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金光教高田教会、我が信心を語る
談話室関連資料
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もくじ
資料1 奥村実「昭和一桁・最後のぼや記」
(「歴史認識や平和論について」関連)

目次

● 慰安婦問題
● 慰安婦問題2

歴史の真相
● 秘密文書の公開
● 秘密文書の公開2
● 近衛上奏文
● 憲法の改正
● 戦前の古書
● 沖縄集団自決・ドイツの謝罪
● 戦前
● 戦後
● 談話室より

資料2 乙犬拓夫「皇位継承問題について」 (「近頃思うこと」について関連)
        「生前退位問題について」

資料3 乙犬拓夫「国の安全が最高の法」(「投書して見えてきたこと」の談話室関連)
慰安婦問題
 フジテレビの報道2001と云う番組がある。平成19年3月11日は「従」軍慰安婦問題が取り上げられていた。そこでの出演者コロンビア大学教授ジェラルド・カーチス氏の発言に失望させられた。「・・・何万人の女性が自分の意志に反して日本の兵隊の相手をさせられて・・・」この発言の根拠が何なのかはっきりしない。一国の名誉に関わる問題を根拠も示さずに軽々しく断定的に発言するとは米国の知性もその程度かと慨嘆せざるを得なかった。又コメンテーターの竹村健一氏や麻生外相が、そこで反論せず黙っていたのが歯痒い限りであった。

 米国下院に性奴隷の対日非難決議案を提出したマイク・ホンダ氏はその趣旨をテレビ出演で語っていたが、河野談話で河野氏が謝罪したのは日本が強制連行の事実を認めたからであって事実を認めなければ謝罪する筈がない、謝罪するなら河野談話は不十分で国会決議で正式に謝罪しなければならないという論理で更なる謝罪を要求し、事実かどうかは調べる必要はないと云いきった。
 下院委員会で決議案が可決された時、その対日非難は20万人が強制連行され、終戦時その多くが証拠隠滅のため殺害されたと飛躍していた。7月末の本会議では強制売春で謝罪要求する案が可決された。米国が60年前の、自国に関係ない問題に首を突っ込むのは最近人権意識が強まっているからだと云う。それにしては民間人に対する無差別爆撃や、原爆による大量虐殺と云う、自らの人権無視の戦争犯罪については知らぬ顔である。

 韓国で元慰安婦と名乗り出たのは2~300人位と聞いている。本当に強制連行され性奴隷にされていたのなら、その何万人全員が名乗りでる筈だ。20万人もいて、その程度しか名乗り出ない点にこの問題の胡散臭さがある。それも50年近く黙っていて俄に近年騒ぎ出すのは腑に落ちない。その証言も具体性が極めてあやうやである。河野談話に先だって日本政府の担当者が渡韓し、本人達に事情を確かめようとしたが、質問は一切まかりならぬと云う事であったらしい。その彼女達の証言を一方的に認め、日本を断罪しようとするこの不公正は黙って見過ごせるものではない。

 自由募集であった証明は当時朝鮮で発行されていた毎日新報(昭和19年10月27日)に「軍慰安婦急募」と題する募集広告が残されている事から明らかである。これは平成5年9月20日の朝日新聞夕刊で報道されたものである。記事の趣旨は従軍慰安婦の存在が実証されたことに衝撃を受けたと云うものであった。  軍隊の保護下で業者が戦場遊郭として営業していた事は終戦後は中学、高校生でも知っていた事実である。昭和20年代の田村泰次郎の肉体小説には、慰安婦が数多く登場したし、昭和30年代以降は伊藤桂一も慰安婦を題材に名作を残している。しかし河野洋平氏の世代になると慰安婦の何たるかを知らないらしく、存在を証明されると狼狽し政府が関与していたと判明しただけで1993年(平成5年)8月浅はかにも謝罪してしまった。性病予防と外敵からの安全を保証する為に、それなりの厳重さで軍の保護管理下にあるのが当然で関与がなかったらおかしいのである。業者が募集に当たって問題を生じないように指導する軍当局の通達も残されている。

 米国下院の決議に歩調を合わせて、アメリカ駐日大使のシーファー氏は従軍慰安婦を「強制売春」と叫び日本を非難した。強制連行ならそれは強制売春や性奴隷に直結する話であるが、慰安婦として自由募集したものを強制売春させたり、性奴隷にする必要性はない。強制売春ならその対価は高給ではなく搾取のイメージであるが、しかし兵達の戦争証言集を調べて見ても兵達の語る慰安所は、適正な代価を支払う女郎屋という話ばかりである。日本人慰安婦もかなり居たというのに、朝鮮人慰安婦達だけが強制連行であり、強制売春であったというのはあり得ない話である。

 ある朝鮮人慰安婦の証言集の記載によれば或る一人は1日に平日30人、日曜日は50人、兵達の相手をさせられたとある。数万人の慰安婦がいたとすれば、毎日百万を越える将兵が慰安婦を相手にする事になり、当時海外にいた軍人数が最盛期二~三百万とすれば半分は毎日遊んでいたことになり、それでは戦争にならない。慰安婦の数を韓国政府は公式に20万としているが、単純計算で毎日6百万~1千万人の兵達が遊んでいなければならず、如何に荒唐無稽な数字かが判る。
  
 性奴隷などと日本人にとって馴染みのない違和感のある言葉が、何故使われているのか不思議に思っていたが、偶然その出所と思われるものが判明した。諸君1998年(平成10年)4月号に前田修氏(塾講師)がその辺の事情を説明している。  外国の特派員記者や大使館員は、日本語が得意とは限らず、英字紙が重要な情報源となる。だから英字紙が偏向していれば歪んだ情報が外国に伝わる。1993年8月4日、河野談話が発表され慰安婦の強制連行を事実に反しているにも関わらず認め謝罪した。しかし原文では「募集は業者が主として当たった・・・本人の意志に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに荷担したこともあった・・・」が政府の英訳では官憲(国際的には警察官を指す)等を官吏・軍人と曲訳する問題が発生していたものの、当局と云う意味にはとらず日本の立場を辛うじて一部守っていた。  これに対し英字紙ジャパンタイムズ・JTは著しく歪曲して報道したのである。第一に「官憲」を「軍当局」と訳し、第二に「業者」の名を除外し第三に「荷担したこともあった」を「荷担した」と訳した。これを読むと普通の外国人読者は日本軍が、女性を拉致して慰安婦にしたことは疑う余地がないと思ってしまう。日本の新聞が嘘までついて日本の不利になることを書くとは信じられないからである。
 JTは以前からそうであった。1990年には慰安婦問題のシンポジウムを報じた記事の中で慰安婦が挺身隊として集められたかのような記述がされている。挺身隊は昭和19年8月に施行された女子挺身隊と云う名目で行われた、工場などへの勤労動員に関する言葉であって慰安婦とは全く無関係である。
 翌91年から従軍慰安婦報道を熱心に報じるようになり、20万人の慰安婦が戦地に連れて行かれたとか、慰安婦の8割か9割は朝鮮出身であったとか、終戦時に証拠隠滅のため慰安婦を殺害したとか報じた。特定の集団が流布している風説を何の裏付けもとらずに記事にしていたのだ。その風説の出所は1976年金一勉著「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」かららしく、同書のあとがきにそれらの事が書かれているそうだ。
 JTは慰安婦を最初の頃はカムファット・ウーマンと訳していたが、94年頃から性奴隷(セックス・スレーブ)を使用するようになりそれが定着した。
 以上が前田氏の説明である。慰安婦に対するJTの認識はそれで固まったらしく「20万人の女性が日本軍の性奴隷にされた」と云う一部勢力の作りあげた虚構が、史実として扱われるようになった。20万人の根拠は日本全体の挺身隊の数字がそうであった。このうち朝鮮人は5~7万という数字が記録されている。それが朝鮮人だけで20万となり、更にそれが慰安婦に入れ替わってしまったと云われている。

