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金光教高田教会、我が信心を語る
12 二人の母親のこと
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ すすんで困難を引き受ける気になれば恐いものなしだが
▲ 母の介護ではずいぶん楽をさせてもらった
▲ 下の世話が最低限ですんだのが楽のできた最大の要因
▲ 最後まで自分の役割を担うことができた
▲ わずかの期間に畳の上で最後を迎えることができた
▲ 祈りの力、教えの力がおかげをもたらす
▲ 二人の母の祭主と喪主をつとめた
▲ 実母の少女時代の日記が出版された
▲ その日記の中に八十五年前の大祭の様子が
▲ 十四歳で深い信仰心を身につけていたのだが
▲ そういう信仰心を大きく育てる環境がまだ用意されていなかった
▲ 新教典は永遠の道標
▲ いかにすぐれた教えも、廃れる危険性がつねにある
平成十五年十一月九日 大阪市 真砂教会にて
すすんで困難を引き受ける気になれば恐いものなしだが
 本日この場で話をさせていただく巡り合わせになりましたことを、ことのほか有難く思うものであります。その具体的な理由については、後ほど聴いていただくことにします。もちろん、理由の如何にかかわらず、こういう場で話をさせていただくことは有難いことなのだということも踏まえた上で、「ことのほか」とつけ加えずにおれないそのわけについて聴いていただこうというのであります。
 この春の大祭後の説教は、出石教会の大林誠先生がなさいました。途中から聴かしてもらったので事情があまり飲み込めていないのですが、なんでも、先生のおばさんだか、どなたか身内の認知症にかかられた方を引き取られて、その方の介護に家族ぐるみで奮闘される様を、ユーモラスにお話しくださり、たいへん感銘を受けました。
 それ以前にも、同じような病にかかられた先生の祖父にあたられる先代教会長先生のお世話を、当時も家族ぐるみで真心こめてなされた話は、教内ではつとに知られていますが、今度は、事情は聞き漏らしましたが、家族以外の方をも逃げずに引き取られて、そのようにお世話なさっているわけで、もうそういう姿勢でものごとに臨むならば〃恐いものなし〃だなあという気がいたしました。
 何かのことでその方を施設に預けられて、ほんの一時的にラクになられた時に、先生の息子さんが、少し物足りなそうに、「人生もうちょっとグチャグチャでもいいのと違う?」と言われたとかいう話も、とても印象的でした。
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母の介護ではずいぶん楽をさせてもらった
 それにひきかえまして、私は、今年の一月には九十八歳の母親を亡くしたのですが、大林先生のお話などを聴かせていただくにつけても、私の場合は、年限が長かったわりには、ずいぶんと楽をさせてもらったなと思うのです。
 もちろん、晩年の数年間というものは、いつ何が起きても不思議ではない、一触即発の状態が長らく続いておりました。本人自身も、爆弾をかかえているようなものだから、何とか無事に終わりを迎えさしてもらいたい、とよく言っておりました。
 世の中には今でも、介護する立場にある人もされる立場にある人も、いわゆる「介護地獄」の中で、現に苦しむ人も多くおられるでしょうし、そういう地獄のカゲにおびえながら暮らしている人も多いと思います。
 私も、「悪いことを言うて待つなよ」と教えにもありますので、できるかぎりおびえることはすまいと努めてはおりましたが、何が起きても受けとめていこうという、悲壮な覚悟みたいなものだけはいつも固めておりました。その最終結果がとうとう出たわけです。そしてその全体的な感想が、今申しました「ずいぶんと楽をさせてもらった」ということになるのであります。

