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金光教高田教会、うどんが好きかラーメンが好きか
39金光教教典について語る4
ー生きるのが少しはラクになるための三要素ー
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 三つの要素について、手を替え品を替え話してきた 
▲ それらの根拠とする教えを示しておきたい
▲ まとめて呼ぶと「生きることが少しはラクになるための三要素」
○ 絶対他力の教えについて
▲ 神様は人間が頼みすがることを求めておられる

▲ 神様は人との間柄を重くみておられる
▲ 万事神様を頼みつつ共に歩むという関係が一番望ましい
▲ 「何事もお願いしてさせて頂く」のが信心する人の生き方の基本
▲ 神信心でさえ、自力ではなし得ない
○ 絶対信の教えについて
▲ 教条だけではなかなか頼みすがる気になれないかも

▲ 具体例が大きな力になった
▲ あの時も助けられたなあと思う話を一つ聞いて頂く
▲ 廃屋に寝泊まりする決心をした
▲ 実行に移す間際になって救いの手が差しのべられた
▲ キセキ的ではあるが、人様の親切によって救われた話でもある
▲ 「一心を出して」願える願いは、「実意をもって」願える願いでもある
▲ 焦りは禁物、辛抱が肝心
▲ 揺らぎやすい確信に対処する教えが多い
▲ 頼みすがると任せるは、車の両輪
▲ 願った上での全ての成り行きがおかげ
▲ 願いそのものが授かり物
○ 絶対感謝についての教え
▲ 感謝の心そのものが幸せを生む 
令和三年九月二十二日 奈良県 桜井教会にて
三つの要素について、手を替え品を替え話してきた
 信心して助かるための大切な心がけとして、これまで三つの要素を説いてきました。それらが「絶対他力」「絶対信」「絶対感謝」ということであります。
 いつ頃からそう考えるようになったのかといいますと、「他力」と「絶対信」については、それらを学んだ信心の出発点から、かなり意識していたように思います。他力の信心につきましては、まだ「絶対」とつけられる程の意識はなかったのですが、「絶対信」については、当時の綱渡りのような日常を切り抜けていくための唯一の武器として、最初から強く意識していたように思います。
 その二つに「絶対感謝」ということが加わって、三つすべてが出そろったのが、三十代半ば頃であったと思います。以来ずっと、自身の日常生活の中で、それらの心がけが実際に身につくよう努力しつつ、その体験に基づいて、人樣にも、手を替え品を替え、そのことについて話をさせて頂いてきました。
 教会のホームページでそれをたどってみますと、直近では2015年に「28私の五十年」という話の中でそのことに触れています。それからでも、もう六年になります。それより更に二年前、親教会で、「22絶対他力、絶対信、絶対感謝」という、そのものずばりのテーマで話をさせていただいています。
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それらの根拠とする教えを示しておきたい
 それらを読み返してみて改めて気付きましたのは、いずれにおいても、教祖様の教えをあまり引用していないことでした。私の信心が、厳密に審査すれば単なる自己流に過ぎないにしましても、一応は金光教祖様の教えを根拠とし、補強材として成り立っているつもりであります。
 ですから今回は、これら三つの要素について、その根拠とする教えを改めて示しておきたいと思うのです。
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まとめて呼ぶと「生きることが少しはラクになるための三要素」
 そしてまず、これら三つをまとめてどう呼ぶべきかを考えてみました。「絶対」などという形容詞がつくとどうしても堅苦しくなってしまうのですが、要するにそれらは
 「生きることが少しはラクになるための三要素」なのだと思います。
 「少しは」などという言葉をはさむのは、単に「ラクになる」だけでは言い過ぎだと思うからです。お互い、この世にはめいめいの課題を背負って、苦労するために生まれてくるのです。簡単に苦労が取り除かれるわけがないのです。しかし、ほんの少しラクになるだけでも、その違いはとてつもなく大きいのだ、という意味も込めてのことなのであります。
 そこで三要素についての教えでありますが、一つの要素についてだけでも、丁寧に紹介しようとすると、大変な分量になってしまいますので、できるだけ絞り込みたいと思います。
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○ 絶対他力の教えについて

▲ 神様は人間が頼みすがることを求めておられる
 まずは他力の教えについて。
 言うまでもないことですが、「他力」とは他人任せということではなく、神様にすがり任せということであります。言い換えますなら、宇宙生命の根源にすがり任せるということであります。
 旧教典にはこういう教えがありました。

