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金光教高田教会、我が信心を語る
15 近頃思うこと
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 何を見聞きしても心は生き生きとはたらいてくれる
▲ コメンテーターの意見と自分の本音・実感とを比較する
▲ 「ノリピー事件」のコメントに違和感
▲ 本当の自分をさらけだすことは、簡単なことではない
▲ 本音・実感というものは、あいまいで不確かなものではあるが
▲ 演技をしてどこが悪い
▲ 厳しい評価にもかかわらず、なぜ小泉さんが嫌いになれないのか
▲ 彼は既成の壁に大きな風穴をあけたが、構想力と持続力に欠けていた
▲ 国民は更なる破壊と改革を望んだ
▲ 後期高齢者医療制度はやはり必要らしいのに
▲ 民主党に問われるのは、お役人のための血税吸い上げ装置をどこまで破壊できるか
▲ 批判をする以上は、もし自分が責任を持たされたなら何ができるかという見通しを持って発言すべきである
平成二十一年十二月九日 大阪府 真砂教会にて
何を見聞きしても心は生き生きとはたらいてくれる
 日頃、できるだけ自分に正直に生きていきたいと思い、つねに自分の本音・実感を大事にしたいと思っています。「本音」という言葉だけでは物足りず「実感」だけでも物足りないので、両方を同時に使うのです。そして、そういう本音・実感の中に神が宿るというか、神様がいちばん強く働いてくだされてあるような気がしております。
 いくつになっても毎日何かと苦労が絶えないのでありますが、どんなに心配があっても苦労があっても、ささやかな楽しみはあります。夕方5時頃のコーヒータイムもその一つです。テレビのニュースショウなどを眺めながら、有り合わせの菓子をつまみ、砂糖抜きのブライト入りコーヒーをすするのがほぼ日課になっています。習慣通りのことが習慣通りにできるのは有難いことだとしみじみ思います。
 そういうテレビを見ておりましても、何を見聞きしましても、有難いことに心はつねに生き生きとはたらいてくれ、それが自分の本音・実感として感じられるのです。
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コメンテーターの意見と自分の本音・実感とを比較する
 こういうニュースショウに日替わりで登場する、いわゆるコメンテーターと言われる人たちは、良く言われることはあまりありませんが、需要があるから起用されるのであり、私は一定の役割は果たしていると思います。
 最初の頃は4チャンネルの「チチンプイプイ」を観ていましたが、いつの間にか6チャンネルの「ムーブ」に移ってしまっていました。左寄りの朝日系のはずなのに勝谷誠彦、宮崎哲弥をはじめ、いわゆる右寄りと思われている評論家たち(実は必ずしもそのようなワクにははまらないのですが)の意見が優勢で、なかなか見応えのある、硬派のしかも楽しい番組でした(いつも途中からしか観られませんでしたけれど)。関根友美、加藤明子という二人の女子アナが、またとても感じがよかったのです(初期にはあの山本モナがいました)。コメンテーターに芸能人を一人も入れていないのに、加藤明子アナと、山崎寛代、井上公造など芸能レポーターとによる芸能コーナーが、またけっこう楽しめました。
 政界や役所の不正を告発するスクープを報道したり、年金問題の火付け役となるなど、数々の実績を挙げ、視聴率も悪くなかったはずなのに、移動してきた左派の上層部と意見が合わなくて、つぶされてしまったらしいのは残念でなりません。
 仕方なく今は読売テレビを観ていますが、芸能人を主とするコメンテーター陣がなんとも頼りなくて物足りないのです。しかし、もの足りぬとはいえ、みなそれなりに個性があって、人間観察のいい材料にはなるなと思って観ています。
 それと、この人たちはどこまで自分の本音・実感を吟味しながら話しているんだろうということも気になります。恐らくあまり考えている時間はないだろうから、ほとんど反射神経でしゃべってるんでしょう。もちろん反射的にしゃべったことの中にも本音は出るでしょうが、自分の本音・実感とを比較してみて、違和感を覚えることも少なくありません。そういう違いはどうして出てくるのかと、面白く思うのです。
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「ノリピー事件」のコメントに違和感
 近頃世間を騒がせた「ノリピー事件」についても、コメンテイターたちは連日いろんなことを言いました。酒井法子が姿をくらました最初の頃は同情的で、安否を気遣っていたのが、容疑者となったとたんに、見損なった、裏切られたといったような意見が多くなりました。
