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金光教高田教会、我が信心を語る
5 「自分に正直」ということ
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 自分がどうなりたいのか、何もわかっていなかった
▲ 神も正義も人道も信じられず、落ちこぼれてしまった
▲ 神信心をするようになってはじめて自分の中の願いと向き合うようになった
▲ 神信心のおかげで自分に正直に生き易くなった
▲ 「正直」を尊ぶことは室町以来の伝統でもある
▲ 自分に正直に生きるのは、実際は容易ではない
▲ 自分に正直に祈ることならできる
▲ 性にまつわる悩みも、ただ正直に祈りすがることしかできない
▲ 自分に正直に生きたいというのは天地のいのちの動きに自分を合わせたいということ
▲ ただ、心の底から本気で願わずにおれないことを願えばよい
平成一九年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
自分がどうなりたいのか、何もわかっていなかった
 私が若い頃、紆余曲折の末どうにか本気で信心さしてもらう気になったとき、思い知りましたのは、自分がいかに自分自身を知らないかということでありました。自分自身がほんとうは何を望んでいるのか、どうなりたいのか、肝心なことがほとんど何もわかっていないことに気づかされたのであります。
 玉水教会の初代、湯川安太郎先生が「願いはありのままをありのままに願えばよい」といわれても、そのありのままがはっきりとわからないのです。そのようなことはそれまで本気で考えたことがなかったし、誰も考えることを教えてくれもしませんでした。
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神も正義も人道も信じられず、落ちこぼれてしまった
 学校ではただ読み書き算盤、目先目先の課目をこなしていくのに精一杯でしたし、人生そのものについて、肝心なことは何も教わりませんでした。戦後の混乱期ということもあったのでしょうか、むしろ神様を信じないようにならせるような空気の方が強く、ただ人と競争することしか教えられなかったように思います。
そして、物心ついたころから、自分が育った教会という環境と、学校や世間という外部の世界との間のあまりのギャップの大きさに戸惑い、途方にくれていたところがありました。また、ずいぶんみじめな思いもさせられました。
 そういういろいろな事情はさておき、結果としまして十代の私は、神様はおろか正義も人道も信じられない、弱肉強食適者生存という生物界の原理しか信じない人間になってしまっていました。
 それはとりもなおさず、自分が生を受けたこの天地宇宙というものに対する根本的な信頼感を欠いていたということであります。天変地異などで簡単に人間の命などを奪ってしまう天地宇宙が、いちいち人間のことなど気にかけてくれているなどとは、とうてい思えなかったのです。そしてすっかりニヒリスト気取りになっておりました。
 それでも、とりあえずは自分の生きている環境に適応しなければとがんばったのでありますが、そういう適応能力がきわめて乏しいことを思い知らされるばかりでした。教会・教団という内輪の世界にも、外部の世界にも、どちらにも適応しかねて、落ちこぼれ生活が続いたのであります。
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神信心をするようになってはじめて、自分の中の願いと向き合うようになった
 そんな生活からなんとか抜け出したいと悪戦苦闘の結果(「おあてがいのままに」参照)、どうにかこうにか神信心をさせてもらう気にならせてもらったのでありますが、そうなってはじめて、まず何をどう願うべきかということを一から考えることから始めねばならなかったわけであります。
 それはまた、願いというものをあらためて神からの授かり物と考え、自分の中にどのような願いが授けられてあるのかを問うことでもありました。
 そして折にふれ、自分がほんとうにしたいことは何か、しなければならぬことは何か、できることは何かということを真剣に考えるようになりました。そして何年もかけて、自分なりのご大層な長い長い祈念詞をつくって、毎日あげていたこともありましたが、長続きしませんでした。今でもそれらの願いは細々と生きているとは思いますが、祈り方は違ってきていまして、それらの願いを踏まえた上で、その時々に意識の表面に浮かんでくるもっとも切実な願いを、思いつくままにすくいとって願うというやり方に変わってきております(教会長としての祈念は別です)。