 「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え」(金光教祖御理解第五十一節)

 私共が目にする教祖樣の教えのほとんどは、教祖以外の人々が伝えた「言行録」から採られたものですが、この教えは珍しく教祖ご自身が書き残された覚え書きの中から採られたものであります。慶応3年(1867年)11月24日早朝、神様からの「お知らせ」として書き記されたものです。
 そこでは神様ご自身が、神様と人間との関係から説き起こして、生活の全てにわたって、「何事でも実意をもって」神様に頼みすがるよう、求めておられるのであります。
 それだけにきわめて重要なお言葉であると私などは思うのですが、そこまで重要なお言葉としては扱われてこなかったようです。旧教典では、御理解百節のトップ近くに据えてもいいぐらいだと思うのに、51番目にやっと出てくるだけですし(これを見つけてきたのはお手柄とは思いますが)、新教典の抄録には、採用されてさえいないのであります。
 私はとりわけ「身の上のこと何なりとも、実意をもって願え」の部分を重視して、「36教典について語る」でもそのことについて言及しております。
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神様は人との間柄を重くみておられる
 それから15年後、明治15年頃の次のような教えにも、この神伝に添って教えをされた痕跡が窺えます。

 「これまでは痛き時には神に信心いたし、痛まぬ時には信心なし
 これからは達者の願い。痛まぬ時、信心第一。家内中まめ息災、牛馬にいたるまでさしつかえのないように御くり合わせを一心に願え」(市村光五郎の伝え)

 このように神様は、全てのことにおいて人間が祈り願うことを求めておられるのですが、それは人との間柄をとても重くみておられるからのようであります。
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教職舎から二上山を望む
万事神様を頼みつつ共に歩むという関係が一番望ましい
 山本定次郎という方の伝えに、

 「『天地金乃神と氏子の間柄のことを、金光大神、参って来る氏子に話して聞かせよ』とお伝えくだされたので、このように話をしておるのである…」(抄録355)
とありますが、その続きにこうも言っておられます。

 「…この広前に参って金光大神の話を聞き、天地金乃神様を一心に頼み信心する人は、親類の内でよろしい縁組みを調え、方角は言わずに神様任せの信心して、安心に働く人もたくさんあるようになった。人間がなにほどよろしい吉日と定めておりても、大雨大雪が降って運びに困ることも数多いことである。万事、神様を頼み、安心におかげをこうむれば、ありがたいことではないか」

 このように万事神様を頼みつつ共に歩むという関係こそが、一番望ましい間柄のようであります。
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「何事もお願いしてさせて頂く」のが信心する人の生き方の基本
 その関係が良好に保たれている場合のイメージとしましては、

 「外へ出て畑の手入れをするにしても、神様と一緒にさしてもらっているつもりですると、仕事がよくできる。麦の谷(畝と畝の間)をかくのにも、神様のありがたいことを思い思いすると骨が折れない」(片岡次郎四郎 尋求教語録)

などがその典型でしょう。
 したがって「何事もお願いしてさせて頂く」のが、この道で信心する人の生き方の基本中の基本とされているのです。それをわざわざ小難しく「絶対他力の信心」などと呼称しているのでありますが(便利な時もありますので)、この「絶対」とは、要するに「全てにおいて」、とか「例外なく」という程度の意味であるとお考え頂きたいと思います。
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神信心でさえ、自力ではなし得ない
 しかし、信心していてもそういう生き方がなかなか身につかないのです。いつの間にやら自力だけでなんとかしようとしたり、できると思ったり、他人に頼ったりして身を苦しめているのです。本当は神信心でさえ自力ではなし得ないのに、できると勘違いしているのです。
 そこから次のような数々の教えが生まれたのでしょう。

 「何事にも自分でしようとすると無理ができる。神にさせていただく心ですれば、神がさせてくださる」(片岡次郎四郎 尋求教語録 抄録211)

  「商売するというから神は見ている。商売させていただくという心になれば、神はつきまとってさせてやる」(島村八太郎の伝え 抄録282)

 「信心するという心におかげはない。信心させていただくという心におかげがある」(島村八太郎の伝え 抄録103)