 晩年の母は、ほとんど失明状態でした。足も湾曲してしまい、つたい歩きをするのがやっとで、見るからに危なっかしい感じで、実際何度も転倒しまして、一度は頭から多量の血を出して救急車で病院に運ばれたこともありました。それでも入院するまでには至らず、短期間の通院で回復させてもらいました。
 目が見えなくなっていたにもかかわらず、最低限のことは自分でできました。するしかなかったと言うべきかもしれません。有難いことに、着替えの用意や洗濯は、ある信者さん方が引き受けてくださり、自分で入浴できなくなった頃から、介護保険制度ができて、週一回は施設の世話になるようになり、私がすることといえば、食事の支度ぐらいのものでありました。
 それとて大変といえばたいへんです。歯がぜんぜん残っていないし、何を食べたいのか自分ではもうわからないと言うのです。とにかく食べられそうな材料やら既成の料理品を(自分で料理できるのは、せいぜい一日に一品か二品ですから)毎日血眼になって探しました。
 それも栄養のバランスを考えると、少量ずつ多種類用意しなくてはならないのです。そして、残り具合をみて、口に合うか合わないかを判断します。たまに、食べてみてこれはおいしかった、あれはおいしかったと言うことがある。それが貴重な判断材料になるのです。しかし、それも続くと飽きるので絶えず変化をつけなければなりません。歯がないから固いものはもちろん食べられないけれど、流動食がよいかといえば、そうでもないのです。歯茎でかむのにある程度歯応えがないとだめなんです。
 菜っ葉類はできるだけ細かく刻む。好きな刺身も更に切り分ける。夏みかんや八朔は中袋を一と袋ずつむいでおく。そんなこんなで、母親に食べさせるということに関してだけは、私もすっかりエキスパートになってしまいました。
 もちろん、手間を省くために給食サービスを取り寄せてはみました。しかし、それを試食してみて、どうも口に合わないから、どうしてもやむをえないことになるまでは、悪いけど私に用意してほしいと言いました。私も、出したものがきれいになくなっているときは、してやったりという気になりますし、この頃食べるものが何もかもおいしい、と訪問看護の看護師さんに語っているのが聞こえてきたり、たまに帰ってくる娘が、私の用意したお膳を見て、「なかなかヘルシーやねぇ」と言ってくれたりすると、すっかりいい気分になっておりました。
 それもこれも、信者さんをはじめ多くの方々の助けがあって、私のすることは一応それだけで済んでいたので、なんとかやっていけたのだと思います。
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下の世話が最低限ですんだのが楽のできた最大の要因
 いちばんおかげを受けていたのは本人自身であったろうと思います。母は、欠点も数々持ったごく普通の女性でありましたが、それでも長年、教祖の教えを耳にし、神様を杖にして生きることで、大きく救われたのだと思うのです。
 とりわけ晩年の数年間というものは、もう行住座臥、金光様々々々と必死にすがらざるを得ぬ生活でありました。「何分にも、百近い年寄りのことでございます。どうぞよろしくお願いいたします」などといつもブツブツつぶやきながら、見えないながらに必死で身のまわりの用を足していました。
 下の世話が最低限で済んだのが、楽をさせてもらった最大の要因であろうと思うのですが、それも本人の強い意志があってはじめて可能になったことです。できるだけ人様にめいわくをかけまい、負担をかけまいという思いからか、亡くなる二カ月前まで、自分の部屋から廊下を這って便所に通っていました。
 早くから椅子式便器は用意してあったのに、それを使いたがらず、便所の中のタオル掛けにつかまりながら不安定な格好で用を足すのですが、訪問看護のお医者さんも、今までのやり方を変える必要はない、続けられるところまで続けたらよいと言ってくださったので、そのまま続けておりました。
 その間、多少小便が便器の外にかかるのは仕方がないとしても、廊下の途中でおもらしをしたり、便器の内外を大きく汚したのはほんの数えるほど、しかも全部自分が汚したという自覚があって、「すまんが、汚したように思うから見てもらえんか」と、すまなそうに声をかけてくるのでした。
 便所に通えなくなってからも、自分でおむつを当てて(女性の信者さんが手伝ってくださることもありましたが)、自分で用を足していました。どういうふうにしているのか、現場を見たくないのでわからずじまいでしたが、そのおむつの始末も、自分で袋にいれて捨てられるようにしていました。
 それにつけて思い出しますのは、伊藤整という作家のことです。もう三十年以上前に、今の私より若い年齢で、大きな業績をのこして癌で亡くなったのですが、死の前々日まで、これは人間の義務だからと言って、衰弱しきった体で人手を借りずに便所に通ったというエピソードを読んだことがあります。
