大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 ホームへ教会のご案内 教会長からのメッセージ
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金光教高田教会、我が信心を語る
16 差別とケジメ
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ お金の無心は受け付けないことにしているが
▲ 物乞いのできる環境そのものが変わってしまった
▲ 相手にしてくれるのはお人好しの宗教家だけ
▲ それほど世知辛い世間も、対外的にはお人好し無防備能天気
▲ 忍び寄る国家の危機
▲ 永住外国人に選挙権を与えないのは差別か
▲ ならば、国籍にはどういう意味があるのか
▲ 国籍は帰属意識の最低限の証
▲ 「こだわり」を持つ人々が外国籍のままで参政権を得るのは、国家分裂の永久固定化拡大化につながる
▲ 多民族国家になればなるほど、同一の国籍でまとまる必要がある
▲ 戦後の日本人は臆病で事勿れ主義で、外国からの干渉に極端に弱い
▲ 外国籍でいるかぎり、本国の国益を背負った「お客様」
▲ 国籍取得を条件とするのは差別ではなくケジメ
▲ 無関心と無知がいちばんこわい
▲ 日本列島だけは日本人のものとして守り抜こう
平成二十二年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
お金の無心は受け付けないことにしているが
 お互い、お金についての悩みは尽きることがありませんが、別の意味で、私のような立場の人間が日頃悩まされておりますのが、お金の無心に来る人たちへの対応であります。教会にはそういう人がちょいちょいやって来るのです。
 それは教会というものの構造上、来訪者を拒むことができないということに加えて、そもそも教会設立の目的が、神への信仰を通して人の難儀を救済し、愛や慈悲を説くことにあるからです。だからといって、直接お金を恵むとかして救済することを目指すのではなく、あくまで取次者が神に祈願したり教えを説いたり、本人が神に祈願することを通してのみそれを行なおうとする場なのであります。取次者に、直接お金を恵んだり病気を治したりする力があるはずもなく、そんな義務もないのです。
 ですから、そのような要請は原則としては受け付けないことにしているのですが、それでも、突き放しきれずに引き摺ってしまっているのが、今のところ三人います。一人は、元信者さんのもう五十近い息子で、子供の頃は少年少女会のハイキングに参加したこともある男性です。父親を早くに亡くし、精神疾患の治療を受けていて、わずかながら公的援助も受けているのですが、その範囲内では自活する能力がなく、その上何かと金のいる失敗をしでかします。しょっちゅう何かの支払いに追われていて、年金暮らしでその上病身の母親や、姉や妹や学校の恩師などに迷惑をかけまくっているのです。私もその一人というわけです。
 一人は、かなり重い罪での服役帰りだという中年男性で、時折寺院などで雇ってもらうらしいのですが、仕事にあぶれたと言っては、大阪までの電車賃や飲食物をせびりに来ます。それでも、飲食物を求める人というのは、金額的にはあまり大きな負担はかけてきません。
 今一人は、これがいちばん長くて、三〇年近く引きずっております。孤児院育ちの男性です。若い頃から仕事がないと言っては(あっても続かないのです)寺院や教会を渡り歩き、それでも結構やっていけたらしいのですが、だんだん相手にされなくなり、六〇才近い今では、働き口はますますなくなり、お金をもらえる相手はごくごく少数になってしまったらしいのです。しかも、阪神大震災以来、完全にホ-ムレスになってしまいました。
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物乞いのできる環境そのものが変わってしまった
 彼らの言うことの大半がウソであるとしても、彼らが人に金品をせびり歩かねばならぬ惨めな境遇にあることだけは確かなので、つい幾らかは与えてしまうのです。
 その孤児院育ちの男に、昔は、各家毎にほんのわずかばかりのお金、今でなら五〇円かせいぜい百円くらいのお金をせびり歩く乞食がよくいたので、教会ばかりに負担をかけずに、時間はたっぷりあるのだから、普通の家を一軒ずつ回って数でこなす努力をせよと言いましたら、それもやってみたらしいのですが、相手にされないと言います。
 昔と違って住宅の構造も違いますし、住人と直接対面できるのは個人商店くらいのものですが、商売人というものは極めてシビアなもので、十円の金もおいそれとは出しません。つまり、物乞いのできる環境そのものがすっかり変わってしまったのです。
 勢い、お寺や教会に足を向けざるを得ないということになるのですが、そのお寺や教会でさえ、ほとんど相手にしてくれず、下手すると警察に通報されてしまうのです。