 「人にもたれてはいけない。神に一心にもたれたら助けてやる」(坂根利三郎の伝え)

 「人の心は移り変わりやすいものである。人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神に向けよ。神は、願えば何でも聞き届けてくださる」(押木マスの伝え 抄録76)

 心配が増したり焦りを覚えるときは、大抵気持ちが自力に傾いてしまっております。平素の信心生活においては、他力と自力との間を絶えず揺れ動きながら、生き方を少しずつ修正する努力を重ねていくしかないようです。
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○ 絶対信の教えについて

▲ 教条だけではなかなか頼みすがる気になれないかも
 次は「絶対信」であります。

 「思う念力岩でもとおすというが、氏子が一心を出して願えば、どんなことでもかなえてくださる」(荻原須喜の伝え 抄録223)

 「願うことは何事も、かなわないということはない。金光大神の手続きをもって願え。何事もおかげをいただける」(塩田茂八の伝え 抄録156)

 これらが本当であるなら、こんなうまい話はないわけですが、最初から文字通りに信じられる人がどれだけいるでしょうか。こういう教条だけでは、信心していない人が、初めて神様に頼みすがろうとする気には、なかなかなれないかも知れません。自分の信仰を補強してくれる後知恵としては有効であるにしましても…。
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具体例が大きな力になった
 私の場合、その気にさせられるのにいちばん大きな力があったのは、湯川安太郎信話集の中の数々の具体例でした。それに加えて、「一を信じたら二を二を信じたら三を」といった、あの畳みかけるような名調子です。
 「28私の五十年」でも話させてもらったように、とりわけ若い頃は、そういう教話から仕入れた「絶対信」を「魔法の杖」のように振りかざして、数々の難局を乗り越えてきた、つもりでありました。
 しかし、それを話に仕立てるとなると、めざましい話がそんなに数多くあるわけではありません。
 実際の日常生活というものは、今日に至るまで、ごく小さな困難との闘いであり続けています。70歳近くになってはじめたパソコン一つを使いこなすのでさえ、無数の小さな困難を克服し続けねば不可能なのです。そういう無数の積み重ねが、大きな困難の克服につながり、また数多くの「いつの間にか有難いことになっているおかげ」にもつながってきたのだと思います。
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その頃の「信話集」
あの時も助けられたなあと思う話を一つ聞いて頂く
 そういう中で、やっと話になりそうなものを、「1おあてがいのままに」という話の中で二つ聞いてもらいました。大学入試話とインプラントの話です。それもインプラントの方は、かなり老年になってからのものです。
 それら以外に、今回も一つぐらいは具体的な話を入れたいと思い巡らしました結果、あの時もほんとに助けられたなあ、と思う話を一つ聞いて頂くことにします。
 忘れもしませぬ昭和54年、教職舎(教会家族の住居)の立て替えをさせてもらった時のことであります。会堂以外の古い建物を取り壊して建て替えるには、どこかに家財道具を移転させ、仮住まいをしなければなりませ。町内の5軒先,距離にして 四、五十メートル離れたところに,もう長年人が住んでない廃屋がありました。家主さんがそのお隣に住んでおられたので、頼んで家財類を一時そこに置かせてもらうことにしました。
 次は住まいです。年取った両親には、旧広前の横にスペースがあったので、そこにカーテンを引いて寝起きしてもらうことにしました。
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廃屋に寝泊まりする決心をした
 問題は我々夫婦(妻がまだ存命中でした)と小中学生の子供3人です。転居の費用までは到底手が回りそうにありません。雨露さえ凌げればそれでよいから、いっそのことその廃屋で寝泊まりさせてもらったらどうだろうと、家主さんにお願いしてみましたら、とても住めたものじゃないと思うけれどお好きにどうぞとのことでした(内心あきれておられただろうとは思いますが)。ほこりをかぶっているとはいえ、畳はまだ残っていたので、掃除してそこでしばらく寝泊まりをする決心を固めました。それも夫婦だけで勝手に決めたことで、子供たちに相談した記憶はありません。否応なしに巻き込もうとしたのであります。
 今から思いますと,敗戦からまだ30年あまりしか経っていなかったのですが、それでも混乱期をすっかり抜け出して、世の中がそれなりに落ち着いていた時期に、たとえ一時的にもせよそんなところで寝泊まりをしたら、近所の人々の目にはどう映るだろうかとは思いました。しかし、そんなことにかまけている場合ではない、願う目標に向かって、左右を見ずに前だけ見て突っ走らせてもらうまでだとも思いました。それがまあ、私流の絶対信でもあったわけです。