 又新聞記事によれば吉見義明教授のもとには頻繁に外国記者達が訪れ、慰安婦問題について情報を仕入れるそうだ。吉見氏は名だたる日本断罪派であるから、外国人記者の書く記事は当然偏向したものになる。日本の学者が嘘をついてまで自国の悪口を云う筈がないから、否定派の学者のいうことよりこちらの方が真実だろう、とJT同様に信頼されてしまう訳だ。この様に「慰安婦」がJTや偏向学者・文化人達経由で全世界に発信されて来た事情があって、米国下院の決議に性奴隷や強制売春、20万人と云う奇怪な用語や数字が出てくるのだ。

 慰安所は当然ながら前線から離れた比較的安全な後方地域に置かれていたが、ビルマなど連合国軍の反撃の早かった激戦地では、日本軍の玉砕に巻き込まれて慰安婦の死者が出ているという。(1999年世界11月号「戦場の盾にされた慰安婦たち」浅野豊美)そういう気の毒な事例もあったが、敗戦時に証拠隠滅のため多くを殺害したなどあり得ないことである。証拠隠滅する必要性がないからである。ちなみに浅野氏によればビルマには1942年8月20日、703人の朝鮮人慰安婦がラングーンに上陸し、くじ引きで各部隊に配属された。比率は一連隊三千人当たり、20人から30人の慰安婦からなる慰安所があったので、通説として兵百人に一人と云われていた事と一致するということだ。但し攻撃作戦には慰安婦は帯同されないから、海外総兵力の1%ということにはならないだろう。
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 作家笹倉明氏が1997年7月号正論に慰安婦の実態をフィリッピンに移住した元日本兵に取材して報告している。「兵卒の月給は、内地では五円五十銭、戦地では六割増しの八円八十銭だった。慰安所での一回当たりの料金は一円三十銭から一円五十銭で決して安いものではなかった。一方婦人の方は、日本女性は一日十五人、比国、中国人女性は三十数人、朝鮮人はそれ以上七十人程度までと、取る客の数には差があったという。」朝鮮人女性は多くの客を取っていた事が伺える。「仮に一日三十人、一人一円五十銭を取る女性の場合一日の水揚げ四十五円、月にすれば軽く千円を超す。女衒が四割程ピンハネするので月六百円が婦人のもとに残る。」これを仮に三千倍して現在の価値に換算すると百八十万円になる。「当時職業に貴賤ははないとの考えが一般的であり慰安婦など聖職として崇められた程だという。それでもって親の借金を返し、みずからもひと財産をなして引退する女性が多かった。慰安婦も立派な職業であった。」
 「大いなる誤解と無理解、さらには敵意が広がることで、あの戦争における日本悪者論が世界にまかり通る」「なぜその声高な抗議にちゃんとした反論の一つも正式に出来ないのか」もっともな言い分なのだ。反論しなっかたばかりに事態は悪くなるばかりだ。
 「日本のいい加減な及び腰の対応がフィリッピンの若者たちに、”かって日本兵はフィリッピン人女性を銃剣で脅して強姦した”という思い込みを植え付けている」と嘆く。「我々日本兵は厳格な軍紀に従っていた。強姦を最大の罪とし、もしそれを犯せば軍法会議にかけられて、銃殺刑となるか、あえて最前線に送って戦死を遂げさせるかという厳しさであった。」  フィリッピンの戦場については2007年10月31日毎日新聞「平和をたずねて・出征兵士達の港2」の中でルソン山中の出来事が語られている。(語り部・添田祐吉氏80才)岩山に隠れて米軍の攻撃をしのいでいた日本兵に飢えが襲いかかる。飢え死にを恐れた一部の兵達が隊を離れたところへ、終戦となったので彼等が帰って来た処、敵前逃亡の理由で下士官以上は即刻銃殺刑に処された。各所でそういう状況があったという。前述の笹倉氏の話と共にそれは如何なる困難な状況にあっても、日本軍は紀律の厳格さを失わずにいた事を証明するものであって、私には救いであり誇りにも思える。
 しかし11月14日「出征兵士の港4」の添田氏の思い出話の続きは私を落胆させるものだった。昭和19年ルソン南部に着任した氏にはすぐ現地でミス・リパ市とうわさされた16才の混血の美少女と恋に落ち楽しかったと云う。「でもね。彼女は目立つから日本の軍隊に慰安婦として拉致されてね。最後は殺されとる。証言されれば戦争犯罪になるから。口封じでね。」氏は翌20年1月米軍上陸と共に北部の山岳地に転戦し終戦で捕虜収容所で戦友と再会し彼女の消息を聞かされたと云う。  これは重大な事である。日本軍の軍紀が厳正ではなかった事になるし、慰安婦強制連行説を否定出来なくなる。しかし私は比島戦が特殊な経過を辿った事を指摘したい。日本の戦況がよかった頃はフィリッピン人は親日的で協力的であったが、ガダルカナルの撤退から戦況が日本に不利になり、特に昭和19年7月サイパン失陥からは、手の裏を返すように反日になった。そして米軍の指揮のもと、米軍の先兵としてゲリラ戦を日本軍に仕掛けてきたのである。同年10月からのレイテ戦では、山に追いつめられた八千の日本軍は、ことごとくゲリラに殺されたと云う。対ゲリラ戦の過程では、住民殺害が多発するのは成り行き上避けられないものだ。少女の拉致が事実であるとしても、それは日本軍の報復的意識下で行われた特殊な強姦被害の証拠になっても、慰安婦強制連行の証拠になるものではない。