 母の場合も、下の世話をまるまる人の手にゆだねたのは、自分で動けなくなった最後の十日間だけでした。私が手伝ったのは後にも先にもたった一度だけ、あまり見たくはないけれど、それとなく様子を見ていて、これ以上は無理と判断して手を貸したのですが、そのたった一回だけでも、もう地獄の入口をみる思いがしました。本人にとっても地獄だったろうと思います。それからあとは、そういうことに手慣れた女性の信者さんや看護師さんや帰ってきた娘たちが受け持ってくれたので、正直、心の底からホッとしました。
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最後まで自分の役割を担うことができた
 更に有難いと思いますのは、ほとんど終り近くまで、頭がはっきりしていて、自分の役割分担というものを担うことができたということです。私の外出時には、広前に出て参拝者との応対がちゃんとできました。というより、信者さんにとっては、口の重い私よりも、母の方が親しみが持てて話がしやすかっただろうと思います。それ以外にも、一日二度、もっと元気なときは一日三度、御祈念時にはお広前に出てきて、参拝者と挨拶を交わしたり、言葉を交わしたりするのを何よりも楽しみにしていました。
 部屋にいる時も、社会や人間に対する関心は最後まで衰えず、テレビの音声に一生県命聞き入っていました。時には、信者さんに、きのうテレビでこんなことを言っていた、みのもんたがこんなことを言っていたなどと語って聞かせることもありました。年を重ねる程に、信者さんから好かれ慕われるようになったように思います。訪問介護の看護師さんたちも、母の受け答えにしばしば感心したり感動したりもしていました。
 口の悪い私などが、意地の悪いきびしい目で見ますと、母は少々キレイゴトを言い過ぎる、自分自身がよくわかっていない、人間がわかっていないということにもなるのですが、そこまで要求するのはもともと無理な話なので、それだけキレイゴトが言えたらたいしたもんだ、それでいいそのままでいいと思うことにしていました。
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わずかの期間に畳の上で最後を迎えることができた
 後から考えますと、亡くなる二カ月程前から徐々に弱り始めていたようなのですが、最後に広前に出たのが一月四日の月例祭で、その後一月六日頃から十日間かけて急速に燃えつきていきました。
 訪問看護のお医者さんも、わざわざ入院させる必要はないとして、自宅で点滴や酸素吸入をしてくださり、近頃では珍しいことではないかと思うのですが、畳の上で最後を迎えることができたのです。死亡診断書には老衰とありました。これも近頃では珍しいケースではないかと思います。ほとんど老衰に近いケースでも、最後は心不全とか、何らかの病名がつくのが普通ではないでしょうか。
 お葬式の写真も、四カ月前の誕生日に看護師さんが撮ってくださったカラー写真をそのまま拡大して使うことが出来ました。若い頃の写真を探し出して、着物の写真に頭だけくっつけて合成してつくるというような必要はまったくなかったのです。
 結局、一生入院するというようなこともなく、訪問看護にかかるようになってからは、血圧の薬を飲むようにはなりましたが、それも毎日たったの一粒でした。薬局に処方された薬をもらいに行きますと、その年齢で一日たった一粒というのは珍しいと言われました。
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祈りの力、教えの力がおかげをもたらす
 こうした事実を、あとで丹念に一つ一つ拾い集めて並べていってみますと、全体としてずいぶんとおかげを受けていたんだな、助けられていたんだな、守られていたんだなということが見えてくるのでありますが、事柄の渦中におりますと、目先の苦しさ大変さに気をとられて、なかなかそのことがわかりません。
 今改めて、母は、大いなるおかげの中で生き、大いなるおかげの中で死なしてもろうたと実感しております。それこそが祈りの力であり、長年いただいてきた教えの力であると思います。そのおかげで、私自身もずいぶんと楽をさせてもらったのだと思うのであります。
 大林先生のお話を考えめぐらしてもわかります通り、人間、楽ができることばかりが有難いのではありませんが、苦労の種は他にもいっぱいあるのですから、一つ楽が出来たらそのことをしっかり喜ばしてもらって、元気な心で他の困難と取り組ませてもらいたいと思っております。
 それと、これはあくまで、私がおかれた状況の中でおかげをいただいたと思える話をさせてもろうただけで、介護の問題を抱えておられる方々の置かれた状況は、一人一人みな違うと思います。いずれの状況下においても共通して言えることは、しっかり神様にすがるしかないということだけです。
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二人の母の祭主と喪主をつとめた