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実行に移す間際になって救いの手が差しのべられた
 ところが、家財道具を手押し車で運び終わり、いざ寝泊まりを実行に移すという間際になって、当時既に老齢であった女性の信徒総代さんから声がかかかりました。
 その方の所有する長屋に空きがあることを思い出されて、娘さんに相談したら賛成してくれたので、よかったらそこを使いませんかとのことでありました。
 そんな長屋を所有しておられることなど全く知らなかったのですが、行ってみますと、教会とは池を隔てた向かい側にある通りに通じる薄暗い路地の中に、二階建ての長屋が建っていました。古びてはいましたが、電気,ガス、水道等、必要なものが全て揃い、廃屋に比べたら天国です。二つ返事で甘えさせてもらうことにしました。
 通うのも近いし、覚悟していた苦労や不自由をギリギリのところで免れさせて頂いた有難さは、筆舌に尽くしがたいものがありました。このご恩は一生忘れまいと心に誓いました
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キセキ的ではあるが、人様の親切によって救われた話でもある
 忘れまいとしたのは、まずは神様のご恩です。危ういところでまたもヒョイと手をさしのべて救って下さったのです。私自身の感じ方では、紛れもなくそれはキセキ的なおかげなのです。
 同時に人様のご恩も忘れられません。キセキ的なおかげだと言いましても、この場合は、前に述べた二つのケースとは少し違います。客観的にみれば、人様の親切によって救われた話でもあるのです。むしろそれだけの話として人は受け止めるでしょう。因果関係もちゃんと想像がつくのです
 おそらく総代さんは、お参りされた折の父母たちとの会話から事情を伝え聞かれて、放っておけなくて、教会のことだからと、神様の御用として場所を提供してくださったのでしょう。
 こうした建築に役員さんたちにどの程度関与してもらうかは、実は非常にデリケートな問題なんです。言うまでもなく教会施設は、家族の住まいといえども私有物ではありません。建て替えようとすると、法的には、役員会の同意を得るのが原則でしょう。しかし、それではかえって信者さんに経済的精神的な負担がかかってしまいます。そういうことでできるだけ負担をかけまいとするのが教祖様以来の流儀であり、鉄則です。
 会堂の建築ともなると、話はまた違ってきますが、家族の住まいだけを建て替えるような場合は、負担をかけないためには、平素のお供えの中からせっせとお金を貯めて、ある程度めどが立った上で、教会長の独断(実際は若夫婦の独断)でことを進めた方がいい、という判断で進めていた中で起きた出来事でありました。
 そのおかげで、少しどころか、ずいぶんラクをさせていただいたのでありますが、それもあくまで、曲がりなりにも神様への絶対信を培おうとした、日頃の努力があってこそ呼び込むことができたキセキなのだと信じています。教祖ご自身は、神様に願っておかげがあるのは当たり前で、それを不思議と言ってはならない、つまりはキセキという言葉も使ってはならないと言っておられると解釈はできるのですが、それでも私はその言葉を使わずにおれないのです。
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右側が教職舎
「一心を出して」願える願いは、「実意をもって」願える願いでもある
 ここで最初に掲げた教えにもう一度戻って、そこから「絶対信」について考え直してみたいと思います。抄録223の教えが最初に紹介されたのは旧教祖伝で、まだ岡山弁の痕跡が残る次のような表現でした。

 「おもう念力、岩でもとおす、というが、氏子が、一心をだしてねがえば、どがあなことでも、かなえてくださるどよう」

 誇張もハッタリもお嫌いな教祖様がなぜそこまで言い切られたのか、それだけでも興味深いです。
 そもそも、一心を出して願わねばならぬ願いとはどういう願いでしょうか。心の底から本気で願わずにはおれないような願いに違いありません。同時にそれこそが「実意をもって」願うことのできる願いでもあるでしょう。
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焦りは禁物、辛抱が肝心
 そして、そのような願いが叶うには何が必要なのかを考えてみまするに、まず努力、それも他力による努力が必要でしょう。
 そしてそれは必ず時間の経過の中で成就します。いわゆる「ご時節をいただいて」成就するのでありますが、それがどれくらいかかるものなのかは、人にはわかりません。1年かかるか、10年かかるか30年かかるか、50年かかるか、或いは一生かけてもまだ足りず、先の世まで持ち越されていくものもあるかもしれません。
 いずれにせよ焦りは禁物、辛抱が肝心なのです。
 したがいまして「言行録」には

