが下がるわけでもないと思います。ただ、どうしても教会がなければ、取次者がいなければというような狭い信心は説いておられないだけであります。
 津川治雄という人にこう言っておられます
 
 「願い事があると、遠方からわざわざ参って来て願いを頼む人が多い。人を頼むにはおよばない。真の信心をして、自分で願っておかげをいただけ。人を頼まなければ、おかげがいただけないとすれば、お取次をする者のそばにつききっていなければなるまい。神様はそういうものではない。自分で願って、自分でおかげをいただけ」

 至極当然なことを言っておられると思うのですが、その中でうっかり見落としやすいのは「真の信心をして」という文言でしょう。これがなかなかの曲者でして、真の信心が簡単にできるのなら、誰も苦労しません。
 だから、それをさせようと手助けすることこそが教会や取次者の一番の存在意義かもしれぬと思うのです。教会の先生が必ずしも真の信心ができているとか、わかっているとは言えないにしましても、一般の人はもっと真の信心ができていないし、わかってもいないからです。
 教会はそういう人達が信心を学ぶ場所であり、また一段と心を神様に向ける場所であり、形を改めてお結界を通して願い事をする場所であります。また信者さん同士が連帯する場所でもあります。
 しかし、そういう教会との関わりや人との付き合いがわずらわしくて、教会へ行きたくないという人もいるかもしれません。それならそれでもよいのです。教会では、誰でも来る者を拒まず、去る者を追わず、参ってくる人を縛りつけようともしません。そういう自由でおおらかな信心を教祖様は授けてくださったのです。
 まさにずっと前から言っていますように、「いつでもどこでもできる信心」「一人でもできる信心」「素手でできる信心」「形にしばられぬ信心」なのであります。
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お供えの多少で差別せず、真心のみ受け取る
 おまけに教祖様は、お供えについても極めて純粋潔癖無欲であられました。神を商法にすることをきつく戒められました。お供えの多い少ないにかかわらず、参拝者の「真心」のみを受け取ろうとされました。多い少ないによって差別することも許されなかったのです。
 同じ津川治雄さんの伝えに

 「家老など立派な人が参って来るのに対して、応接するにはどのようにするべきか迷い、困っていたが、金光様は、
 『信者に不同の扱いをするな。物をたくさんに持って来ると、その人を大切にするようなことではいけない。信心の篤いのが本当の信者である』
と仰せられた」
とあります。この方はお侍の出身で、お取次ぎの御用もなさるようになっていたらしいです。
 また、こうも言っておられます。

 「人間はみな同じように神様の氏子であるから、神様のお取次をする者は、氏子に対して不同の取り扱いはするな。人のことと思わずに、わがことと思って、不同のないように力を入れて願え」