 その警察がまた、留置場にさえ簡単には入れてくれません。とにかくここではないどこか別の場所に行ってくれという対応です。ホームレスになる以前も、生活保護を受けられるまでには至らなかったのですが、ホームレスだとますます福祉の対象外です。どこにも頼っていくところがないのです。
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相手にしてくれるのはお人好しの宗教家だけ
 それでも、宗教家の中には、たまに私同様、少しはお金を渡すお人好しもいるらしいのです。すると、ますますそういう人のところにしか足が向かなくなり、そういう人たちの負担が重くなるのであります。
 ホームレスの男は、普段は大阪の西成あたりで野宿したりしているらしいのですが、高田市内では他にもらえるあてがないのに(以前はもう一人、カトリックの外人神父さんがくれていたらしいのですが、帰国してしっまったのです)、電車賃を踏み倒して、わざわざこちらまで移動してくるのです。駅員も金を取るのを半ばあきらめているらしいです(持っていることがわかったら、もちろん取り上げられてしまいますが)。
 そうして彼がやってくると、私は口は悪いし、もらいにくる間があまりに詰みすぎると、冷たく突き放すこともあるのですけれど、それでも、根がお人好しなものですから、その場凌ぎの厄介払いの気持ちもあって、つい幾らかは与えてしまうことの方が多いのです。
 しかし、それはあくまで其の場凌ぎに過ぎません。こういう明らかに不幸せな人たちほど、信心して救われていかねばならぬはずなのですが、そういう人たちにお道の信心を説いて救い助ける力量が、自分にまだまだ不足していることを思い知らされるばかりです。向こうにとっても、教えに耳を傾ける気などなく、ただただ目先の金品がほしいだけなのです。
 こちらとしては、せめてそういう人たちが人に迷惑をかけずに生きられるようにしてやってくださいと、その都度祈ることしかできておりません。
 そしてまた、そういう人たちを公的機関が放置するために、教会や寺院にそのしわ寄せが来る現状をなんとかしてほしいとは思います。しかし、民生委員としてその公的機関の末端にいる私自身が、何も動かずに手をこまねいているだけでいいのか、という自責の念もあります。かと言って、自分の身の回りの用事だけで手一杯で、彼らのために根本解決を図るべく奔走するほどの余裕もなく、結局、その場凌ぎのことしかできないでいるのであります。
 数日前も、そのホームレスさんがほぼ一カ月ぶりにやってきたので(来た日を記録するようにしています)千円与えて済まそうとしました。これが十日ぶりに来たのならら、五百円とか三百円とかで追い返すことになります。しかし相手は、千三百円あれば簡易宿泊所に泊まれるので、久しぶりに体を伸ばして休みたいのだと食い下がります。いつもそういう駆け引きがあるのです。
 こんなときいつも思いますのは、この男性は、たとえ身から出たサビといえども、いわゆる暖衣飽食する(宗教家を批判するときによく使われる言葉です)私なんかに比べて、何倍もの厳しい修行をさせられているんだなあ、ということです。
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それほど世知辛い世間も、対外的にはお人好し無防備能天気
 こういう話からはじめました動機の半分は、まず私が、私生活においては、慈悲深くはないまでも、かなりのお人好しであることを了解してもらって、その上で後の話につなげていきたいと思うからであります。
 と言いますのも、そんなお人好しの私でさえも、世知辛い世間一般の人たちの方が、国家のあり方を決めるについては、私よりもずっとお人好し過ぎるのではないか、言い換えるなら、あまりに無防備過ぎるのではないか、能天気過ぎるのではないかと心配なことがでてきたからです。それが前回にも少し触れた、外国人参政権問題についてであります。そのことが今度の政権交代によって、やっぱり急浮上してきたのです。
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忍び寄る国家の危機
 私が今ほど国の行く末について危機感を持ったことは、六十五年前の敗戦以来のことであります。あの時は子供ながらに事態の深刻さが、食料難などを通じて体感できましたが、今度のは、大方の人が気づかぬままに忍びよりつつある、国家の危機なのであります。
 このお道は、政治、社会の問題に関しては、決して特定の考え方を押しつけるお道ではありません。いろいろな考え方が許容されるお道です。それをわかった上で、これまでのよしみで、私個人が深く憂慮する事柄について聞いていただきたいと思うのであります。
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永住外国人に選挙権を与えないのは差別か