 そもそも凶悪犯でもないのに騒ぎすぎと思うのですが、私の場合は、本人も薬をやっていたとわかった時、裏切られたという思いよりも、更なる同情の念が湧いてきたのであります。そして、本人のためにも、つかまって本当に良かったと思ったのです。自力で薬から抜け出すのは不可能らしいからです。しかし、私の知るかぎりでは、それをいう人はあまりいませんでした。そして、本人自身が、同じことを言っているということを後で知りました。
 こういう時の感じ方は、本人に対する好き嫌いが大きく影響するらしいです。彼女はテレビに登場するタレントの中では、私が一番好きなグループに入る一人でした。もう筋書きはすっかり忘れましたが、十四五年前、「星の金貨」という連続ドラマの主人公として、キラキラ輝いていたことだけを覚えています。
 それにひきかえ、あの人格がこわれてしまったような写真が度々写される旦那の方に対しては、きわめて冷淡な気持ちしか持ちえないのです。むしろ、彼女を自分と同じ地獄に引き込んだことを責める気持ちが強いのです。このお道の信心からしても、それだけでよいのか、彼の更生も同じように願ってやるべきではないのかと考えないでもないのですが。そういう観念的な信仰的な反省をひとまず横に置いた、正直な気持ちとしてはそうなのです。
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本当の自分をさらけだすことは、簡単なことではない
 もう一つうなずけなかったのは、この際何もかも正直に話すべきだ、どうしてそうしないのかという発言をする人が多かったことです。
 私はそんなことを気楽に言える人は、人間というものをわかっていない人だと思います。ありのままの自分をさらけだすということがいかに困難なことかかがわかっていないのです。人にはプライドとか自己防衛本能とかがあって、そう簡単に事実をペラペラ白状したりはできないものです。必死に自分を守ろうとするものです。仮に私が同じ立場に追い込まれたとしても、簡単に口を割らないだろうと思います。そこからあの手この手で真実を引き出してみせるのが、警察の腕の見せ所というものだと思うのです。
 つまり私は、自分にウソをつかない、自分に正直というのと、他人にウソをつかないというのは全く別のことだと考えているのであります。
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本音・実感というものは、あいまいで不確かなものではあるが
 それに、こういうことも自覚しておいた方がよいと思います。本音・実感というものは、めいめいの経験や知識や社会の通念や常識や建前などに影響されやすいものです。というより、それらと無関係に生じてくるのではないのかもしれません。とりわけ、その人の性格に左右されやすいのかもしれないと思うのです。同じものを見ても、その感じ方が、これが自分の本音・実感だと思っている感じ方と、他人のそれと食い違うことがあるのはそのせいかもしれません。
 それでも、そういうことを踏まえつつも、結局は、めいめいの本音・実感を大切にし、それに頼って判断するのがまだいちばん無難なように思うのです。
 ですから私は、ある事柄について考えるとなったときには、何が正しいかということはひとまず横に置いて、まず自分がその事柄について、実際にどのように感じているのかということをできるだけ正確に知りたいと思うのであります。そういう気持ちで、いつも自分の心の中を覗き込もうとするのです。その上で、観念的な判断も付け加えていこうとするのであります。
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演技をしてどこが悪い
 酒井法子関係のことでもう一つ苦々しく思いましたのは、報道陣相手に会見したときのコメンテーター達の反応です。彼女の服装や態度や謝罪の内容ににケチをつけるばかりで、彼女が日本中の晒しものになりながらも、薬物中毒患者としては異例とも言える謝罪会見を、たとえ演技にもしろ、つとめあげた健気さに言及する人がいないことに、私は失望しました。
 しかし、私と同じことを感じていた人もいるとみえまして、ある日の新聞紙上で鳥越俊太郎という人が、そういうコメンテーター達に腹を立て、あんたらはそんなにエラそうに言えるような上等な人間なのか、身なりを整えたり、準備をして会見に臨むことのどこが悪い、演技をしてどこが悪い、そういう立場に立たされたら、普通誰でもそうするだろうが、と怒りをぶつけているのに対して、私の本音・実感はいたく共感を覚えたのであります。
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厳しい評価にもかかわらず、なぜ小泉さんが嫌いになれないのか