 ここまでは、一月に亡くなった母親の話をさせてもろうたのでありますが、実は、私にはもう一人母親がおりまして、その母親も、昨年八月に九十七歳で亡くなりました。それが私の実母でありまして、先に話をさせてもろうたのは養母ということになります。つまり私は一年足らずの間に、養母の葬儀の喪主をつとめ、その前には、実家の長兄からの依頼で、実母の葬儀の祭主もつとめたのであります。
 その実母というのも、いたって平凡な主婦の生涯を送ったのでありますが、昔の女性の御多聞にもれず、子供を十人生みまして、そのうち四人を戦後の混乱期に栄養不良や事故で亡くしたものの、あとの六人はなんとか育って今も生き伸びております。
 実母の印象としましては、若い頃から、怒った顔を一度も見せたことがないかわり、もうひとつピリッとしないというか、無気力というか、向上心がないというか、その上、裁縫は上手いけれども料理などの家事が苦手ときているので、子供たちからさえ、やや軽んじられるところがありました。
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実母の少女時代の日記が出版された
 ところが、その実母の余命いくばくもないとわかった頃、実母が若い頃から大事に保管していた日記帳があったのを、次兄が解読してパソコンに入力し、コピーして兄弟に配ってくれたのです。今では読みづらい変態仮名などで綴られていたのですが、それは高等小学校二年、今でいうと中学二年の年に学校に提出したもので、原本は毎月ごとの分冊になっており、その各表紙には巧みな絵が画かれていました。
 そしてその内容たるや、文語体による散文あり、短歌あり、俳句あり、文語詩あり、口語詩ありで、その中に、思春期初期の少女の内面や、当時の世相風俗等が生き生きと描かれていて、余所行きの日記のはずなのに実に面白いのです。それに、詩や短歌の言葉づかいの巧みさなど、満十三歳とはとても思えません。私自身のその年齢当時と比較しても、明らかに「負けてる」と感じさせられてしまいました。
 そして日記全体を貫く一つのトーンとして、旧家が没落したために、成績が一番であるにもかかわらず、上の学校への進学ができず、また模写を叔父の骨董屋に持って行けば金になった程の画才をも伸ばす道を閉ざされてしまう無念さが色濃くにじみでているのです。
 それ以後は、そうした才能には封印をさせられてしまい、専ら裁縫を習うことに専念させられたようです。それと同時に、人間としての進歩成長も、まるでそこまででとまってしまったかのような感じを受けます。どこにそんな才能が隠れてしまったのか、子供たちさえ誰一人として気がつかないままに今日まで来てしまったのでした。
 音楽の才もありまして、時たま琴を上手に弾きこなしているのは、私も聴いたことがあります。録音テープも残っています。今風に言うなら、ピアノも弾けたという感じでしょうか。しかし、その母親が書物をひろげる姿や、絵筆をとる姿は誰も見たことがないといいます。そしてその文才に最初にびっくり仰天したのが、日記帳を解読した次兄だったというわけです。
 葬儀の時には、それらの分冊を活字で復刻し、カラーコピーの表紙をつけたのが展示されました。更に、生きていれば九十八歳になるはずの誕生日には、勧めてくれる人があり、次兄の尽力で、ある出版社から「おさげ髪日記」という表題で、少部数ながらとうとう出版され、日本図書館協会選定図書にも指定されました(既に絶版)。
 出版社がつけた表紙の帯の宣伝文句には「大正という時代に埋もれた天才少女、その瞳目に値する豊穣なる日記文学を、いま、ここに復刻」となっております。もちろん、これには売らんがための誇張があるのでしょうが、あながちそうばかりとも言い切れない出来ばえなんです。生前、傍目にはあまりパッとしない人生だったかもしれないけれど、ここへ来て、ささやかながら死に花を咲かせたわけであります。
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その日記の中に八十五年前の大祭の様子が
 そしてここからがこの話の肝心なところなんですが、その本の中に、この真砂教会のことがいっぱい出てくるのです。しかも、今からちょうど八十五年前の今日、つまり大正七年十一月九日の大祭の様子が、かなりくわしく書かれていることを発見したんです。といいますのは、実母たちは当時、祖母と一緒に教会の近くの老松町というところに住んでおりまして、兄武一は、北野中学を卒業した後、そのまま教会に修行生として置いてもらっていたからです。
 角埜の家は、その地で代々天王寺屋九郎右衛門という名称で両替商を営んでいたのですが、明治期にはすっかり没落してしまい、父親(つまり私の祖父)も亡くなって、家屋敷も売り払い、わずかの貯えと収入で母と娘たちが細々と食いつないでいたのでした。
 大正七年というのは、有名な米騒動の起きた年であり、スペイン風邪の流行した年でもあります。世界中でサーズなどとは桁違いに多くの人が亡くなりました。また、この年にはシベリア出兵ということも行なわれました。ちなみに、それらの出来事を詠んだ歌を数首引用してみます。