 さらに従軍経験のある作家・伊藤桂一氏(93才)の語る日本の慰安婦の実態は次のようなものであった。(諸君・2007年8月号)
 「僕らからすると、戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なんです。本当に大事な存在だったんですね。いまよく云われているような、日本の官憲に拉致されて、泣き叫ぶのを無理やり”性奴隷”にされた、という話は聞いたこのがないですね。
 当時は公娼制度があって、官憲が強制連行する必要などそもそもないし、本人たちも一応納得してというのが建前だった。奴隷狩りなどではなく、きちんと筋を通して集められていたんです。
 又一方で、軍は慰安所に無関係だった、民間が勝手にやったことだったという意見も耳にするけれど、そんなことはない。僕は『慰安婦募集の一記録』という一文を書いたことがあります。満州にいた関東軍の第六国境守備隊長だった菱田という大佐が、北満州の西崗子という町に、軍の管理する慰安所を作ったという話です。
 彼の慰安所計画は、憲兵隊長の強い反対にあいます。”民間人がやるならともかく、軍みずから慰安所作るなんてとんでもない”と。しかし、菱田部隊長は”君たちは料亭の女を専有しているからよい。兵隊達は性の処理をどうするんだ”と反論して、これを認めさせた。民間人に任せると性病がこわいし、情報も漏れる。それならいっそ軍がしっかり管理して、慰安婦たちにも安心して働いてもらおうというのが菱田大佐の発想なんですね。」
ーその話は直接聞かれたのですか?
 「その部隊の人に詳しく聞きました。その慰安所は、『満州第十八部隊』と名付けられました。慰安婦は、朝鮮の慶尚北道、慶尚南道で募集し、志願してきた女性は軍属とし、判任官待遇とする。玉代は四十分一円五十銭。衣食住は軍持ち。前借も無期限。無利子で自分の稼ぎによって返済する。・・・民間の慰安所の場合、稼いでも途中でピンハネされてしまう弊害があった。しかし、軍の慰安所にはそういう心配はもちろんありませんでした。そのほか、軍は管理はするけれど生活には干渉しないとか、そういった条件をきちんと謳って募集したんです。」
ー女性達は集まったんですか?
 「たちまち二百人集まったそうです。募集地を慶尚道にしたのは、あの辺りの女性は気質もいいし団結も強い、という理由だったようです。慰安所の建物は、松、竹、梅と三つあって、一人に一部屋あてがわれた。壁に掛かっている慰安婦の外套の襟には、軍属のマークが縫いつけられている。判任官(下級官吏・下士官相当)のものですから、上等兵より階級は上なんですね。嫌な客は断ることができるし、兵隊達は女性たちの機嫌をとり、乱暴せず、節度ある態度で遊んだそうです。」  希な例として軍直営の慰安所があった訳だが、ピンハネを避けられるし、生活には干渉しない等、性奴隷とか強制売春からは、かけ離れた実像である。募集すればすぐ集まった事、軍直営には憲兵隊は反対した事などが判る。

 ドイツに慰安婦問題があるとは知らなかった。1997年諸君1月号に西尾幹二氏が報告している。クリスタ・パウル『ナチズムと強制売春』(明石書店・原著1994年刊)は序文で日本と韓国の騒ぎが引き金になってやっと問題が提起されたと書いている。ヨーロッパではナチ犯罪を問題にするのが精一杯で「軍隊と公娼」という古典的テーマにまで考えが及ばなかったというのだ。
 又1977年フランツ・ザイドラー著『売春・同性愛・自己毀損ードイツ衛生指導の諸問題1939-1945』からの一部引用は次の通りである。
 「第一次大戦でドイツは200万人の兵士が性病に罹った。その経験から第二次大戦では占領地のあらゆる駐屯地に軍所属の売春宿を設け完全管理した。1942年ドイツ国防軍は約500の売春宿を運営していた。これらの設立、監督、経営維持は占領各地区の軍司令部の管轄事項であった。決定的に重要視されていたのは 売春婦達の定期検診であった。あらゆる点で西欧と東欧では対応が違った。西欧は公娼制度が熟成していたのでドイツ軍の専属施設として利用、女郎屋の女主人に指示して運用した。全女性の写真付きチェックノートを作れ。司令官の許可無く新しい女性を雇うな。・・・代償の取り分は女主人と女性と半分づつにせよ、等々。売春宿の管理権は司令官か連絡将校で国防軍そのものであった。東欧はそれと異なっていて旧ソ連地域には公娼制度は存在しなかった。『西欧では女郎屋の女主人が売春婦の確保につとめ、その代わりに収入の半分を手にした。しかし東方では前線司令官たちが売春婦になる少女たちの獲得につとめなければならなかった。その際、強制処置がしばしば取られた。』
 『若い娘で労働力投入への呼びかけに応じて、ドイツに行くのはいやだと云って拒んだ者は、二者択一として、国防軍売春宿にしばらく勤務する以外に選択の余地はなかった。』」
 ソ連に公娼制度がなかったのは、共産主義的人道主義からだったのかどうかは知らないが、そのソ連軍によって終戦後満州で行われた、日本婦女子に対する拉致強姦の悪質さは筆舌に尽くせないものがあった。一方的に攻め込まれた上戦闘が終わって平和になっているのに、その様な目に遭わされるたのである。日本の慰安婦制度はそういう事態を予防するためでもあった。
 「『すべての売春宿の少女達は、駐屯地司令官の発行した身分証明書を所持していた。彼女達は売春宿の中で暮らしていた。監視なしで宿の外へ出ることは禁じられていた。医療検診、美容院、そして週一度の散歩へ出かけるときにも、何らかの信頼に足る同行者を必要とした。』
 西欧でも東欧でも占領地におけるドイツ国防軍の売春婦たちは、一度監禁されれば、衛生管理の見地からも自由行動を禁じられた、まさに”女奴隷”であった。」

 東欧では強制連行でしばしば女達が集められた事、全ての女性は売春宿の中では監禁状態であった事が記述されている。

 世界でドイツの慰安婦は問題にされず、日本だけが集中攻撃を浴びている。全くの冤罪で名誉が毀損され、日本のイメージは傷つけられるばかりだ。11月7日、毎日新聞の報道によれば欧州議会外交委員会は6日、旧日本軍に強制された従軍慰安婦だったと訴える女性3人を招き聴聞会を開いた。続いて9日オランダ下院本会議で慰安婦への謝罪賠償を求める決議案を全会一致で決議した。カナダでも議会で非難決議された。いづれに対しても日本政府の抗議はなくメディアも沈黙したままだった。
 10月米国下院外交委員会で、第一次大戦中のオスマントルコによるアルメリア人150万人殺害をジェノサイトとして認定した事に関連して、トルコは官民挙げて激しく反発し米国議会にも押し掛け抗議した。国益に反する不利なことは絶対認めないのが国際外交だ。トルコはこうして激しい抗議をして本会議への上程を阻止するという実績を残した。日本は全く逆で官民挙げての抗議が出るどころか、多くの新聞の社説は米国外交委員会の決議に同調する始末であった。辛うじて作曲家すぎやまこういち氏が、ワシントンポスト紙に同志と名前を連ねて反論の全面広告を掲載したに止まった。

私が社会人になったのは昭和31年で、この年に売春防止法が公布され、社会人になった途端に社会の窓が閉ざされた、という感覚で特に記憶に残っている。実際の施行は2年後の33年であった。赤線地帯と名を変えていた遊郭に、この2年間に、行くべきか行かざるべきか真剣に悩んだ世代であった。公娼制度の終焉を見届けた者の目からは、どう見ても慰安婦は公娼制下の娼婦であり、強制連行や強制売春など実に馬鹿げた議論なのである。
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歴史の真相
クラスター爆弾・無差別爆撃・戦争犯罪
 2月23日オスロ宣言が発せられ、非人道兵器としてクラスター爆弾の使用禁止が国際条約で決められようとしている。軍隊だけの戦場で使用されるのであれば単なる有効な爆弾に過ぎないが、一般住民が混在する地域で使用されると、大量の小爆弾が不発弾として残る性質があり、子供を主体とする住民に危険を及ぼす。現に子供達を始めとする非戦闘員の死傷者が頻発している。この兵器が最初に使用されたのは第二次大戦からで日本に対しても使用された。このことは全くと云っていいほど問題にされず話題にもなって来なかった。どの程度の規模で使用されたのか不明だが、少なくとも昭和20年6月の大阪東淀川地区の空襲には使われたのである。
 何故そう云えるかと云えば私がそれによって被害を受けた当人だからだ。その経緯を述べると終戦直後の昭和20年8月下旬、その地区の焼け跡整理に大阪北郊の府立茨木中学校2年生も動員されて、私の次兄はその一員であった。周辺には不発の小型爆弾がごろごろ転がっていて、中学生達の好奇心をそそった様だった。それがクラスター爆弾だとは誰も知る由もなかった。中にはそれを拾ってキャッチボールをする者達もいた。警戒心をなくしていたと云う事だ。引率教師の指導はどうだったかは判らない。その子爆弾の一つを警戒心を失ったらしい次兄は拾い、家に隠し持って帰ったのだ。人の手を経て来たことで家でも警戒心をなくしていた。半年後の昭和21年3月15日、兄弟4人が集まった庭で、その1キログラムに満たない風車の付いた不発子型爆弾が、庭石に向かって落下した瞬間爆発し4人を吹き飛ばした。
 済生会吹田病院に収容された4人のうち、次兄と小学校4年の文学好きの弟は、内蔵を露出した状態で1両日の間に相次いで絶命した。中学1年の私と5歳の弟は命拾いはしたが、共に五体不満足になった。私について云えば左足親指は千切れ、右下肢の骨が粉砕骨折し、その際、前脛骨筋の一部を失ったために、足の先を持ち上げることが出来なくなった。同時に右眼球破裂で隻眼となった。右足切断の必要があるとされたが、手術道具が無いとかで切られずにすんだ。薬はリバノール液だけで化膿が甚だしく、入院半年、全治9ヶ月を要した。
 軍事施設のない住宅密集地に、クラスター爆弾の予備知識を誰も持っていない状況下で、はじめて使用されたのである。子供を含めた一般住民の大量殺戮を目的としたのだろう。私はこの米国の非人道行為を戦争犯罪として強く糾弾しなければならない立場にある。そのアメリカが、東京裁判で人道の名の下に日本を裁いた事に、私は個人的にも納得出来ないのだ。