 話は変わりますが、去年の今頃、今にも起こりそうだった政権交代が、やっと現実のものになりました。民主党政権になればなったで、よけいに心配なことはいくらでもあります。例えば、外国人に地方参政権を与えようとする動き、理由を述べている時間はありませんが、私は大変憂慮しております。しかし、自民党がこんなにだらしなくては、一旦交代もやむをえないだろうと思いますし、今のところ、交代したプラス面はあると思います。
 民主党の評価についてはもう少し様子を見るとしまして、それ以前に政権を担ってきた人たちについての人物評価について、私がいちばん気になっていたのが小泉さんについての評価でありました。小泉さんについては、これまでにずいぶん多くの批判がなされてきました。
 その極め付きは、小林よしのり氏をはじめ国の行末を案じる言論人たちによって出された「日本を貶めた10人の売国政治家」という本の中で、その第3位に挙げられて厳しく批判されていることでしょう。その内容について触れている時間もありませんが、それらの多くは的を射ていると思いますし、へえ、そうなのかと初めて知ったこともあります。
 それほどの批判があるにもかかわらず、依然として大衆的人気は衰えていませんし、実のところ私自身も、本音・実感のところでは、まだ小泉さんのことがどうしても嫌いになれないのです。何故だろうということがずっと気になり続けていました。
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彼は既成の壁に大きな風穴をあけたが、構想力と持続力に欠けていた
 思いまするに、彼の一番の功績は、長年押しても引いてもびくともしないように見えた政界官界の既成の壁に、大きな風穴を開けてみせたという点にあるのではないかと思うのです。そもそも内閣の最初の出発点で、派閥の長にも誰にも伺いを立てることなく、電話一本で閣僚を決めるという離れ業をやってのけました。それだけでも画期的なことでした。それまでは考えられもしないことでありました。そういう豪胆さが圧倒的な世論の支持を得ることとなり、長期政権を維持できるもとになったのだと思うのです。
 ただ残念なことに、彼には破壊力はあっても構想力が不足していました。瞬発力はあっても持続力に欠けていました。両者を兼ね備える人というのはなかなかいないようです。自分で細部まで構想を練ったり、それをコツコツ粘り強く実現していくだけの意欲も根気もなかったので、大まかな枠組みを決める力はあっても、あとは他人任せにするしかなかったのです。全て「マル投げ」だとよく批判されたように、細部の仕上げは官僚に頼らざるを得ず、結局官僚支配の壁を打ち破ることができませんでした。せっかくの改革も、結局は役人たちの既得権益が失われないように、巧妙に骨抜きした仕上げになってしまいました。
 小泉さんの瞬発力は、いわゆる郵政選挙においても再び遺憾なく発揮され、絶大なる権力を手にしたにもかかわらず、約束通りあっさり1年後に身を引いてしまいました。潔いといえば潔いのですが、ほんとうのところは、単に後を続けていくだけの根気がなかっただけかもしれないという印象を受けます。
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国民は更なる破壊と改革を望んだ
 しかし、その間に国民の目に明らかになったのが、特別会計の存在です。国家予算の何倍もの金額が、ほとんどチェックを受けずにお役人たちが管理していて、それをもとに、自分たちのための精緻な税金吸い上げ装置を作り上げているらしいということがわかってきたのです。それはつまりお役人によるお役人のための血税吸い上げ装置です。一旦退職した後でも、自分たちだけが、上級役人はもちろん下級役人もそれなりに潤う装置です。将来消費税を上げるのはやむを得ないとしても、まずそこをなんとかしろと国民は思いはじめたのです。
 後を受けた安倍さんは、その小泉さんの遺産を受け継いで、今なら絶対に通らないと思われる防衛庁の省への昇格、憲法改正手続き法の制定(今までなかったのが不思議です)、教育基本法の改正(とにかく変えてみせた点を評価します)などをやってのけましたが、年金問題等でつまずき、参院選に惨敗しました。
 続く福田、麻生の二人は小泉路線にきわめて冷淡な姿勢を示したばかりではなく、役人の税金吸い上げ装置にもほとんど手をつけようとしなかったために、せっかく開いた風穴が、いつのまにか上手にふさがれてしまったのです。
 しかし、小泉さんの登場で、その気になれば風穴を開けることが出来ることを知ってしまった選挙民は、もうそんなことで満足するはずがありません。福田さんや麻生さんのように、既成の壁を温存したままチマチマと政権を維持していこうなどという了見では、見放されて当然なのです。