 恐るべし名こそ優しきスペイン風(風邪)
  遂に我等の学も止めぬ

 市内全校が閉鎖になった様を詠んだものであります。米騒動については「北の国の乱れは関西に移り、大君います東都さへ不穏の状態ときく。世人或は仲小路農相を辞職せしめんとし、或は寺内内閣の悪政を罵(ノノシ)り、鈴木商店の暴利(ボウリ)を憤慨(フンガイ)し、米屋襲撃(シュウゲキ)などと天下麻の如くなりぬ」と書き記し、近所で起こった騒ぎの様子も詳しく書き残しています。そして次のような歌を詠むのです。

 山ほども金をつみたる神戸市の
  鈴木もあはれうらみ火に失(ウ)す

 外国(トツクニ)を救はんよりも国内(クニウチ)の
  米のさわぎを鎮ませ給へ(市民の声)

 これから、その年の今月今日についての日記の記述を紹介したいと思うわけですが、何もわざわざ私が仕組んだわけでもないのに、こういう場で、こういうタイミングでそのことがさしてもらえるということを、なんとも不思議なめぐりあわせであると、何かの糸にあやつられてのことであろうかと、感じずにおれないのであります。
 それと、この年のこのご大祭が、教会にとっても大変なご事情の中で執り行なわれたものであることも知りました。なんとそれに先立つ十一月三日の早朝に、二代先生の御三男で、よしぼんさん(義忠様)と呼ばれる方が亡くなられたという記述があるのです。スペイン風邪でとは書いていませんが、一日の病で亡くなられたとあります。それに続いて、火葬場の焼釜が足りないので、「埋葬の他仕方なし」という新聞報道についても書かれてあります。大阪でもそれほどの人が死んだわけです。
 その三男さんの葬儀を終えられて、一息入れる間も無く大祭の準備に取りかかられなければならなかったというのは、気持的にも日程的にも大変なことだったろうと察しられます。
 更に大祭前日の十一月八日、兄武一が体調を崩し、夜になって一老信者に付き添われて帰宅し寝かされた、とあります。「秋の暮病みて帰らる兄上の 臥床(フシド)のべらるははの優しさ」という歌が添えてあります。
 そして翌日、前半の記述は兄の好物を求めて走りまわる様などが述べられ、堀山という方が見舞いに来られたとも書いてあります。この方は多分、後に桜井教会長になられた堀山哲先生のことだろうと思います。武一も後に大和高田に派遣され、そこへ私が子としてもらわれて行ったというわけです。そして実母の葬儀には、現桜井教会長先生に祭員として寝屋川市の葬儀場まで同道していただき、養母の葬儀の祭員にもなっていただく、というようなつながりが後にはできていきます。八十五年前の出来事が、そのような形で今につながっているのであります。
 続いて、大祭の模様であります。原文のまま紹介いたします。その日も今日のような曇り時々雨の天候でした。

「…午後二時より教會(カイ)にて金光教祖の卅(サンジュウ)五年祭しっ行せらる。廿(ニジュウ)人ばかり、神殿にずらりと白装束(シロショウゾク)のいかめしき神主さん並ばる。御即位式の儀式の人々も想像さるなり。み祭はいと厳(オゴソ)かに祝詞(ノリト)の声もすみ渡り、しめやかにふる秋雨にいよいよ静(シズマ)りぬ。海山里の草々(種々)のためつ物捧げまつりて、金光教の末々の栄(サカエ)と、浦潮(ウラジオ=ウラジオストック)の厳寒とつもる雪をしのぎて敵と戦へる下士將卒の勝利と、国内にあしき病の流行して人々の玉のをの命を損(ソコナ)ふ者多きを何卒救はせ給ひて大君の大み心を安らに国運のいよいよ発展せん事を祈りぬ。やがて秋草の露の玉琴かきならし歌はせ給ふ御 声、いとわかく花やかに実にえんてん玉をころばす如く、ぱっとつく瓦斯(ガス)の光、傍(カタワラ)より千筋(センスジ)あやなす黒髪さげて薄緑の衣に紫のはかまつけし絵を見る如き一舞人さん、しづしづ歩みを運ばせたれば、人々はただ茫然と眺めたり。琴の歌調につれて金色(コンジキ)の扇をもち、軽(カロ)らかに優美に神々(コウゴウ)しく立舞う袖ひるがえりて、燭火(トモシビ)に花の顔(カンバセ)てり栄えて形容の出来ざる様なり。五時終祭