 「何でも物事に急ぐから間違いができる。時節に任せばよい」(近藤藤守の伝え)

 をはじめ「時節に任せ」「時節を待て」やそれに近い意味の言葉がざっと20カ所以上出てまいります。

 「何事も辛抱が大切である。信心においてはなおさらのこと、辛抱が弱くてはおかげが受けられない。中には、やけを起こして信心をやめる人がある。気の毒なことである。車でも心棒が弱ったり折れたりしたら、車が回らない。信心ばかりではない。人間の業では何事も辛抱が肝心である。辛抱をしないで幸せを得た者は、あまりない。漁師でも農民でも商人でも、辛抱のない者は出世ができない。漁師や農民には風雨の天災があり、商人は損をしたりして、不幸せなことがある。それを辛抱していかなければ、幸せにはなれない。
 信心するにも辛抱が大切である。その証拠には、神殿のお扉を開いてみよ。ご幣か、み鏡のほかは何もない。ただただ、信心の辛抱でおかげが出るのである。神からおかげが出ると思わないで、信心からおかげが出ると思って、信心の辛抱を強くせよ」(津川治雄の伝え 抄録255)
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揺らぎやすい確信に対処する教えが多い
 同じ絶対信のあり方でも、目的達成の願いと苦境脱出の願いとでは、やや性質が違うかもしれません。前者は「必ず実現させて下さる」という確信であり、後者は「必ず助けて下さる」という確信です。
 確信といっても、それが実に揺らぎやすく、疑い、心配、迷い、焦り,失望落胆などに常に苦しめられるところから、それらに対処する様々な教えが生まれたのであります。

 「世の中で疑いが一番悪い。神に任せて、一心に信心をせよ。任せたうえは、神がよいようにしてやる。疑いを放すという心一つで、おかげをいただくのである」
 「また、臆病を去れ」(市村光五郎の伝え 抄録82)

 「心配は神に任せて、氏子は信心せよ」(中村弥吉の伝え)
 「徳のないうちは心配する。神徳をいただけば心配はいらない」(高橋富枝の伝え)

 「維新になって武士の俸禄もいただくことができず、この先、生活がどうなることかと思って参拝した時、金光様が、私の心中を察して、
 『何やかや心配して、かれこれ思うているであろう。神に任せて、足り不足を言うな。安心して時節を待っておれ』
と仰せられた」(秋山小梅の伝え)
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頼みすがると任せるは、車の両輪
 「苦境脱出の願い」は、当時は病気の願いが多かったようですが、「任せる」ことの大切さが強調されました。絶対信とは、頼みすがると同時に、全面的にゆだねきることでもあるのです。頼みすがると任せるは、車の両輪なのであります。

 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思ってうろたえてはいけない。言うことを聞かない時は、憎いと思ってたたくであろう。どうなってもままよと思ってほっておくような気になって信心をしてやれ。おかげが受けられる」(高橋富枝の伝え)
 「『天地金乃神は天地を一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるけれども、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。すべて、神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは何か。死んでもままよのことぞ』
と金光様が教えてくだされた」(片岡次郎四郎 尋求教語録 抄録234)
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願った上での全ての成り行きがおかげ
 絶対信を保持することはとても大切だけれど、あれこれ願っても願いそのものを絶対視してはならないとい言いますか、たとえ願い通りにならなくても、結局、そう願った上での全ての成り行きを「おかげ」と受け止めるべきだとも教えておられます。

 「自分の思うとおりを聞いてくださるのがおかげとは限らぬぞ。死んでおかげの者もあり、命をつないでもろうておかげの者もある。いっさいがっさい、この世のことは神様のご支配じゃから、親神様のおかげに任すよりほかはない」(片岡次郎四郎 尋求教語録 一部抄録131)