 つまり今度の民主党政権の誕生は、小泉改革への反動として起きたのではなくて、小泉破壊に味をしめて、更なる思い切った破壊と改革を国民が望んだために起きてきたことなのだと言いたいのです。そう考える私とちょうど似たような考えを、斎藤環という精神科医が新聞紙上で発表しているのを読んで、我が意を得た思いがしました(9月6日、毎日新聞「時代の風」)。
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後期高齢者医療制度はやはり必要らしいのに
 小泉さんのためにもう一つだけ弁護するとしますならば、小泉改革のせいで医療や介護制度が厳しいことになったのは、何も小泉さん一人のせいではなく、あくまで累積赤字のせいなのであります。国民一人あたり数百万の借金のツケを子孫に先送りしながら、それでもまだ分不相応な福祉をむさぼらねば耐えていけなくなってしまった我々国民も共犯者なのです。一旦いい目をしてしまうと、もう行き詰まるとわかっていても、自らの意志では後戻りできないのです。麻薬中毒とそっくりではありませんか。
 評判が悪くて廃止すると民主党がいう後期高齢者医療制度というものの中味がどんなものか、私はあまりよく知らないのですが、愉快なものでないことだけは確からしいです。しかし、それをやらなければいよいよ立ち行かなくなるというのが、専門家にとっては自明のことでもあるらしいのですが、国民に向かって敢えてそれを主張する人は少ないのだそうです。ましてや、人気を気にする政治家や官僚は口をつぐまざるを得ないのだといいます。
 そういえば確かに、この制度の必要性を主張していたのは、私が知る範囲では、櫻井よしこさんと宮台真司さんぐらいのものです。なんと意気地のないことかと思います。
 それにまた、お年寄りの中には、「後期高齢者」という呼び方自体が気に入らぬとすねてみせる人たちがいます。私ももうすぐその仲間入りをするので、遠慮なしに言わしてもらうのですが、なんとつまらぬことにこだわる人たちかと思います。何の感情も価値判断も含まぬ「前期」「後期」という呼び方でいいではないかと思うのです。「長寿医療制度」だの、妙に気を遣った他の呼称に変えることなど、むしろ断固拒否したい気分です。
 せっかく十年以上の歳月をかけて苦心の末編み出されたこの制度を廃止して新たに練り直したとしても、結局しなければならぬことは似たようなところに落ち着くしかないのかなと私は思うのです。だから、またも費用と年数をかけて作り直すよりも、手直し程度にしておけばいいと思うのです。
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民主党に問われるのは、お役人のための血税吸い上げ装置をどこまで破壊できるか
 これからの民主党に問われるのは、小泉さんにもできなかったこと、堅固に組み立てられたお役人によるお役人のための血税吸い上げ装置をどこまで破壊できるかということです。すぐに消費税を上げなくても、そういう無駄を省けばやっていけるというのですから、お手並み拝見といきたいものです。
 それと、一般国民との所得格差是正のために、大阪府の橋本知事が断行したような公務員の給与カットが行なわれれば国民はもっと納得するのでしょうが、国家公務員の労働組合を支持基盤とする民主党が、そのことに手をつけようとする気配が今のところ全く感じられないのは残念なことです。
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批判をする以上は、もし自分が責任を持たされたなら何ができるかという見通しを持って発言すべきである
 最後にもう一つ、政治や社会の問題についての批判をする人間は、とりわけ政治家たるものは、批判をする以上は、自分がもし責任ある立場に立たされたならばどうするか、何ができるかという見通しを、確固たる見通しとまで言わぬまでも、かなりの程度は持って発言すべきであると思います。
 そうでないと、いざ自分がやらねばならぬとなると、コロコロと考えや発言を変えねばならぬことになってしまい、結局は前任者たちと似たりよったりのことしかできなくなります。悪くするとそれ以下のことしかできない場合もあります。その点で、これまで野党の立場にいた人たちのほとんどは、鳩山さんをはじめ実に心許ないのです。例えば、沖縄の米軍基地問題の迷走ぶりなどを見ていますと、とてもそんな見通しを持って発言していたようには思えないのであります。
 これはそういう人たちだけのことではなく、我々自身の問題でもあります。威張って言えることではありませんが、私が教団の教務教政についての批判をほとんどしたことがないのは、なら、お前が代わってやってみろと言われても、残念ながら何もできる見識や見通しがないからです。ですから、そういう困難な仕事を引き受けてくださる方々に対しては、ただただご苦労様ですとしか言いようがないのです。