 無差別爆撃と云うとよく引き合いに出されるのが、日本軍の重慶爆撃だが、シナ本土が戦闘地域になっているのであり、重慶のかなり近くまで戦闘が及んでいたからこの爆撃を不当と云うのは当たらない。幕末の薩英戦争で鹿児島の町を砲撃して焼き払い、戦闘地域における無差別攻撃の模範を示したのは英国であった。沖縄上陸作戦で無差別に艦砲射撃されたが、戦闘地域にした日本側に責任があって我々は文句を云える立場にない。しかし日本本土への都市無差別爆撃は非戦闘地域に対するものであった。一晩で10万人を焼き殺した東京空襲は逃げ場を封じ込める形で焼夷弾をばらまいた。原爆を含めて戦争犯罪を犯したのは彼等であって、人道の罪で裁かれるべきは彼等であった。
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秘密文書の公開
 日本の敗戦は世界に、とりわけアジアに大不幸をもたらした。即ち中国は共産革命がなりその過程での戦争、大躍進運動、文化大革命で数千万の人命を失うに至った。共産革命は周辺に波及し朝鮮戦争、チベット侵略、ベトナム戦争、カンボジャ内戦で大破壊が行われた上、数百万の人命が失われた。中南米やアフリカの多くの国では共産主義の影響で未だに大混乱が続いている。肝心の中国は今や大資本主義国家に転換してしまった。それなら始めから共産化する必要はなかったのである。  日本が戦争に勝つか、或いは勝てないまでも少なくとも負けずに引き分けていれば、中国の共産化はあり得なかった。日本が負けた結果その対戦国とその周辺に大不幸をもたらせた戦争が日本の邪悪な侵略戦争であった訳がない。又日本が戦争をしないで済んでいても同様で、満州に日本軍が健在であり続け、日本は毛沢東をのさばらせず、日中共に幸せだっただろう。犯罪の真犯人は誰がそれによって一番利益を得たかによって推定し得るように、戦争の仕掛人も同様に推定し得る。東アジアで起こったあの戦争の最大利得者は誰の目から見ても明らかにソ連と中共であった。彼等こそが真犯人である。彼らは日本と米国(+中国国民党)を戦わせ漁夫の利を得た。米国やロシアで秘密文書が公開されその真相が明らかになりつつある。

 1995年、KGB工作員とモスクワ本部との通信の傍受記録が米国で公開され(ヴェノナ文書)、コミンテルンの工作活動が明かされつつある。直接或いは中共を通じて国民党や、日本の上層部に入り込んだ工作活動も姿を現している。陸海軍にも及んでいたらしい。又米国の上層部にもびっしり入り込んで、いずれもソ連を助けるために日本をソ連と戦わせないことであり、日本と国民党と戦わせ、最終的に日米戦に持ち込んで日本を潰すことに目標が置かれていた。日本をつぶせば中国の共産化が出来ると共に日本の共産化も成功するという目論見であった。

 ハーバート・ノーマン(工作員)は石垣綾子と都留重人(米国共産党員)と共にアメリカを行脚、講演し日米通商条約の破棄に大いに貢献した。戦後は昭和20年9月に一早く東京に入り鈴木安蔵と会って新憲法草案を作るよう勧めた。ワシントンで極東委員会に働きかけ第一条の天皇の地位は「日本国民統合の象徴である」で終わっていたのを「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」をソ連の意を受けて追加させた。”国民の総意”に基づいていつでも天皇制を廃止出来るようにしたのである。
 日米開戦直前に於いては、日米交渉で、日本側提案の仏印撤退の乙案でまとまりかけたのに慌てた大統領補佐官ロークリン・カリー(工作員)は、蒋介石顧問オーエン・ラテイモアー(工作員)に電信を打ち、ラテイモアーは蒋介石に迫って日米交渉に妥協しないよう大統領にねじこませた。そして日本が到底飲めない政治的条件をスターリンの命を受けてつけ加えたのが、ハル・ノート原案制作者、財務次官ハリー・デクスター・ホワイト(工作員)であった。

 「マオ」という本が邦訳され2005年講談社から出版されたが、その中に驚愕すべき事実が明かされた。張作霖爆殺事件はスターリンの命令でナウ・エイティンゴン(トロッキー暗殺犯)が計画し、日本軍の犯行と見せかけて実行したと云うのである。この事件は満州某重大事件として関東軍の河本大作大佐が下手人とされ定説となっていた。それ以後張学良が反日活動を過激化し、パルチザン活動がこれに加わって満州事変の引き金となったというのが通説である。
 マオの著者が引用したのは「GRU(ソ連軍情報局)帝国(本邦未訳)」からであるが、この本にはこの張作霖爆殺事件の他、蒋介石幕下の張治中(工作員)がスターリンの命令で日中を全面戦争に引き込むために、蒋介石の意に反して第二次上海事変を引き起こし、シナ事変に拡大させた事が記されていると云う。既に上海郊外には2万ものトーチカが、ドイツ軍事顧問団の指導で作られ、戦争準備は完了していた。その上で10万の国民党軍の精鋭が、5千人の海軍陸戦隊に守られているに過ぎない数万人の日本人居留地を包囲したのだから、日中戦争は共産党の策謀があろうがなかろうが、いずれにしても中国側によって仕掛けられ、全面戦争に発展したと云う他はないのである。その2週間前には、通州で日本人住民250人程が、中国保安隊に襲われて虐殺されていた。何十人かは鼻に針金を通されて池に引きずり込まれ殺されていた。上海でも同様に何万人が皆殺しされかねない危機が迫っていたのである。暴支庸懲を合い言葉に、日本人全体が立ち上がったのは蓋し当然である。通州事件のような大事件が、欧米メディアの目にに触れなかったのは返す返すも残念である。
 首都南京戦では、蒋介石はパリやローマの場合に行われた無防備都市宣言をせず、開戦直前の降伏勧告を蹴って、市民を巻き込む籠城作戦をとり、あまつさえ便衣隊戦法(国際法での保護の対象外)と云うテロ戦争紛いの作戦まで行った。日本軍がその便衣隊を捕まえ適切に対処した結果について、中国は自分の責任を棚に上げた上、30万人大虐殺などと誇大なプロパガンダを今だに行っているのである。南京虐殺の証拠とされている写真は殆どすべて偽写真であることを、東中野教授が「南京事件『証拠写真』を検証する」に於いて明確に証明されている。その偽写真を並べた南京虐殺記念館が3倍に拡張されて12月に再オープンしたそうだ。