 「『神信心をしておれば神と心安いも同然じゃによって、大難は小難に、小難は払い取りのおかげをやる。これほど信心をしても、まだこのような難を受けるというのは、真の神徳を知らぬ者の言うことぞ。すべて、難は人間では寸尺の取れぬ(計り知れぬ)ものと知れい』
と金光様がおっしゃった」(片岡次郎四郎 尋求教語録 部抄録247)
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願いそのものが授かり物
 これらの教えを踏まえて、更に私自身の経験を踏まえた考えも付け加えて、この項を締めくくっておきます。
 目的達成の願いにおいては、年月が経っても少しも変わらぬ願いもあれば、変わっていく願いもあります。それはそれでよいのだと私は思います。また、こういう生き方をしたいとか、こういう人間になりたいと願うのなら、それらは一生の願いともなり得ます。
 いずれにせよ、願いそのものが授かり物で,何でもかんでも自力で自由勝手に願えているわけではないのだと身にしみて思います。どのような願いがその時その時自分に授けられているのか、常に自分と向き合って吟味し続ける必要があるのだと思うのです。
 それと、心配が絶対信を損なうということで、追い払うことにお互い苦心しているのですが、三要素のうちどれが欠けても心配は増すようです。私の経験では、それを直接追い払おうとするよりも、他力の心と感謝の心を強めることに努めた方が、ずっと効果的であるように思います。
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○ 絶対感謝についての教え

▲ 感謝の心そのものが幸せを生む
 最後は絶対感謝についての教えです。
 もう、二つの要素でかなり時間を費やしましたし、あとはそんなに説明を必要としませんので、教えのプリントの続きを、あとでじっくり味わって頂けたらと思います。
 ただ、お礼を言うことがおかげにつながるのだ、という言い方をしますと、お礼を言うことにまで見返りを求めるのか、そんなのは純粋な感謝ではないと主張する人が出てくる恐れがあります。
 しかしそれこそが、生きていく上に何の足しにもならない空論だと思うのです。感謝の心そのものが幸せを生むというのは、動かしがたい、神様とも約束済みの真理なのです。私個人は、ある人の「感謝は宇宙を味方につける最良の方法である」という意味の言葉を一番気に入っています。

 それでは,私が選んだ教祖樣の感謝についての代表的な教えを、とくと味わって頂きたいと存じます。

 「信心ということは天地の恩を忘れぬことぞ」(市村光五郎の伝え)

 「真にありがたいと思う心は、おかげのはじめである」(抄録128)
 「真にありがたしと思う心、すぐにみかげのはじめなり」(神訓 信心の心得)

 「信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ」(伝承者不明 抄録183)

 「お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげである。人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである」(利守志野の伝え 抄録56)

 「女、菜園に行って菜を抜く時、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを炊いて食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし」(市村光五郎の伝え)

 「九死に一生のお願いで、どうでもおかげをいただこうと、一心になっている時のように、お礼が本気で言えたらよい。願うことはすぐにできても、お礼はなかなか言えない。お願い一度にお礼十度というように、お礼を言う心が厚いほど信心が厚い。信心が厚いほどおかげが厚い」(片岡次郎四郎 尋求教語録 抄録185)

 「痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである」(荻原須喜の伝え 抄録324)

 「情けない、つらいことだと先を案じずに、今日もありがとうございます、今日もありがとうございますと思い、神様のおかげで雨にも遭わず露にも遭わず、ひもじい目も寒い目もせず、ありがたいことと喜べ」(柏原とくの伝え)

 「人間は食べ物でできているのであるから、物を食べなければすぐにやせる。病気になると、欲しい物が食べられないので困る。その時に、不自由を行(ぎょう)と思い、物を不足に思わないで、万事、神を一心に頼み、万物をありがたくいただく心を磨いていると、早くおかげが受けられる」(山本定次郎の伝え 抄録294)

 「あなた方は小さい所に気をつけて、夜分に提灯を借りても、手みやげをつけて、ありがとうと礼を言って返す。それならば、日乃神(太陽)には、どのくらい大きなお礼を申しても、過ぎることはあるまい」(柏原とくの伝え 抄録182)

 「道で夕立に遭うと、ごやっかいになりますと言うて軒下を借って、雨がもうやむかもうやむかと、空ばかり見ておるが、小やみになると、やんだやんだと言うて、ろくろく礼も言わずに出て行く。軒下に雨宿を借ったような信心をしては、おかげにならぬ」(片岡次郎四郎 尋求教語録 抄録184)