 それと、長年かけてもう一つ気がつきましたのは、自分の中の願いを固定させてしまう必要はさらさらないということです。
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神信心のおかげで自分に正直に生き易くなった
 もちろん私は、ただ単に祈り願うだけで何もしないというのではなく、願うと同時に、その願いの実現を目指してというか、或いは自分が願ったその通りに生きていこうともしてきたわけです。
 そういう目で見てみますと、それ以前はただ周囲や世間に流されて生きていただけということになります。そういう人たちの価値観に漠然と合わせようとして合わせ切れず、自分を偽ってずいぶん無理をしていた面があったのであります。
 その点、神信心をさせてもらうようになって、私はずいぶんと、自分に正直に生きられるようになったなあと思うのです。「自分に正直に生きる」というのと、「願う通りに生きる」というのとは、意味が重なり合いますが、「自分に正直に生きる」というほうが、ずっと幅広い感じがします。
 いずれにしましても、そう思えるようになりましたのは、自分の中にある諸々の願いを知るために、自分自身の心をみつめる必要が生じて、自分の心を一生懸命観察する習慣が生まれ、またそうすることが好きになった賜物であると考えております。
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「正直」を尊ぶことは室町以来の伝統でもある
 最初私が目にした信心というものは、ずいぶんと窮屈な不自由なものに見えていましたが、そうした表面的な余計なものを取り去って、私なりに突き止めえた神信心というものは、決して自分を偽る必要のない、自由なものであることがわかり、そのことにまず、大きく救われる思いがしたものであります。
 金光教祖は「信心は正直がもとである」と言われ、御自身非常に正直で率直な方であられました。
 それ以前からも、「正直」というのは、我が国で伝統的に重んじられてきた徳目ですが、江戸時代の庶民に浸透し、教祖さまも影響を受けられたとみられる、石門心学の祖、石田梅岩の説いた正直というのが「自己の本心に対して正直であれ」ということであったそうです。  室町時代以後、日本人は正直を尊ぶようになり、日本人の「いつわらざる人情」を描いた源氏物語や伊勢物語を尊ぶようになったというのが内藤湖南という人の説ですが、この伝統は今でも日本人の中に立派に生き続けているようでして、テレビドラマなどにもこの「自分に正直」という言葉は繰り返し用いられます。
 信仰にしましても、日本人は他の国の人々に比べると、宗教の教義や戒律や、建前よりも、自分たちの本音の方を尊重する傾向が強いようです。古くは仏教や儒教、比較的新しいキリスト教にしても、他国に比べるとずいぶん違った受け入れ方をしてしまうらしいのです。戒律などは、まずほとんど骨抜きになってしまうようです。
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自分に正直に生きるのは、実際は容易ではない
 こういう伝統を私自身は好ましく思い、それが日本の近代化を容易にした一因だとも考えております。しかし、だからといって、そのような日本人にとってさえ、自分に正直に生きるということは、実際はそんなに容易なことではないのです。
 第一、何が正直なのかということ自体が、簡単には割り切れないことが多いのです。どうしてよいかわからず、ウジウジと悩むのが正直な気持ちという場合もあります。あるいは、一番進みたいのはAの方向だけれど、それにはあまりに多くの困難が伴うので、比較的容易なBの方向を選んでしまったのが正直な気持ちだ、という場合もあり得ます。
 厳密に考えようとすれば、何が正直で何が正直でないかなど、わからぬことになってしまうのですが、それでもある程度の区別はなんとなくつくものとして考えてみまするに、自分に正直というのは、やはり自分がしたいように振舞い、進みたい方向に進むことと考えてよいと思います。