 「天が下に他人ということはなきものぞ」という教えがあります。また、世界中の人と仲良くして、本当の平和を築くことがお道の理想として掲げられてあります。どんな国の人とでも、差別なく平等に接し、平等に扱うのが、信心するものとしてのあるべき姿であろうと思います。
 ならば、日本に永住する外国人にも差別なく、まずは地方選挙権を与えるべきでありましょうか。
 現在の法律では、日本国籍のある者にだけ日本国での選挙権が認められています。言い換えれば、日本国籍のない者には選挙権が認められていないのです。外国人に選挙権がないのは差別でしょうか。参政権付与を推進しようとする人々は、そうだ差別だというのです。
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ならば、国籍にはどういう意味があるのか
 ならば、国籍ということにはどういう意味があるのかということになります。
 今し方、私と接点のある3人の不幸な人たちの話をしました。しかし、それどころか世界中を見渡しますと、私たちが十分に食い足りている今この時に、何億という人たちが飢えに苦しんでいるという事実があります。それならば、私たちは今自分たちの食べているものを減らしてでも、その人たちに援助の手をさしのべるべきなのでしょうか。
 確かに、お道にも「一食を捧げる運動」というのがありまして、そういう取り組みはなされています。私方の教会からも、毎年幾らかの献金はさせてもらっております。しかし、他の場所からの援助というものは簡単には届きませんし、届いたとしても、効果には大きな限界があります。
 単純化して言いますと、世界中のそれぞれの地域のことは、ある程度地域でまとまって、地域の中で解決していくしかない、ということで生まれてきたのが国家というものであります。人はそれぞれ国家という組織と、国境線という囲いの中で、その国家の一員として、生活の維持を計り、身の安全を確保しようとするしかないのであります。
 したがって、例えばアフリカで飢えている人々をどう救うかということの前に、今言った三人のような人々の最低限の生活をどう保障できるのか、ということの方が、日本国という囲いの中では優先するのであります(これを言いたかったのが残り半分の動機です)。
 そういう国民の生活が維持され、安全が確保されるためには、国家が国家としてしっかり機能しなければなりません。国家がしっかりと機能するためには、それが可能になるような仕組みをつくり続けること(固定してはならないのです)と、国民がそれぞれの義務や責任をきちんと果たすことが必要です。
 そして、複数の国家があれば、国と国同士が競争したり、利益が相反することが当然生じてくるのですが、そのような場合、国民は、信念に反することでないかぎり、自国の国益の為に奉仕しようとするのが、ごく自然なことです。国籍というものが重要な意味を持つのは、こういうことがあるからです。
 国民は場合によっては、自国に対する忠誠義務を課せられることもあります。徴兵制を施く国では特にそうです。そうなると、国籍の持つ意味はますます重くなります。だから新たにその国の国籍を取ろうとしたら、その国に対する忠誠を誓わねばならないのです。
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国籍は帰属意識の最低限の証
 今の日本は、忠誠義務のない数少ない国であるらしいですが、それでも、国民が自分は日本人であるという、日本に対する帰属意識を持つということは、とても大切なことです。そして、長年日本に住む外国人が、日本での選挙権を持ちたいと思うなら、日本に対する忠誠心とまで言わぬまでも、せめて、日本に根をおろして、本国よりも日本の国益を優先して生きるのだという帰属意識は持ってもらいたいのです。そういう意識を示す具体的な、最低限の証(あかし)になるのが、日本国籍なのです。
 そして日本国籍を取っても、兵役の義務こそありませんが、それに近いことはあります。例えば、運動能力に優れていてオリンピックの優勝を狙える実力がある永住外国人が、日本で選挙権を得たいと望むなら、日本国籍を取って、日本選手として出場すべきなのです。選挙権は欲しいが、オリンピックには本国の代表として出たい、というのでは筋が通らないのです。
 それと意味が少し違いますが、中国の卓球選手が日本国籍を取って日本代表としてオリンピックに出たり、日本の女性がロシア国籍を取ってロシア代表として出場したという例があります。それはそれで、いろいろと背負わねばならぬことや犠牲にしなければならぬことがあって、大変だろうと思います。私は日本代表になった中国出身の選手には、これからも中国系日本人としてしっかり生きてほしいと思いますし、ロシア代表となった日本出身の女性には、これからは日系ロシア人としてしっかり生きてほしいと心から願うのです。