 「『信心する者は、いつも、心にみきを供えて祈れ。いっさいの願い事を成就さしてやる』
と金光様が教えてくださった。
 信心する者は、これを忘れてはならない。みきというのは、ありがたき、恐れ多き、もったいなきの三つのきである。信心する者の心からこの三つのきが抜けたら、おかげは受けられない」(片岡次郎四郎 尋求教語録 抄録214)
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談話室より
S.Sさん(男 60代 海外在住)R.3.10月

 生きることが少しはらくになる、、、いいですね。僭越ですが率直な意見を以下に。

 私ならやはり「少しは」を取ります。簡略されるので。ズバッと言えるかと。
 それと、らくになるの後に繰り返しですが、「気楽になる」を付け加えます。強調になりますし、教典によく気楽になるがでてきますし。

 家内中まめ息災、牛馬にいたるまで、、、
 いまなら、犬、猫、その他ペットでしょうか。彼らのほうが人間よりも高くて旨い料理を食べ、高い医療費を払っているはず。美容代も。人間は経費節減のためゾロ品ですが。
 もしかしたら、犬、猫、ペットのお通夜、お葬式、50日祭、一周忌が将来流行するかも。(笑い)
 高橋富枝先生のお話に、身代わりに死んだ鳥の葬儀の話がでてきます。

 3つの確信、核心の内2について。
 絶対信はやや分かりにくいので、わたしなら、ズバッと、「願えばおかげになる」にします。
 おかげを前面に出すと低俗な宗教と見なされるという時期もあったでしょうが、今の日本人はどんどん世界に遅れ、間違いなく貧乏になっているので、本音が受ける時代だと思います。
 貧乏というのは、お金もそうですが、考えたり生活を楽しむ時間も無くなってきています。
 正におかげが必要な時代だと思います。特に高齢者は死に対し、肉体的にも精神的にも接しているので。

 そのおかげをもらう為に、
 1 金光様を通す。「願えば家に来る」とおっしゃているので直接頼む。或いは教会経由。
 2 先に願う。教典に何回も割り木屋さんのたとえ話ででてきます。会社でいえば、ホウレンソウ。事前の報連相。
 3 一心で。
 4 心配を預ける。先生の文章にもありますようにこれは言うのは簡単ですが、実行は難しい教えです。半分預ければ成功でしょうか。こんなところで「あいよかけよ」言ってもしょうがないですが(笑い)

 上記4つを行ってもおかげをもらえない時もあります。最近あまり言わなくなりましたが、やはりめぐりの問題、これが足を引っ張っているのは大きいと思います。
 教会参拝の目的はお礼お詫びお願いだと思いますが、信者からみると、めぐりをもってもらう、持ち替えだと思っています。やや蛇足になりますが。

 教会の総代さんが、長屋をお貸しした実話、具体例いいですね。イメージが絵になります。
 総代さんの月のお供え3代免除ですね。(冗談です)


 教会長より

 いつも即座に、打てば響くように感想をくださるのが有難く、また、感服の他ありません。即断即決の世界で長年鍛えられてこられたせいでしょうか。
 タイトルについて、自分自身の好みに固執するべきか、それとも実際の効果を重視すべきかについては、もう少し多くの人の意見も聴いてみないと、判断ができませんね。その意味でも、他の方々も、どうぞ声を聴かせてください。

 絶対信という言葉をこの道で使われたのは、私が知るかぎりでは、あの「快傑」福田美亮師でした。確かこの道は「絶対信の道」であると主張しておられました。また高橋正雄師のご長男の高橋一郎師が、この道は「絶対プラスの道」であると書いておられたことに、若い頃感銘を受けた記憶があります。目先良いと思えることも悪いと思えることも、全てがプラスになっていく、おかげになっていく道だという意味です。この方も優秀な方でしたが、惜しくも早世されました。
 そんなこともあってか、私はこの「絶対」という言葉にもかなり愛着があり、できれば三点セットのままで普及させたいというこだわりからも抜けきれないのです。