 そして、そうするにはたいてい困難が伴います。そうでなくても人間は愚かで無力です。正直に振舞うことが許されなかったり、正直に振舞うことで、周囲と摩擦を起こしたり、周囲を傷つけたり困らせたり、あらゆるトラブルが待ち構えています。
 それがわずらわしいばかりに、つい無難な行動を選んでしまいます。我慢してしまいます。いろいろな仮面をつけて人に接し、社会生活を送ることになります。その仮面がいつのまにか素顔に変わってしまっていたりします。普通の人は、 「マイウエイ」という歌の、「すべて心のきめたままに」という歌詞のように、かっこよくはなかなか生きられないのです。
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自分に正直に祈ることならできる
 神信心しているからといって、自分に正直に生きることの困難さに変わりはありませんが、信心する者は、少なくとも自分に正直に祈ることだけは可能になります。そのことの意味はきわめて大きいと思います。
 人間のすべての行ないは、ああしたいこうしたいと、まず心に思うことから始まり、その思いが強ければ強いほど行動に結びつきやすいわけですが、その思うということをさらに強くしたものが、祈るということであると考えられます。そしてそうすることで、更に目に見えない外からの助けまでもが加わるのです。
 実際、祈ることによって、自分は助けられているという実感を持つことができるようになり、困難が多い中にも、ずいぶんと生きることが楽にならせてもらっております。また、なかなか一歩前に進む勇気の出ないとき、前に踏み出す勇気も持たせてもらえたことは幾度かあったように思います。
 また、あまり肩肘張らずとも、自然体でいられることが多くなったことも有難いと思います。以前に比べて、あまり見栄を張ることも、卑下しすぎることもなしに、あるがままでいられるようになったと思います。
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性にまつわる悩みも、ただ正直に祈りすがることしかできない
 また、女性のことはわかりませんが、男性であれば、たいていの人が激しい性的要求につき動かされ、悩まされるわけです。これほど正直に振舞って差し障りの起きやすいこともありません。そうであればこそ、人類が滅亡することなく存続し得ているのですが、そういう欲求を適切に制御していくことも、よい相手に巡り会うことも、自分の恋を成就させることも、その愛を持続させることも、なかなか容易なことではなく、それらにまつわる悩みは実に多様で、尽きることがないのです。
 こんな厄介な事柄にお手軽な解決法などあるはずもなく、ただただ正直に祈りすがるしかないのでありますが、そのように神に祈りすがりつつ真剣に取り組むことで、それがこの世における修行となり、どのような人にでも、モテる人モテない人、結婚している人していない人など、いろいろと個人差はありましても、めいめいにいちばんふさわしい「救い」が授けられていくものと私は信じております。
 また、自分自身の体験は、それが他人からみればどんなにちっぽけなとるに足らぬものであっても、みなとても大切に思えてくるものです。
 私自身、落ちこぼれの身でその後結婚ができ、子供を三人も授かったということ自体が奇跡と言えば奇跡ですが、それにかぎらず、生涯に体験した失恋や、不如意や、心の葛藤や、或は愚行でさえも、すべて無駄事は一つもなかったと実感しています。
 真剣に取り組むなら、それがどんなに意に添わぬ経験であっても、めいめいに授けられたかけがえのない独自の「おあてがい」なんです。
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自分に正直に生きたいというのは、天地のいのちの動きに自分を合わせたいということ
 それにしても、人はなぜそんなに自分に正直に生きたいと思うのでしょうか。
 それは自分の心を天地のいのちの動きに合わせたいとする欲求の現れなのではないでしょうか。単純化して言うならば、神の分霊と言われる人間の動きが、天地のいのちの動き、すなわち神の心と合致しないとき、人は自分を偽っていると感じ、人の心は苦痛を感じたり、恐れを感じたりするのではないでしょうか。
 してみれば、自分に正直に生きることは望ましいことであるのに、それがそんなにむつかしいのは、それが人間に課せられた修行であり、いろいろと試行錯誤を重ねていくプロセスをも含めて、意味があるのだと受けとめるしかないと思います。