 偽写真ばかりでなく偽文書も多く作られた。代表的なのが田中上奏文で、大陸侵略を通じて世界制覇を目指すべき、と田中首相が昭和天皇に上奏したと云うものである。これは戦前、世界中に流布し、侵略国家日本のイメージを作るのに大いに貢献し、ルーズベルト大統領もそれを信じていたと云う。ポツダム宣言第6項に「世界制覇の過誤を犯せしめたる者」との文言が入り、東京裁判もそのイメージに従ってなされた。侵略戦争の共同謀議を行ったとして、平和・人道の罪によってA級戦犯を裁き、全員有罪とし7人を絞首刑としたのである。ところが2005年春、ロシアテレビ局RTRが「世界の諜報戦争」のなかで「田中上奏文は日本の国際的信用を失墜させ、日本を世界から孤立させる目的で、1928年にソ連の諜報機関OGPU(KGBの前身)が偽造し、全世界に流布させたものである」と明らかにした。

 ノモンハン事件について最近公開されたソ連側の文書によれば、日本側の死傷者一万七千に対し、ソ連側は外蒙古軍の被害は含まずに二万六千で、個々の戦闘報告においてソ蒙軍は全て敗北し、至る所で戦線を日本軍に突破されたとしている。最後に日本軍の十倍、二十数万を投入してやっと日本軍を圧倒したという。従来ノモンハン事件は、ソ連の優秀な機械化師団によって、一方的にこてんぱんに粉砕された日本軍の無謀な侵略戦争とされてきたが、実際はソ連のプロパガンダを信じ込まされて来ただけであった。独ソ戦が始まった直後の1941年7月、対ソ戦をするなら、ドイツと挟み撃ち出来る、その千載一遇の絶好機に関東軍特別演習をやったのだから、中立条約を破ってでもそのままソ連に攻め込めばよかったのに、攻撃を躊躇してしまった。ノモンハンでのソ蒙軍大勝のスターリン宣伝を真に受けて、対ソ恐怖心に取り付かれ、その上国内の南進論に惑わされて、ソ連を攻めずに南部仏印進駐をしてしまったという事だ。米国と戦う位なら、又終戦間際にソ連から攻め込まれた事を考えれば、取り返しのつかない逡巡であった。
 ソ連は当時から背信行為の常習者として有名で、日本が中立条約を破ってもどこの国からも非難されないとする声もあった。戦争末期、日本はこのソ連を頼って戦争終結の斡旋を依頼し、返事が来ないうちにポツダム宣言が発せられたが、少しでも有利な条件を願う余りソ連の仲介に期待して待つうちに原爆が落とされたのである。挙げ句にソ連の返事は中立条約破棄であり日本への攻撃であった。更にポツダム宣言の条件であった日本軍隊の武装解除後、家庭に帰すとの条項に違反して多くの将兵をシベリアへ強制連行したのである。この一連の信義に反するソ連の行動は人間として許されるものではない。最近においても、ロシアは日系企業が45%出資した日米共同のサハリン2開発事業で、8割ほど事業が進行した段階の2006年、環境問題で難癖をつけて契約を破棄させ、50%の株を回収してロシアの準国営企業ガスブロムに与えた。その企業の会長が次期大統領候補のメドベージェフである。
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 V・A・アルハンゲリスキー著「プリンス近衛殺人事件」(2000年12月新潮社)はシベリア抑留されていた近衛文麿の長男文隆が、苛烈な取り調べを受けながらスパイになるよう強要されたが、拒否したため各地の監獄を転々と回された。鳩山一郎首相の要請でようやく10年振りに帰国することになったが、いずれ日本の指導者になる人物をスパイに仕損なったソ連は、近衛を生かして帰す訳にはいかないと帰国の途上病死させたと云うのが主題である。著者がソ連の機密だった国防軍資料を調べる過程で、シベリア抑留者が実際は百万人以上に達していて、死者は雪の原爆2発分、40万人近く出た事、フルシチョフは証拠隠滅のため、その墓を大半消してしまった事等が判ったという。
 アルハンゲリスキー氏は元イズヴェスチャー副編集長のジャーナリストである。アルハンゲリスキー氏による「日本の要求すべき十か条」は次のようなものである。
 1.ロシア国会は関東軍を捕虜にした事実を非難する決議を採択し、日本に公式謝罪する。
 2.対日侵略行為はあったが、ソ連は戦勝の日などはないので対日戦勝記念日は廃止する。
 3.シベリア抑留白書の刊行。
 4.暴力的にソ連国内に拉致されたすべての日本軍人、および無辜の市民は強制抑留者であり、そこからあらゆる問題が生まれたことを認める。
 5.ソ連経済復興における日本人の勤労貢献に関する公式データーの公表と元抑留者、その遺族への賃金支払い、遺族には50倍の額を支払う。
 6.すべての日本人墓地を復旧、整備し、記念碑、記念塔、死者の名入りの墓標建立など。また日本側への死者の数と死亡者名簿の提出。
 7.日本人が完成させたタイシュトとブラーツク間の鉄道を日本幹線と改称する。
 8.ハバロススク裁判など日本人に対する裁判は不法であるので、被告の名誉回復を図る。
 9.近衛文隆氏関連の文書の全面公開。
10.しかるべき研究機関にシベリア抑留問題を研究させて、基本的な文献を作成する。
 ぜひ外務省はこの線でロシアに働きかけて貰いたいものだ。
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近衛上奏文
 ゾルゲ事件でスパイとして刑死した尾崎秀実は朝日・改造等で論陣を張り、南京攻略後、武漢方面への戦線拡大を主張し軍部に影響を与えた。近衛内閣の周辺には昭和研究会を通して、この尾崎秀実を始めとするコミンテルンの工作員が入り込み、ソ連への矛先を避けるため南進論をしきりに唱えて南部仏印進駐に誘導していった。
 戦争末期の昭和20年2月14日、元首相近衛文麿が昭和天皇に出した上奏文がある。抜粋すると、
 「敗戰ハ遺憾ナガラ最早必至ナリト存候、」
 「國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。」
 「共産革命達成ノアラユル條件日々具備セラレユク觀有之候。即生活ノ窮乏、勞働者ノ發言權ノ增大、英米ニ對スル敵慨心昂揚ノ反面タル親ソ氣分、軍部内一味ノ革新運動、之ニ便乘スル所謂新官僚ノ運動、及之ヲ背後ヨリ操リツツアル左翼分子ノ暗躍等ニ御座候。右ノ内特ニ憂慮スベキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。」
 「少壯軍人ノ多數ハ我國體ト共産主義ハ兩立スルモノナリト信ジ居ルモノノ如ク、軍部内革新論ノ基調モ亦ココニアリト存ジ候。 皇族方ノ中ニモ此ノ主張ニ耳ヲ傾ケラル方アリト仄聞イタシ候。職業軍人ノ大部分ハ中流以下ノ家庭出身者ニシテ、其ノ多クハ共産的主張ヲ受ケ入レ易キ境遇ニアリ、又彼等ハ軍隊教育ニ於テ國體觀念ダケハ徹底的ニ叩キ込マレ居ルヲ以テ、共産分子ハ國體ト共産主義ノ兩立論ヲ以テ彼等ヲ引キズラントシツツアルモノニ御座候。」
 「抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマデ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等ガ事變ノ目的ハ國内革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事實ニ御座候。支那事變當時モ、”事變永引クガヨロシク事變解決セバ國内革新ガ出來ナクナル”ト公言セシハ此ノ一味ノ中心的人物ニ御座候。」  「是等軍部内一味ノ者ノ革新論ノ狙ヒハ必ズシモ共産革命ニ非ズトスルモ、コレヲ取巻ク一部官僚及民間有志(之ヲ右翼トイフモ可、左翼トイフモ可ナリ、所謂右翼ハ國體ノ衣ヲ着ケタル共産主義者ナリ)ハ意識的ニ共産革命ニマデ引キズラントスル意圖ヲ包藏シ居リ、無知單純ナル軍人之ニ躍ラサレタリト見テ大過ナシト存候。此事ハ過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼ノ多方面ニ亙リ交友ヲ有セシ不肖ガ最近靜カニ反省シテ到達シタル結論ニシテ・・・」
 「不肖二度マデ組閣ノ大命ヲ拜シタルガ國内ノ相剋摩擦ヲ避ケンガ爲出來ルダケ是等革新論者ノ主張ヲ容レテ擧國一體ノ實ヲ擧ゲント焦慮セルノ結果、彼等ノ主張ノ背後ニ潜メル意圖ヲ十分ニ看取スル能ハザリシハ、全ク不明ノ致ス所ニシテ何トモ申譯無之深ク責任ヲ感ズル次第ニ御座候。」
 「昨今戰局ノ危急ヲ告クルト共ニ一億玉碎ヲ叫ブ聲次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ國内ヲ混亂ニ陷レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。」
 「一方ニ於テ徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ニハイカナル犠牲ヲ拂ヒテモソ聯ト手ヲ握ルベシトサヘ論ズルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。」  「戰爭終結ニ對スル最大ノ障害ハ滿洲事變以來今日ノ事態ニマデ時局ヲ推進シ來タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼等ハ已ニ戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマデ抵抗可致者ト存ゼラレ候。」(原文濁点なし)
 「モシ此ノ一味ヲ一掃セズシテ早急ニ戰爭終結ノ手ヲ打ツ時ハ右翼、左翼ノ民間有志、此ノ一味ト響應シテ、國内ニ一大混亂ヲ惹起シ所期ノ目的ヲ達成シ難キ恐有之候。從テ戰爭ヲ終結セントスレバ先ツ其前提トシテ此一味ノ一掃ガ肝要ニ御座候。 此ノ一味サヘ一掃セラルレバ、便乘ノ官僚並ニ右翼、左翼ノ民間分子モ影ヲ潜ムベク候。蓋シ彼等ハ未ダ大ナル勢力ヲ結成シ居ラズ、軍部ヲ利用シテ野望ヲ達セントスル者ニ外ナラザルガ故ニソノ本ヲ絶テバ枝葉ハ自ラ枯ルルモノナリト存候。」(原文・濁点なし)