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「こだわり」を持つ人々が外国籍のままで参政権を得るのは、国家分裂の永久固定化拡大化につながる
 一方我国には、日本と韓国北朝鮮との過去のいきさつに「こだわり」を持ち、もっと強い言葉を用いるなら「怨念」を持ち、日本国籍を持たずに永住する「在日」と言われる人たちがいます。この人たちの多くが参政権を強く要求し、本国もそれを後押ししています。それに同調する日本人も多いのです。民主党政権になってから、そういう人たちの方が優勢になりつつあることが、いちばんの問題なのです。
 もしも、その人たちが外国籍のままで参政権を得たとしますと、その子孫の人たちも外国籍のままでいいということになり、その人たちの怨念を固定化し、更には国家の分裂を永久固定化、拡大化させてしまう恐れが多分にあります。
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多民族国家になればなるほど、同一の国籍でまとまる必要がある
 その上、更に他の永住外国人にも平等に選挙権を与えるとなりますと、年月が経つにつれて、外国の干渉を招いて、日本国としての意志統一が困難になり、国が衰えていくことが目に見えています。
 これから先、日本が多民族国家になっていくのはやむを得ないとしましても、そうであればあるほど、同じ日本国籍によって一つにまとまっていく必要があると思うのです。しかも、日本国籍を取得できるハードルは、今よりも高くした方がよいのです。でないと、例えば、コリアの人々とは正反対に、忠誠心も帰属意識もないまま簡単に日本国籍をとってしまう中国人が激増していて、日本の社会を脅かす存在になりつつあると言われています。同様のことは、いま世界各地で悩ましい問題になりつつあるようです。
 そういう意味で、国籍は必ずしも万能薬ではないのですけれど、それなしに参政権を与えてしまうと、なおさら深刻な事態を招くのです。
 例えば、この法案が通ってしまいますと、大阪の生野区には突如として、日本に対する忠誠心も帰属意識も持たない外国人有権者の大集団が出現し、大きな力を持つようになるのです。 
 また、一部の韓国人が領有権を主張し始めている対馬には、常時多数の韓国人旅行者が押しかけ、韓国人が島の土地を買い占めはじめています。漁場も韓国人漁師によって不当に荒らされています。その上韓国人有権者がそこに集結するようにでもなったとしたらどうなるか、竹島どころの騒ぎではない深刻な事態を招きかねません。
 そこだけではなく、地方政治は少ない票で当落が左右できるので、全国いたるところで、いまの社民党や国民新党のようにして、外国人がキャスティングボートを握ることが可能だとも言われています。
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戦後の日本人は臆病で事勿れ主義で、外国からの干渉に極端に弱い
 東アジアの人たちは喧嘩が上手で、押しが強くて、集団で圧力をかけるのが得意です。それに対して戦後の日本人は、極端に圧力や干渉に弱くなってしまいました。押されるとすぐ引いてしまうのです。
 例えば、ある都市の首長が在日コリアンがこれまで受けていた、ある意味「不当な」特権を廃止しようとしましたが、大勢で抗議に押しかけられて、すぐ引っ込めてしまったとか、別の都市では、台湾独立派の金美齢さんの講演会が、十数人の中国人住民が抗議行動にでただけで中止になってしまったとか、思わずしっかりしてくれよ叫びたくなるくらい、とにかくもう戦後の日本人は、なさけないほど臆病で、事勿れ主義になっていて、そこをつけ込まれてしまうのです。平和主義教育というのは、事勿れ主義教育のことだったのかと言いたくなるほどです。平和主義教育とはまた、東アジア諸国に対して頭が上がらなくなるような罪の意識を刷り込む教育であったとも言えます。
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外国籍でいるかぎり、本国の国益を背負った「お客様」
 また逆に、外国人の意見が通れば、かえって日本が良くなるという考え方をする人がいます。賛成派の外国人はみなそうですが、日本人の中にもそう考える人がいます。しかし私は、外国人が外国人のままで意見を言うのと、元外国人が日本人として意見を言うのとでは、大きな違いが出てくると思うのです。
 外国人が外国人のままで意見を言うということは、本人の気持ちはどうあれ、本国の国益を背負って意見を言っているとみなされても致し方がないのです。いくら外国人としてではなく住民として意見を述べているのだと言い張っても、外国籍でいるかぎり、本当の住民になりきれていない、本国の国益を背負った「お客様」だとみなされるのです。