 えらそうに「自分に正直に生きる」と言ったところで、人の力はたかが知れていて、この世は人の意のままにならぬことだらけです。少なくとも私自身は、つねに自分の無力さを思い知らされることばかりです。
 また正直な気持ちというものも、多くは複合的です。何度も言いますが、実際は単純にわりきれるものは少なく、どっちつかずで曖昧なことも多いのです。それはそれで、できるだけあるがままに把握するしかありません。
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ただ、心の底から本気で願わずにおれないことを願えばよい
 そういう中で、何事につけてもあるがままに神様に祈りすがることで、道がひらけたり、生きることが少しはらくにならしてもらえるということがあるならば、有難いことではないかと思うわけです。なにしろ、この天地が刻々にしかも永遠に生きてござって、「生きた神を信心せよ」と金光教祖様が言うてくだされてあるのですから…。
 私自身は、もうそれなしには生きられない人間になってしまってはおりますが、極端な話、神様になどすがらなくても生きていけると思う人は、べつに信心しなくてもよいと思うくらいです。
 と言いますのも、私自身の信心が、理屈っぽい割には根はいたって単純、最初から今に至るまで、「苦しいときの神頼み」だからです。苦しくなかったときや心配でなかったときが、これまで一ときもなかったので、ついそうなってしまったのです。
 また、自分を偽ってまで、無理して立派なことを願う必要はないと思いますし、逆に、無理して自分に正直に願おうと努力する必要もないと思います。
 私はただそのときそのときに、心の底から本気で願わずにおれないことだけを、願い続けてきただけなのであります。それがとりもなおさず自分に正直に願うことだと考えております。
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談話室より
 坊っちゃん(男35歳) H.19.9.17

私は二十代後半頃まで、神社やお寺等にお参りして、お賽銭を入れて祈るとき、そのときそのとき願っていることをただただ「かないますように!」的にしか祈っていませんでした。それも神様や仏様の前で祈るのだからと、声には出さずとも、心の中で、丁寧な言葉で、神様・仏様に失礼のないようにと細心の注意を払いながら、いわゆる「体裁の悪くないこと」だけを祈っていました。つまり、神様・仏様に悪い人間と思われたくなかったのでしょうね。でも、いつの頃からか、そういう「いい子ぶりっ子」な祈り方はやめてしまいました。祈るときだけ「いい子ぶりっ子」してみても、神様や仏様はいつも見ておられるだろうからと思い始めたからです。
それからというもの、まさに「自分に正直」に祈るようになってきました。祈るというより、もしかしたら、「今こんなことを思っています」だとか「こんなことを悩んでいます」といった感じで、神様や仏様に話を聴いて頂くような感じで語り掛けさせてもらっています。それこそ、「○○のことが腹が立って腹が立って仕方ないんです!」等、上司や友人たちとのちょっとしたトラブルに対する怒りや自分の汚い部分も隠さずに正直に話し、一応、一応ですが、腹が立つものの「何とかいい方向に導いてもらえますように」と祈らせてもらっています。この場合の「いい方向に」というのは、仲直りすることだけではなく、たとえ仲たがいしたまま疎遠になってもそれはそれでお互いにとって「いい方向」ならそれもいいかなと最近は思うようになっています。
先生も書いておられましたが、「自分に正直に生きるのは、実際は容易ではない」ということ、本当にそうだなぁと思いました。「一番進みたいのはAの方向だけれど、それにはあまりに多くの困難が伴うので、比較的容易なBの方向を選んでしまった…」というところなんて、自分のこれまでの人生を振り返ると思い当たることが多すぎて、何となく恥ずかしい限りです。
どっちつかずの状態で悩むことの多い私ですが、そういうことも「ありのまま」願わせてもらいながら、また自分の心と対話していきたいなと思っています。


教会長より

こういう投稿を待っていました。
私の貧弱な話の内容が、より豊かにふくらんだ感じがします。有難う。
貴君の祈願成就を祈ります。
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