 今回は、生活の全てにおいて本音・実感を大切にするという立場から、近頃の世の動きを見聞きして感じたところを聴いていただきました。
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談話室より
 教会長より 令和4年11月
 この第15話を、13年経った今も毎月二桁の人数の方々に読んで頂いているのは誠に有難いことです。
 しかし、当時はまだ、郵政改革が外圧によるものだとの認識がなく、「民間の活力に委ねる」ということも、全面肯定できるわけではないとは思っていませんでした。また、「国の借金」ということについての考え方も大きく変わってしまいました(「42至急拡散してほしいこと」参照)。メインの「本音・実感」ということについての考えは今も変わっていません。
 それらのことも踏まえてお読み頂ければ幸いです。


坊っちゃん(男36歳) H..22.1.28

私も、できるだけ自分に正直に生きていきたいと思っています。
先生がおっしゃられている「『本音』という言葉だけでは物足りず『実感』だけでも物足りないので、両方を同時に使うのです」に、なるほどなぁと思いました。
私自身、これまでに、本音としてはAの方向に進みたいのだけれど、いろんな事情もあいまってBの方向へ進んでみたら「やっぱり違うかった!」と実感した経験、いっぱいあります(笑)。

「習慣通りのことが習慣通りにできるのは有難いこと」、ほんとそう思いますね。私は、毎日のお通じがスッキリのときと、そうでないときで、ものすごくそれを思いますね(笑)。
 
「ノリピー事件」は、好きな女優さんだっただけに、とてもショッキングで、残念なできごとでした。
所属事務所の社長さんとか、まともなときのノリピーを知る人たちの話では、よく気配りのできる女性だったってことですし、薬物に手を染めさせた旦那に、ただただ腹が立ちました。
確かに、旦那の更正も願ってやらないといけないのでしょうけれど、私の本音の部分ではちょっと無理だなぁって思います。
先生も書いておられますように、「結局は、めいめいの本音・実感を大切にし、それに頼って判断するのがまだいちばん無難なように思うのです」というところ、そう思います。
何かの相談で友達などの意見を聞かせてもらったときなど、こちらの本音と実感を踏まえた上で(こちらの言ってる感覚を理解し、内容をよく理解した上で)、意見を言ってくれているのか、そうでないのか、そういうところがすごく重要になってきますね。
思いやって言ってくれているのは充分に分かってはいるのだけれど、途中からただ単に、その人の経験や価値観だけに基づいて、意見を言っている自分に酔っているような主観的なものに変貌したりしだすと、ちょっと意見を聞いてみようとしたことがかえって厄介になったりしますし。
その事柄について、自分がどう感じているのか、どうすることが先々で後悔がなさそうか、私の正直なところを、私もできるだけ正確に知った上で、そのあとの判断をしていけたらなぁと思います。