 私は経済学のことにはほとんど無知なので、断言は避けたいですが、日本の貧困化の根本原因は、橋本内閣から続く緊縮主義にあるというMMT派の主張に九分通り取り込まれてしまっています。
 それをできるだけ自分の言葉に直して語ってみますと、国民の生活にとって一番大切なのは、収入が安定もしくは増加し、かつ需要と供給のバランスが取れて物価が安定しているということでしょうが、歴代政府は(というより財務省は)、国家財政は黒字でなければならぬという強迫観念にとりつかれて、本当に必要な物やサービスの供給能力まで縮小低下させてしまったのです。

 つきつめるとそれは貨幣観の違いというところに行き着くと思います。貨幣というものは、素人考えでは本当に摩訶不思議なものに思えるけれど、その本質をきちんと説明してくれている人が既にいると思い込んでいたのに、どうもそうでもないらしいのですね。見方が割れているらしいのです。流通する貨幣の総量を一定とみるか変動するとみるかでも割れているみたいですね。
 
 これも素人考えですが、たとえ貨幣の総量がある時点で一定であるとしても、その価値の総量はそれを使う頻度によって伸縮自在に変化するものです。貨幣発行権を持つ政府にとって最も大事な役目は、赤字か黒字かに関係なく、その伸縮自在な価値の総量を適切にコントロールしながら、需要と供給のバランスをとり続けること、とりわけ最も必要な物資やサービスの供給能力を維持向上させることだと思うのです。それさえ出来ていればいくら赤字になっても、国家財政が破綻することはないらしいのです。
 しかもそういう目的は、民間の活力とやらに委ねるだけでは達成出来ません。やみくもに民営化してはならないのです。特に水道事業など…。JRにしても、廃止するのは広い意味で惜しいような赤字路線なども、民営では維持できなくなりました。
 貨幣には価値の裏付けがいると考える金本位制などがとっくに破綻しても、国家財政が破綻しないことが明らかになった今でも、財政の実権を握る人たちの中にさえ、金本位制時代の貨幣観をまだ引きずっている人がいそうですね。

 総代さんの長屋の件について。その総代さんの後を継いで総代を務めてくれた娘さんも既に亡くなられ、残念ながら教徒ではなく仏教徒を兼ねた信徒だったので、子孫の方たちには信心が伝わらないまま、皆地元を離れて行かれました。


 坊っちゃん(男 40代 ) R.3.11月

 『何事もお願いしてさせて頂く』

……何事においてもの基本姿勢、日々の反省時、その日はどうであったのか、日々見直しさせて頂きたいと思います。

 『神信心でさえ、自力ではなし得ない』
 『……信心させていただくという心におかげがある』

 ……つい自力で『信心している』と思いがちな私たちですが、そうではなくて『信心させて頂いている』ということ、忘れないようにしたいです。

 『……神にさせていただく心ですれば、神がさせてくださる』

 ……神様、何卒、よろしくお願い申し上げます(笑)♪

 『……商売させていただくという心になれば、神はつきまとってさせてやる』

 ……どんな商売・仕事であれ、近江商人の言葉として、よく紹介されます、『売り手よし、買い手よし、世間よし』の『三方よし』の精神で、私も日々のお仕事を丁寧にさせて頂きたいと思います。

 『平素の信心生活においては、他力と自力との間を絶えず揺れ動きながら、生き方を少しずつ修正する努力を重ねていくしかないようです』

 ……軸がブレないように、『日々修正』、を心掛けさせて頂きたいです。

 『信心する者は、いつも、心にみきを供えて祈れ……』
 『信心する者は、これを忘れてはならない。みきというのは、ありがたき、恐れ多き、もったいなきの三つのきである。信心する者の心からこの三つのきが抜けたら、おかげは受けられない』

 ……昔、♪この木、何の木? 気になる木♪という有名なCMソングがありました。『気になる木』と『木になる木』が掛かっていて、大好きな曲でした。
  それになぞらえて、♪この『き』、何の『き』? 『みき』なる『き』♪で、『ありがたき』、『恐れ多き』、『もったいなき』の『三つのき』を、心に留めさせて頂きたいと思います(笑)♪


 教会長より

 ご多忙の中、前回分と一緒に、書きにくかった感想を苦心してまとめて頂き有り難うございます。
 心に響く言葉を列挙し、コメントを加えるという単純な手法を編み出されたところに、その苦心の跡が伺えます。このパターンは、未知のもっと多くの人々にも真似て頂きたいです。たった一つの言葉だけでもいいですから。
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