 そんな中でも、金美齢さんだけは、例外的に、お客様のままでも参政権を差し上げてもいいなと思える人でありました。祖国台湾の中国からの独立運動を続けながらも、日本を愛し、日本に味方する発言をずっとしてこられたからであります。その金さんも、祖国の近年の中国化の流れに失望し、昨年とうとう日本国籍を取得されました。そして私の言いたいこともまた、金美齢さんの次のような言葉に凝縮されています。
「本当の日本人になりたい人だけに国籍と参政権を与えなさい」
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国籍取得を条件とするのは差別ではなくケジメ
 そこで、最初の、外国人に選挙権を与えないのは果たして差別だろうかという問いに立ち返るのですが、それが決して差別などではない、信心の上でも少しも間違ったことではないということが、これでわかっていただけたかと思います。それは「差別」などではなく、国家としてあるべき「けじめ」なのであります。
 だから私は、この法案を通して、我国からこの「けじめ」を取り払おうとする内外の動きは、戦後最初にして最大の国難であるととらえています。そしてこんな法案が一旦可決されてしまったなら、もう後戻りはできない、そこから日本は確実に衰えていくと思います。
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無関心と無知がいちばんこわい
 そしてそういう状況において、私が一番憂慮しておりますことは、大多数の国民の、この問題に対する無関心と無知とであります。いろいろな世論調査がそのことを物語っています。国民の間にあまり関心も危機感も感じられず、しかも単純に賛否を問えば、賛成の意見の方が多いみたいなのです。そして私が受けます感じでは、賛成派の持ち出す安易な理由やウソに、いとも簡単に説得されたり、だまされたりしているとしか思えないのであります。
 そのもっとも安易な理由の一つが、いま触れたような、「外国人差別の解消」ということなのであります。
 先だっても毎日新聞に、勝間和代さんと林真理子さんと西原理恵子さんの鼎談記事が載せられていましたが、その中で外国人参政権問題にも触れていて、「彼らもちゃんと税金を払ってるのに、参政権を与えないなんて、不公平よね」などと初歩的な誤りにも気づかず、お気楽に賛成の意思表示をしているのを読んで、こりゃもうだめかも知れんなと、暗い気持ちになりかけました。
 税金というものは、あくまで公共のサービスに対する対価であって、選挙権とは無関係、だからこそ納税の有無に関わらず、成人した国民全員に選挙権は与えられるのです。これはごく初歩的な知識のはずなのに、比較的聡明なはずの彼女らにしてその程度なのです。しかしそれを読んだ人たちの多くは、「そうなんだ。外国人はそんな差別を受けてるんだ。気の毒に」と思ってしまうかも知れないのです。
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日本列島だけは日本人のものとして守り抜こう
 また、平和教育というのは、実際は平和ボケ教育になってしまっています。戦後の教育によって、外国及び外国人に対する警戒心をすっかりなくしてしまい。「一億総お人好し化」に近い状態になってしまっているのであります。
 参政権を与えた場合に想定される弊害には一切目をつぶり、「日本列島は日本人だけのものではない」などと言いつつひたすら多民族との共生を夢見る、お坊ちゃん総理をはじめとして、多くの日本人の、まったく警戒心を欠いた善意のお人好しぶりには、いかにお人好しの私でも、とてもとてもついていけそうにないのです。このお道の信心の精神とも似て非なるものであると考えています。
 教祖様は、いつも負けて勝てと教えられましたが、いちばん肝心なところではきちんと筋を通そうとされ、譲ってはならないところでは、決して譲られませんでした。今の我々に必要なのは、むしろ「日本列島だけは日本人のものとして守り抜こう」という強い意志なのではないでしょうか。

 今日の話は、これの何処が信心の話なのかと疑問を持たれた方があるかも知れませんが、日頃日本国の安泰を願うものとして、私がどうしても見過ごしにできないことを聞いていただいたのであります。
 今ここにおられる皆さんに、たとえ私の考えに賛同してもらい危機感を共有できたからといって、大勢に影響はないかもしれません。しかし、それでも何かせずにおれない思いでいます。あきらめずに、法案が阻止できるよう願い続けたいと思っています。賛同してくださる方は、私と同じように祈っていただきたい。しかしもちろん、それでも法案に賛成だと思われる方は、その信念に従っていただくのもやむを得ないと思うのであります。(拍手)
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談話室より
 坊っちゃん(男36歳) H..22.5.7
 
無心に来られる方々の対応に困っておられる先生のお話を聞き、宗教家という立場の難しさに触れたような気がいたしました。