それから、いろんな番組で批判ばっかりしているコメンテーターの意見を目にしていますと、ほんと苦々しく思うことありますね。
Aさんがこうしたら、批判。Bさんがああしたら、批判。Cさんがこう言えば、批判。Dさんがああ言えば、批判。 批判、批判、批判……。批判ばっかり。
それでいて、批判をしている人だけが、とても高尚な人であるかのようなメディア映りに、今の時代、老若男女皆が見慣れ過ぎているように思います。
なので、意識する・しないに関わらずそういうことが刷り込まれ、無意識に皆が、会社の会議や、サークルや部活動のミーティング、学校の学級会などなどで、建設的な意見交換で議事が進まず、批判ばっかりの否定的な不愉快な議事進行が、世の中に蔓延していっているんだと思います。
まさに、誰かを批判することで、高尚な自分を演じて、いい気分と言うか、言い負かしてやったみたいな優越感に浸りたがる人が多くなったと思います。
国会で、国民の模範となるようなまともな議事進行をして、建設的な文化をこの国から世界に発信していってほしいなぁと思います。

それから、「演技をしてどこが悪い」のところで、鳥越俊太郎さんの新聞紙上での意見に先生も共感されてましたが、私もそう思いました。
私たちの生活においても、少なからず「演技」ってしていると思うのですが、何か思うところがありましたら、先生のご意見をお聞かせ頂けたらと思います。

教会長より

「演技をしてどこが悪い」などと、刺激の強い居直ったような言い方になっていますが、これは鳥越さんの言葉をそのまま引用したのではなく、私の言い換えです。こういう考え方の底には、人間は、それと意識するとしないとにかかわらず、社会生活や家庭生活を円滑に営むために、いろいろな仮面をつけて演技をしなければならないのだという認識があります。ありのままの自分を知るということは、そうした演技に対しても自覚的になるということだと思うのです。


おことわり H.22.2.26

この後、外国人参政権問題についての対話が続いていましたが、この問題については独立したページを設けて「談話室」の下に移動させました(「外国人参政権問題について」)。

T.O さん(男 教会長 68歳) H.22.2.17

「近頃思うこと」の冒頭にあるお言葉、
「日頃、できるだけ自分に正直に生きていきたいと思い、つねに自分の本音・実感を大事にしたいと思っています。「本音」という言葉だけでは物足りず「実感」だけでも物足りないので、両方を同時に使うのです。そして、そういう本音・実感の中に神が宿るというか、神様がいちばん強く働いてくだされてあるような気がしております。」
これもまた貴先生らしい誠実な物の考え方、とりくみ方を語ってをられて、何ともありがたいおことばです。それにしても、ここでのお話は、殆ど政治社会の時事に関してのことであり、ちょっとこんな教話は普通珍しく、ともかくも神さまに関するお話を殆どせずに了ってをられるユニークな内容に少々びっくり致しました。 かつての小泉純一郎首相に好意的な評をなさってをられますが、このてん、まことに珍しく先生の意とは異にして、小生は小泉を全く評価しません。
人心が時に情動的に流れてゆく、悪しきポピュリズム(大衆迎合)に乗っかった最悪の首相の一人であったとしか、私には思はれません。あの、ちょっとダンディなルックスと姿、短いコピー表現に、大多数の国民が洗脳されたといふか、炭酸飲料のような爽快感のやうな感じを持ったのでせうか。とにかく、彼には郵政民営化しかない、実に間口の狭い、奥行きのない、政策能力のない人物でした。
そして何と言っても、皇室会議のメンバーをほとんど素人の連中でかためて、女性天皇もよしといふ、とてつもない国体破壊といふ最大の困難を将来しようとした人物として、断じて許すことができません。日本と日本人のアイデンティティの中心軸である皇室に対する敬意を少しでも持ってゐたなら、恐懼に堪えないはずのものを、それこそ国会に上程して議決するかといふところまで行ったところで、まさに天佑神助、悠仁親王のご生誕をみたのであります。これで小泉のもくろみは、一旦アッサリと消えたわけでしたが、この問題は、なほこれから浮上してくることでしょう。小泉のやらうとしたことは、万死を以って値する大罪を冒したしたことになります。現今の日本において、真に保守政治家として信頼するに足る人といへば、平沼赳夫、西村(元民主党議員)指折り数へるほどのものしか、どうやらゐない。さういふ意味で、中川昭一の死は惜しまれますし、安倍さんには捲土重来を期し、たくましく立ち戻ってきてほしいと思ってをるところです。