 こういうお考えでありますから、お寺のお堂にあるような寄付札を掲げたり、神社に見られるような、石の柵に名前を刻むなどということも禁じられました。寄付を募ることも禁じられました。
 今も、教団においても教会においても、何かの施設を建てたり事業を行うに際して、願いの表明はなされますけれども、個々の教会や個々人に金額を割り振って寄付を募るということは絶対にありません。すべてお供えする人の心任せです。これまでそのようにして全ての施設が建てられ、事業が行われてきたのであります。
 また、取次者はお供えを受け取るとき有難うと礼を言うことも禁じられています。お供えはあくまで神様へのお供えだからであります。今は法律上も、教会の先生はその管理を任されているだけで、年に一度、その使途について役員さんたちの承認を得ねばならぬことになっています。
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純粋潔癖公平なあり方はプラスにもマイナスにもはたらく
 こういう純粋潔癖公平なあり方が、教団・教会の布教や存続にとってプラスに働くのか、マイナスに働くのかは微妙に判断の分かれるところです。一部の心ある人々を惹きつけることはできても、意外と一般大衆の俗っぽい志向とはズレがあるかもしれないのです。
 確かなのは、このやりかたでは、取次者の力量の乏しい教会は、確実に淘汰されていくということです。
 力量と言いましても、この場合は手腕ということではなく、神様のおかげを受ける力、つまりは「ご神徳」を指しますが、教祖様のようなお方にとっては何の問題もなくても、凡庸な取次者が同じようにやっていこうとしますと、今や多くの教会では、家族の誰かが別の仕事で働くとか、私などのように年金をつぎ込むとかしなければ、教会の維持は困難になってきているということもあるのです。
 教典には、そんなに参って来なくてもいいという教祖様のお言葉がいっぱい出てきます。交通の便の未発達な遠方からでも、費用と日数をかけてお参りしてくる人が多かったからです。
 にもかかわらず教祖様のお広前へは、遠方から泊りがけでお参りする人が跡を絶たなかったのに、私方などは、いくら参って来てほしいと願っていても、普段は閑古鳥が鳴いています。
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それでも、この道の信心と、培われてきた気風に誇りが持てるのが何より有難い
 それでもお参りが一人でもある間は教会を開けておきたいし、私のようなものでも、いないよりいた方がよいと思ってくれる人が一人でもいる間は、いくら持ち出しになっても、御用を続けさせてもらいたいと願っているのであります。
 何よりも有難いのは、教祖様が開かれたこの道の信心と、教団に培われてきた気風に誇りが持てることです。私にとりましては、これがいちばん大事なことなのです。
 そして、どれほどこのお道の普及が困難で、教勢が伸び悩んだとしましても、必ずその値打ちに気づいてくれる人もいて、廃れてしまうことはない、どこまでも根強く生き続けると確信していられるので、あまり落ち込むことも心配することもないのであります。
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たまには遠方からも訪ねて来られて元気をもらう
 また、私方のようなところにでも、ごくたまには、むかし出した本や今のホームページを見て、わざわざ遠方から訪ねて来てくださる人がいて、逆にこちらが元気をもらうことがあります。
先だっても、ホームページを通じて、電話やメールの遣り取りをするようになった女性の信者さんが、北関東からお礼参拝に来られました。日帰りは無理なので、京都で一泊して翌日参拝され、2時間ほど滞在しただけで、あわただしく帰って行かれましたが、実際にお会いできたことで、その後のメールでは、より的確に返信ができるようになりました。
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天地の神様に心を向け頼ることを知らぬ人は、糸の切れた凧のように漂い続けるしかない
 いずれにしましても、お道の教会というものは、人が天地の神様に心を向けるためにしつらえられた場所です。生命の親である神様に心を向け、神様に頼りつつ生きて行けさえすれば、これから先、子孫は何万年でも何億年でも、心配なしに生き延びていけるのであります。
 天地の神様に心を向け頼ることをやめた人、頼ることを知らぬ人は、糸の切れた凧のようにふわふわと漂い続けるしかないのです。そういう人たちが社会で優位を占めると、人類は滅亡の危機にさらされるのであります。
 私共が今神様と繋がらせていただいていることを深く感謝するとともに、一人でも多くの人に信心を伝えさせていただけるよう切に願う所以であります。

 そして、私の話はあくまでこのお道についての一般論でありますので、すでにこのお広前にお引き寄せを頂かれた皆様は、個々の問題につきましては、どんなことでも教会の先生に打ち明けて、ご指導とお祈り添えを頂いておかげを蒙っていただきたいと存じます。
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談話室より
S.Mさん(女 90歳)H.28.5月
御言葉の数々同感し、感動し乍ら読ませて頂きました。いつも感じている事なのですが、先生と同じ思いを持っていることを嬉しいと思います。

教会長より
この話をした後に島田裕已という学者の「宗教消滅」と言う本をみつけました。
それによりますと、信徒数を減らしているのは単に金光教にとどまらず、全世界的に、伝統宗教も新宗教も、一部の例外を除いて急速に信徒数を減らしつつあるのだそうです。そして、例外的な宗教・教団もいずれは同じ路をたどるだろうと予測しています。しかし、無宗教化した人たちが今後どのような方向をたどるかまでは予測できないようです。
私の推測では、その無宗教化した人たちの中には、既成宗教のワクにとらわれない普遍的な宗教的真理を求めている人たちも、少なくないのではないかと思うのです。
いくら信徒数を減らしたとしても、既成宗教がそう簡単に滅びるとは考えられませんが、それでも私は、あらゆる既成宗教は、人類がいつの日か普遍的な宗教的真理を共有できるようになるまでの過渡的な産物だと考えています。
そうだとしても、各宗教の価値というものは、教団内でしか通用しないような教義の独自性にあるのではなく、どこででも通用する普遍的真理の含有量にかかっているのだと思うのです。もともと宗教に不純物はつきものだからです。
そういうことも視野に入れた上で、なおかつ私は、この場所で、いま自分に出来る事に力を入れていくのみです。
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