私たち一般家庭などでしたら、仮にどなたかが無心に来られた場合、どういう経緯でその方がそのような状況になられたにせよ、お気の毒だなぁと同情する部分があるにせよ、正直なところ一回情けをかけたがために癖になって、しょっちゅう来られるような事態になっても困りますので、たぶん、一も二もなく「迷惑です!」と追っ払うと思います。
無心・宗教・救済……、何か妙案はないものかと考えつつも、なかなか難しい問題ですね。
 
それから、後述されていた永住外国人への参政権付与問題、ほんとどうなるんでしょうね。
私自身、少しばかりの期間ですが、外国に滞在していたことがあります。海外旅行ではなく、現地でしばらく生活をしていましたので、現地の人たちとも仲良くなり、その街に馴染めば馴染むほど、自分の国籍と言いますか、民族性みたいなものを意識することがありました。
折に触れ、「これはこの国の文化のもとで生まれ育った現地の人の感覚だな」とか「これは日本で生まれ育った、日本から来ている日本人の自分だから分かる感覚だな」とか、日本にいる日本人のままの感覚だけだと分からないことも多かったと思います。
『住めば都』とはよく言ったもので、そこで永住したいなという気持ちも自然と起こってきました。その国やその国の人たちのことを好きになれば、たぶん、誰でも一度は自然に湧いてくるであろう感情だと思います。
そして、もし、実際に、自分がそこの国へ移住し、永住するとなった場合、自分は一体どうするだろうかとも考えたこともあります。
すると、やはり、日本人としてのアイデンティティを失うみたいで、なかなかすぐには、国籍をスッと変えるようなことにはならないだろうなと思いました。
その場合、永住権を取得して、そこの国で定住外国人(定住日本人)として暮らし、外国人(日本人)として、そこの国に住まわせてもらうような感覚でしばらくは暮らすと思います。
もし、そういう感覚でいる間に、もちろん起こってはいけないことですが、万が一、日本とその国で戦争が起こってしまった場合、私は日本人という立場で対処するのだろうと思います。
そしてその国で仕事をし、税金を払い、本当の意味で(外国からのお客さん的な立場ではなく)そこの一市民意識的なものが芽生え、政府への不満や改善点などを意識し始めたときに、やっと、『日系○○人』としての人生を歩む覚悟を持って、国籍を変えるだろうと思います。
そういう感覚になったときに、これもまた先程と同じ話になりますが、もちろん起こってはいけないことですが、万が一、その国と日本で戦争が起こってしまった場合、今度は逆の立場で、心の中では割り切れないものがあるにせよ、私は『日系○○人』という立場で対処しなければいけないのだろうと思います。 あくまでも、この話の上での私の場合ですが、その国において『国籍を変えないまでも事実上の日系○○人』である間は、その国で参政権を欲しいとは思わないと思います。国籍を変えて実際に『日系○○人』になってからでいいと思うだろうと思います。
そして、その国で、子供を作り、孫ができ……、と、自分が日系一世で、日系二世、三世……、と続いていけば、子や孫たちは生まれた当初から日本人の血をひく現地生まれの『日系○○人』ですから、一世の自分とはまた違った感覚で育っていくのだろうと思います。
ボーダーレス社会と言われるこれからの社会の中での、適切な線引き。日本はどういう方向を向いて歩いていくのでしょうか。

 教会長より

無心者の話は、話のまくらとして果たして適切であったかどうか…。 いつかもう少しおかげをうけた形で語れるようになりたいものです。
後半部分についてのご感想、あくまで自身の経験と心情に密着しながらの穏健なご意見で、声高な反対論よりもかえって説得力を感じますね。


 I.Wさん(男 教会長 70歳前後) H.22.6.26

「外国人参政権問題について」の文章、まさに"天地の開ける音"を聴く聾を開いてもらった気がしました。
そんな参政権が問題になり、法律化されようという動きも報道で承知しておったのですが、ただそれだけのこと。そこにある問題点、そこから起ってくる諸問題、背後に隠れているなにものか、それらを白日のもとに晒してもらい、今までノンポリもノンポリ、ノンシャラン暢気な父さん脳天気能天気と、文字通り"の"の連続、恥じ入りました。そして私としても、あなたの文書をコピーしてまわりの人に配布させてもらっているところです。
それにしても、温厚篤実な角埜センセとばかり思っていたあなたの意外な一面、少々原理主義的(少し過激な)一面も垣間見た気がしました。

 教会長より

私の考えをコピーまでして配布していただいたとは有難い極みです。国政への影響力という点ではほんに微々たるものでしょうが、そういうものが集まってだんだん大きな流れに成長していくことを願わずにおれません。
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