教会長より

いささか「ユニーク」過ぎる話になりましたのは、別だん奇をてらってのことではなく、話すに足る身辺の材料に窮し、例によって政治社会、時事に活路を見出そうとしただけのことであります。しかし、それも出社教会の持ち回りによる親教会での月例祭の教話なればこそ許された(?)ことで、大祭説教だと、さすがにそうは行かないでしょうね。
それと、私の中では、身辺の平凡な出来事よりも、日々茶の間に流されてくる情報の方が生々しく身近に感じられてしまうという倒錯現象が起きている面があるような気もします。

小泉さんについての評価の違いが、本音レベルでもこのように避けられないとすれば、めいめいが「本音・実感」だと思っているものを絶対視するのはいよいよ危ない、ということの好例になるかもしれませんね。めいめいが蓄積してきた知識や観念の質や量の違いによって、このように差が出てくるのですね。そういう危険性とか限界とかをわきまえた上で、それでもなお、その時々のめいめいの本音・実感と思うものに従うしかないと思うわけです。 「本音・実感」という言い方については、それらの言葉の意味を統合したような「本心」という立派な言葉が、江戸時代から石門心学などで使われてきているようですが、教祖様もその言葉を使って教えを残しておられるだけに、畏れ多くて、まだよう使わずにおります。
小泉さん対する論理的な批判の多くを受け入れ、私自身も結構ひどいことを言っているにもかかわらず、直感的なところではまだ嫌いになれない、その本音・実感を私は大事にしたいのです。 彼の登場以来、確実に何かが変り始めた、長年ビクともしなかったもの(悪い意味で)が、やっと揺らぎはじめた、という印象があります。ゆらいだまま今に至るまで迷走を続けているわけでしょうが、よどんだものが入れ替わるまで、一度は通ったほうがいい過程ではないでしょうか。
そして、いろいろ言われながらも、前後の首相たちのような「やめろコール」が起きず、長期政権を維持した上に、その気になればまだまだ何でもやれる絶大な権力を手にしたまま、あっさりその座を明け渡すという、己の限界を知る機敏な出所進退ができたのは、やはり他の人にはない何か非凡なものがあったのだと思わざるを得ません。 皇室の男系絶対原理については、不勉強で理解できておりませんが、現在の宮家と一夫一婦制度のもとにおける男系維持の困難さは私にも理解できます。外国人参政権問題で触れたと同じ「Will」の3月号で、あの小林よしのりさんでさえ、そういう問題で心を痛めておられる今上陛下が、どうやら女系天皇や女性宮家の容認に傾いておられるらしい、そのご意思を無視すべきではない、という発言をし始めています。

それにしても、どんな政治家でも、結局は押しなべてみな力不足なんですね。そんな人たちを頼らねばならぬ空しさ心細さはあっても、人間の世界は永遠に迷走を続けるしかないものなのだと思い定めて、それでもあきらめずに天下国家を祈り続けたいと思います。

教会長より H.22.6.1
過日、皇位継承問題のことにつき、T.O師より更に長文のご意見をいただきましたので、「談話室関連資料2」として、実名にて転載させていただいております。
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