 心してまへよ歌へや神楽人(カグラビト)
  おしへみおやの神のみ前に

 草々の海山里のためつ物を
  捧げて神のみ徳仰ぎぬ  」

 祭典の描写だけにやや堅苦しい文章になっていますが、ほんとはこんなのばかりではありません。祭典が全部終わるまで三時間もかかったというのは、説教も含めてのことだろうと思いますが、よくも正座したままで我慢ができたものです。
 それにしましても、その時の説教の聴衆の一人であった十三歳の少女は、八十五年後の同じ日に、同じ広前の説教台から、自分の生んだ息子の一人がこの文章を読み上げることになろうとは、想像もしなかったに違いありません。私自身も、ちょっと芝居じみた振舞かな、自慢話っぽいかなとは思いつつも、せっかく授けられたチャンスを無にしたくないので、敢えて紹介させていただいたのであります。
 そして数日前、次兄と電話で話すことがあり、今日のこの趣向について話をしましたら、すぐ後から、大正八年一月五日のも紹介してみてはどうかという、注文とも助言ともつかぬ提案が返ってきました。この兄がいなければこの本は絶対に生まれていないと言え、力のこもった序文とあとがきをも執筆した他ならぬ兄の提案は無視するわけにいきません。
 この日のもまた奏楽についての記述なのですが、私もちょっと「枕草子」のごとき趣きを感じますので、まるまる紹介してみます。

「一月五日 日曜 晴
 朝寝する事昨日より烈(ハゲ)し。おもちやきて御飯も食せず。午後より教會にて美々しき教楽祭(キョウガクサイ)行はる。白えりの黒紋付(クロモンツキ)に紫の持重(モチガサネ)つけたる、たおやめのかなずる玉琴(タマゴト)の音、歌ふ聲の『鈴の如き』すずやかさ、將(ハタ=それとも)鶯(ウグイス)の早くも谷間を出でて梅ケ枝にさへずるなるかと思はしむ。後に並びし廿人ばかりの男の人、これも揃(ソロイ)の楽裝して太鼓うつ人、鐘ならす人、或は爽やかなる笙(ショウ)の音、或は悲哀おびたる横笛やほほふくらして吹く七りきなど、或時は琴一名にて美しき歌の聲に耳楽しましむあり、又それに笙のまじるあり、笛のみなるあり、笙のみひびく時あり、大いなる太鼓の合づに全楽一度にひびく折もあり、かかる神嚴(シンゲン)なる奏楽の中に恭々しくお式はとり行はれぬ。実に身も心も神国に引きつられゆく如くなり。やがて白衣に真紅(シンク)のあやの袴(ハカマ)つけ、薄緑の上衣、いと輕(カロ)らなる天女の絵をみる如き二八の(十六歳の)乙女のうるしの如き長髪を白き紐にて根元結ひ、金銀の冠(カンムリ)かがやかせ、白足袋のはこびもおごそかに歌に合してまはれしいとしき姿、忘るる能(アタ)はず。遂に五時果てて麗はしく飾りし大広間を退りぬ。」
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十四歳で深い信仰心を身につけていたのだが
 日記帳は、卒業後も数日間書き継がれて、大正八年の三月末で終わっているのですが、その終わり、満十四歳の誕生日近くに、自身の信仰について次のような歌と記述があります。

 今更に神のめぐみの大なるを
  さとりにけりな暖かき午後

 雨の日も風の吹く日もかかせずと
  も早四年をすごしたりけり

「ああ、信仰。大(オオイ)なる力何ものも勝(マサ)るものあらず。大正四年九月末より、四年このかた、信仰とはさながら雨の日、風の日も、雪の日も、お正月、試験期もかかさず金光様のお徳したひて教會の門をくぐりぬ。身体上、学業上に大にお助(タスケ)を頂き、ただただ物事成功の毎に『金光様有難う存じます』と心中にお礼申し至りけり。或時は青島(チントウ)の戦に勝利あらん事を希(コ)ひしことありき。或は日本の人間の至善至徳(シゼンシトク)の域に達せんこと願ひき。又母の病、我が病の時、原田先生の御病気の時など必死にて全快を頼み、学業に付ても日々お救を蒙りぬ。其の他、家の不都合、級のもめ事、級友の不行状などに付、おかげ頂かんことを祈りし事もありき。毎夜教會に参りて尊厳なる庭に立ちて、松間の月などながめたる清々しき心地に、神前に伏して一日のお礼、不心得のおわび、お願ひして帰宅するを何よりの楽しみ、又日課とせり。されど今後は益々神信心により心を寛大にもち、我身を玉に磨きあげん考(カンガエ)なり。」