 これを要約すると近衛は敗戦よりも共産革命を恐れていること。共産革命の条件が増大してきていること。対米英敵愾心の反面の親ソ気分、軍部内一味の革新運動、それに便乗する新官僚、裏で操る左翼であるが、特に憂慮すべきは軍部内の革新運動であること。軍部内少壮軍人の多数は国体と共産主義は両立するとの共産分子の扇動を信じていること。彼等一味を一掃しないで戦争終結すると、民間有志と呼応して大争乱が惹起するだろうこと。満州事変、シナ事変を起こしそれを拡大して大東亜戦争にまで導いたのは軍部の革新論者であるが、一部官僚、民間有志は意識的に共産革命に引きずり込もうと狙い、単純な軍人はそれに踊らされたこと。右翼と云うのは、国体の仮面を被った共産主義者であること。それは軍部、官僚、右翼、左翼と10年付き合っての結論であったこと。革新論者の裏の意図を見抜けず、挙国一致のため彼等の主張を入れて騙されたこと。一億玉砕の声を右翼が唱えているが、それを扇動しているのは革命を狙う共産分子である、と昭和天皇に上奏したのである。
 満州事変以来の戦争は、日本の共産化を目的として左翼に扇動された軍部により始められ拡大された事、戦争の勃発、拡大の内部的要因が何であったかにようやく気づいた事を近衛は告白しているのだ。遅かりしとはいえ戦時中に既に近衛が気付いているのに、未だに日本の学会、言論界、メディアの多くは歴史の真相を見ようとはしない。
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憲法の改正
 戦争をする権利を保有することは独立国家の証である。憲法9条によって日本からその大事な権利を取り上げたのは「侵略戦争」をした罰としてであるから、9条がある限り日本自身が「侵略戦争」を自認していることになり、いつまでも諸外国に謝罪を続ける形になる。現在の改憲論では、改正されても九条については九条の一項「戦争放棄」は残して二項を変える、又は削除するというものであり、それでは「侵略戦争」を自認している事には変わらないので、九条はすべて無条件で削除されなくてはならない。
 そもそも占領期間中においては、占領軍は占領地の法律を尊重すべき事がハーグ陸戦協定43条で謳われている。この国際法違反の新憲法を60年間押し戴いているのである。ドイツ政府は無条件降伏しながらもこの事を占領軍に確認して、被占領中は基本法だけ作り占領終結後に憲法を新しくした。ドイツと違って、我々はポツダム宣言の降伏条件を受け入れる条件付き降伏をしたのである。同宣言第13項は日本国軍隊の無条件降伏が要求されているだけで政府の無条件降伏を迫るものではなかった。だから法律の変更を要求するなど不法なものは拒否する権利を有していた。
 憲法改正と戦後体制からの脱却を掲げた、理念型の安倍内閣は、最初は高い支持率を誇り、教育基本法や国民投票法案など、数多くの結果を挙げながら、政策外のことで責められ、一年で消え去った。誰も云わないことで一つ指摘すれば、安倍氏はインド訪問を利用して、なかなかの成果を上げたと私は評価する。それは東京裁判で日本の無罪を主張したパール判事の息子と会うと云う形で、世界に向かって東京裁判無効を主張したことである。韓国政府が早速遺憾の意を表明した処を見ると、技ありの大きな外交的成功であった。

 南京大虐殺に対し前述の通州事件は現在殆ど新聞記事になることはない。廬溝橋事件直後の戦争がまだ拡大しない時に起こったこの事件は、中国人の残虐性を物語る典型的事件であり、戦争の拡大を促した大事件であった。中国にとっては不都合な真実であるが故に抹殺されて来た。こからでも声を大にして世界に発信しなければならない。この事件は資料として別に添付する(梨本祐平著「中国の中の日本人」同成社刊より、第四章「果てしなき戦争へ」参照。ホームページでは割愛)。現在中国は偽造天国として世界の耳目を集めているが、それは今に始まった事ではないのであって、歴史の偽造に至っては何千年来の事であり、南京大虐殺はその一つに過ぎない。
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戦前の古書
 1933年米国の外交官ラルフ・タウンゼントはその著書「暗黒なる道・中国の真実」(日本語版は2005年芙蓉書房より「暗黒大陸・中国の真実」として出版)において中国人の嘘つき、欺瞞性、恩を仇で返す性格,傲慢性、不潔性、残虐性等について余す処なく抉りだしている。又日露戦争直後のカリフォルニア反日暴動以降から、満州事変に至までの日本を巡るアメリカと中国の情況を書き残している。
 そこに紹介された中国人の残虐性を現す一例を示すと「アメリカ人領事が目撃した話である。任地の揚子江上流でのことで、豚と中国人を満載したサンパンが岸の近くで波に呑まれ転覆し、人も豚も川に投げ出された。岸で見ていた者は直ちに現場に漕ぎ出し、我先に豚を引き上げた。舟に泳ぎ着いた人間は、頭をかち割って殺し、天の恵みとばかり新鮮な豚肉を手にして、意気揚々と引き上げ、後は何事もなかったかのようにいつもの暮らしが続いたという。」
 日本人と中国人の比較として、中国人は陽気でおしゃべりで英語ですぐにおべっかを使うので、ちょっと付き合うと好きになるアメリカ人が多いとい云う。これに対して日本人は、口数少なくよそよそしく感じられ煙たがられる。又習慣がないから英語を知っていても、へらへらお世辞を云わない。もう一つの理由は中国がどん底の国だからで、アメリカ人は可哀想な人に愛着を持つのに対し、日本人はアメリカの安全をおびやかす存在だからだそうだ。彼がカリフォルニアに住んでいた大正末期の加州は親中反日で凝り固まっていたという。満州事変直前の満州、中国の政治・社会状況が詳しく描かれている。
 「張学良が跡をついでからは事態が一変した。・・・大連と旅順の返還を迫り、条約を無視し、税金を取り立てようとした。」
「日本は軟弱外交と非難された幣原が外務大臣であった。幣原は”中国政府との交渉は寛容と忍耐が求められる”と発言している。この間、中国人は何をしていたか。例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。そこで”軟弱外交は全く通じない。中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか”と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。何も今に始まったことではない。いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである。」
 「中国は世界に冠たる詐欺師、ペテン師である。アメリカ人に略奪から人殺しまで何でもしながら、責任逃れだけは上手である。」
 「1927年から31年、国民党政府は相変わらず反日運動を推進していた。日本からの借金を返す義務はないと公言し、教科書に反日プロパガンダを刷り込み”大嫌いな日本”という歌まで作り、授業で毎日歌わせた。」
 満州事変が起こったとき「宣教師は別にして中国にいる外国人で中国人に同情する者はまずいない。自業自得だというのである。ところが宣教師だけは不思議なもので、中国人に迎合するばかりでまことに滑稽である。中立を保つべき第三国人が表立った動きを取ることは好まししくないにもかかわらず、宣教師たちは公然と日本を非難した。宣教師が抗議するとはまことに奇妙である。中国人の暴虐に、それも政府援助の暴虐に最も長く苦しめられているのは他ならぬ宣教師である。」  「アメリカ人の情報源は宣教師である。中国には大勢いるが日本にはごく僅かしかいない。日本の情報はほとんどが中国情報である。したがって、世論は”日本人が殺人狂と化した”となる」
 「アメリカの世論がこうまで対日批判一辺倒となったのはなぜか。満州事変に至るまでの事情が伝わらなかったからである。一面トップは『日本軍奉天占領』『全満州に侵攻』である。これでは狡猾な日本軍が、物陰から襲いかかる豹のように”何も悪くない可哀想な人間にいきなり噛み付いた”と思い込んでしまう。何年も前から中国当局は略奪行為を黙認し、反日プロパガンダを扇動した。線路に石を置き、日本人を狙撃、殺害した。およそ考えられる妨害行為を煽る反日プロパガンダをしたのは他ならぬ中国政府である。このような経緯をアメリカ人は知らない。」
 「日本は戦争の口実を作るため、自分で自分の鉄道を爆破したと中国側は抗議したが、そうとも思えない。第一、必要がない。中国側は毎週のように次から次ぎへと新たな妨害工作を仕掛けていたのである。この年も、隠忍自重する日本軍に対し、二、三日するとすぐ挑発行為を繰り返していたのである。」
 「長きに亘る無政府状態、風見鶏の軍閥、排外主義官吏、過激学生秘密結社等が結託し、自らの悪事を隠すため暴徒を煽動する。これに日本の堪忍袋の緒が切れたのである。もちろん、満州の地に日章旗を打ち立て、新帝国を樹立する夢もあったのは確かである。あれだけ挑発行為を仕掛けられ、泣き寝入りすることを良しとしない者が日本には少なくなかった。しかし、もしもの話ではあるが、もし中国政府が外国権益の破壊運動を地下で煽動しないで、日本の権益が保護されていたなら、満州を征服などしなかったかもしれない。日本の言い分はこうである。『おまえが黙っていたら俺からやるはずがないだろう。しかけたのはお前の方だ。こうなったら見ていろ、一歩も引かないぞ』」
 この時の鉄道爆破に限れば、実際は日本軍の謀略であったが、著者が云うようにそれをする必要がない程頻繁に鉄道破壊工作が行われていたのである。だからそれを待って日本軍は行動しても良かった。戦闘開始の合図に過ぎない細工をしたばかりに、今以て侵略の証拠ということに利用されている。
 「しかし、日本は満州事変でも上海事変でも大きなミスを犯した。武力行使に至るまでの経過を世界に向かって説明すべきだったのにしなかったミスである。”まことに遺憾である”と何度も訴えしかる後”やむなく攻撃する”とすべきであった。」「(世界が)知ったら驚くような苦悩を日本は背負っていたからである。日本が被った被害は膨大だったのである。被害とは何であったか。軍閥の略奪である。」
 昭和4、5年の間、鉄道関係だけで410件の被害が報告されている。著者は知らなかったらしいが、被害は軍閥によるだけでなく、コミンテルンの指令下にあった共産パルチザンの暴動被害も多かった。昭和5年5月30日に東満州間島省で起こった暴動では、総勢5千名のパルチザンが、日本領事館や鉄道関係施設を襲い邦人44名を殺害している。彼等の攻撃は、大正8年から昭和6年まで108件報告されている。最大のものは満州ではなかったが、尼港事件である。大正9年に樺太の対岸ニコラエフスクで、四千名のパルチザンに襲われて、日本軍民七百数十名が凌辱暴行された上虐殺されている。  戦争が始まった、日本にとっての外部的要因を、タウンゼントのような親日家が、第三者の立場から歴史の真実として書き残してくれていたのは有り難いことである。日本は80年前から現在に至るまで中国から被害を受け続けているのである。そしてアメリカの無理解は昔も今も同じである。
  日露戦争でロシアが勝っていれば満州・朝鮮は間違いなくロシアの領土になっていた。ロシア領になれば満州は永久に還ることはない。それを防いだのは日本である。その恩義を忘れ僅かの権益を回収しようと恩を仇で返す行動に出た。