 つまり、九歳から日参をはじめて、この時点で四年めだというのです。しかも、毎晩教会に参って、一日のお礼お詫びお願いをするのが何よりの楽しみであったといいます。およそ懐疑というものの入り込む余地のない、まことに素直で一途な信仰心であると言えます。願うことの内容も、自身のことから周囲のこと、そして天下国家のことにまで及んでいるのです。
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そういう信仰心を大きく育てる環境がまだ用意されていなかった
 幸か不幸か、それ以後、この年齢でこれほどの信仰を身に付けた子孫は、私自身も含めて、子供の代でも、孫の代でも、曽孫の代でも一人もおりません。
 それと同時に、不可解なことに、その母親の信仰がそれ以後更に大きく伸びたという形跡も見られないのです。生涯、信仰を失うことはなかったものの、嫁入りして家庭の主婦となってからは、それがあまり顕著に表面に表れることはなく、子孫に伝わるほどの影響力も持ち得ませんでした。
 何故そうなってしまったのか。一つには、そういう母親の信仰的可能性を大きく育てるような環境が、当時のお道にはまだ十分に用意されていなかったとも言えるかと思います。子供の私の代においてさえ、私自身が曲がりなりにも信仰を獲得するまでに、ずいぶん苦労をしたのですから、無理ないと言えるかも知れません。何しろ、きちんとした教典すらまだ出来上がっていなかったのですから…。
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新教典は永遠の道標
 幸いなことに、教祖様のご帰幽から百年後、ようやく本格的な教典が刊行されました。これによってはじめて、私どもは私どもの信仰を真に確立していくための材料を与えられたのであり、これからの本教が五百年、千年と存続していける基礎が築かれたと思うのであります。
 教祖百二十年祭を迎えた今日、新教典を二十年間頂いてまいりまして、金光教祖の教えこそは、この世に一時的に滞在する我々人間にとって、永遠の道標となりうるものであると確信するに至りました。この「この世に一時的に滞在する我々人間」という言い回しは、あらゆる人にとって期間限定であるという人生の本質をつねに強く意識しての言い回しでありますが、そのことについてはまた別の機会に触れさせていただくこともあるかと思います。
 いずれにしましても、新しい教典から伺える教祖様の教えは、一段と純粋で、実意で、堅実で、慈悲の心深く、それでいて自由で柔軟で、心ある人々を魅きつけてやまぬものがあります。それ以前からも、こうした教えが、長年の間に、日本一まじめであると評価される教団をつくりあげてきたのであります。そのことに対しては、もっともっと自信と誇りを持っていただいてもいいのではないかと思います。
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いかにすぐれた教えも、廃れる危険性がつねにある
 それほどにすばらしい教えだと思うのでありますが、しかしながら、それだけではと申しますか、それゆえにかえってと申しますか、そう簡単に世の中に広まっていくとは思えないのであります。せっかくの教えも、その担い手である信奉者が、めいめいの身にそれを表わし、人にも伝えていくはたらきをしなかったならば、教えはたちまち廃れていきます。信奉者の信心の拠点である教会教団も、五百年千年を待たず存続の危機に立たされることになります。
 このお広前におかれましても、八十五年はおろか百二十年近くにわたって、少しずつ形を変えながらも、途切れることなくご大祭を仕えてこられましたことを、まことに有り難いことに存じます。
 もちろんここは親教会のことでありますから、さしせまった心配があるわけではありませんが、我々末端の出社は、これからもつねに存亡の危機に直面し続けることと思います。そんな中でも、お互い共々に子々孫々に信心を伝えて、末広がりに繁栄するおかげを蒙りたいと存じます。
 今回は、最近亡くなりました二人の母親についての話を通して、思うところを聴いて頂きました。
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