 二十一箇条の要求を以て日本の侵略意図があったとする意見もあるが、これは孫文と日本の間での交渉で孫文が出した原案であり、それに加筆して袁世凱の北京政府に提示したものである。
 又タウンゼントが、交渉に当たった日本の外交官から直接聞いた話として証言しているが、
「要求という強い形にしたのは中国側の希望であり、やむなく調印したという形にしたいというのであった。”日本に脅迫されてやむなく調印した”という体裁にしたのは中国内の中国人を納得させるためだった。ところがアメリカがこれに噛み付いた。”哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん”とばかり同情が沸き上がった。この1915年という年はどんな年であったか。アメリカは世界を二つに分類していた年であった。一つは束縛のない自由を求める道徳の国。もう一つはドイツ等に代表される、抑圧を好む、卑しい国である。二十一ヶ条の要求を出した日本も中国人を抑圧した国としてドイツと同じ組に入れられた。」ということである。

 私の手元に昭和15年発行の「野戦風情」丸山学著(倭書房)がある。シナ事変に応召従軍した民俗学者の随筆風現地報告である。それによると上海から逃げる敵を追って行く途中、大倉城壁に「還我山河」の標語が城壁にとてつもなく大きくペンキで美しく書かれているのが印象的だったそうだ。更に無錫近くの部落倉庫の壁には、その標語の横に東洋の地図が大きく描かれ、満州、朝鮮、台湾、琉球が赤く区別して塗られていたそうだ。標語の「我に山河を還せ」と云うのは、この四つの土地は我等のものだから奪還せよと云う意味であった。これこそ、開戦の時から彼等が領土奪還に名を借りた明白な対日侵略戦争目的を持っていた、その証拠である。
 既に70年前から彼等の奪還目標に沖縄が入っていた。それは現在でも継続していて沖縄に対して領土主張しているのである。勿論、その根拠は島津領であった沖縄が清国とは朝貢貿易関係にあったからと云う理由による。
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沖縄集団自決・ドイツの謝罪
 沖縄集団自決を巡る強制性の記述回復を求めて、本年9月29日宜野湾海浜公園で県民大会が行われた。主催者発表で11万人が参加したと30日の新聞で報道され、その数の多さに驚いたのか、政府は早速それに合わせて再検定の動きを見せている。
 一方その11万の数に関して一部で疑問が出された。週刊誌情報では1万八千人程であった。私は毎日新聞に載った会場を埋め尽くしている写真を見て圧倒され、11万の数に疑念を持たなかったのであるが、確認する必要があると図書館に出かけ調べて見た。各新聞を見比べて見ると、毎日新聞が、空中俯瞰撮影で会場を一番広く写していて全体の7割前後、朝日は前方からの地上写真でせいぜい数千人、読売も地上写真で千人程度を写しているに過ぎなかった。しかし参加人員はいずれも11万人としていた。11万人集会の紹介に明らかに千人台と判る写真を載せるのは、甚だ誠意に欠けると云わねばならない。  毎日新聞の写真を拡大コピーして百分割し人数を数えてみると、一枠平均百二、三十人であり、週刊誌情報の数字を裏付けるものであった。会場全体の俯瞰写真は琉球新報に載っていると云う。このように2万を越えるとは思えない参加人員を、何故11万と嘘をつかねばならないのか。会場で高校生に「真実の歴史を学びたい」と訴えさせながら、見え透いた嘘の報告をする主催者にやましい意図を感じるし、嘘の報道を垂れ流すメディアの姿勢に怒りを禁じ得ない。日本軍を誹り、日本の歴史に泥を塗る事なら手段を選ばない構図がここにも出ている。今度の教科書記述回復要求運動は、中国の領土要求に利用されかねないことが懸念される。日本本土と沖縄の離間は中国にとっては利益だからだ。

 12月1日にプロードキャスターという番組を見ていたら、ゲスト出演の外交官出身岡本行夫氏は朝青竜等の謝罪問題に絡めてとんでもない発言をしていた。曰く「日中国交回復の時、田中角栄は周恩来に戦争で迷惑掛けたと謝罪したのだが、迷惑掛けたとは水を掛けた時の謝り文句で、中国では日本は中国に謝罪しない国ということになってしまった。これに対してドイツはワルシャワのユダヤ人墓地の前に、大統領が跪いて謝罪したので、ドイツは充分に謝罪したと世界は認めた」  ドイツがユダヤに謝罪するのは当然で、国を持たない一つの人種を絶滅政策で虐殺するという犯罪行為を行ったからそうしたのである。戦争した相手国の英国やソ連には謝罪をしなかった。戦争は犯罪ではないから謝罪する必要はないのだ。まして中国は日本に戦争を仕掛け挑発の限りを尽くしたのであり、中国に謝罪する必要はさらさらない。
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戦前
 日本が戦争せずに済んでいれば昔の日本がそのまんま今も続いているのであるが、戦前は弾圧され自由のない、封建的抑圧的で、軍隊では新兵を殴ってばかり、軍人が威張り散らしていた暗黒時代であったと今は云われている。勝てばその状態が続くばかりか、一層軍人が大きな顔をするから戦争に負けて良かったという人が多い。しかしそれでは戦争が必要だったことになり、しかも負ける為の戦争などとても許容出来るものではない。
 暗黒といっても比較の問題であって、例えば1997年「共産主義黒書」(2003年翻訳)によれば共産諸国で粛正等で殺された犠牲者数は、ソ連2000万、中国6500万、カンボジア200万、ベトナム100万等、世界合計、約1億と発表されている。これは自国民を死に至らしめた人数である。これを見ると日本の暗黒度は物の数ではない。治安維持法で直接殺されたのは、プロレタリア作家の小林多喜二唯一人、という調査結果がある。戦前において、その時代を不幸だと思っている人が多くいたとは感じられなかった。
 軍国主義から解放し、民主化してやったと恩着せがましいが、別にそんなことをして貰わなくても明治から五箇条の御誓文、自由民権、大正には大正デモクラシーと日本流の民主主義があったのである。日本非難の決まり文句になっている軍国主義も、周辺諸国が軍国主義化したために、やむなく戦時軍事体制となったまでである。軍国の言葉は「軍国の母」、「軍国の乙女」「軍国少年」など凛々しさと、けなげさの代名詞としてもてはやされたように単なる尚武主義であって、侵略を連想させる野蛮な軍国主義ではなかった。又この軍事体制は日本式の民主主義と必ずしも矛盾するものではなく、戦時中でさえ選挙制度は厳存していた。
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戦後
 思えば戦後60年は精神的には暗黒時代である。戦前の誇りに満ちた日本はどこかに消え失せ奴隷のごとく地面にひれ伏している。日本はアメリカの言いなりになるばかりだった。軍国主義に利用されるという理由から、靖国神社が代表する神社神道を準国教の座から追放させられても唯々諾々と従った。天皇の人間宣言も同様であった。欠点があっても、それらは明治政府が苦心して作り上げた、国を統合するための大事な装置であった。その結果、日本は精神的にバラバラになってしまった。現代にあって宗教干渉などはあってはならない事であり、信じがたい暴挙であった。アフガンやイラクを占領して、イスラムはテロを起こすからイスラム教を捨てろと云うようなものであった。(アメリカは日本で余りにも成功し過ぎた為、イラクを占領して好き勝手に料理出来ると思った節がある。)
 家族制度もいじくられ家を残す根拠がなくなって子供を生む動機が薄れていった。地主から農地を奪い大農を潰したため国際競争力のない農業になってしまった。その結果農家保護に明け暮れ、農地の流動化を縛った。それで土地需給のバランスが崩れ、地価暴騰し一大バブル発生して日本経済は崩壊したのである。それでもいまだに地価は高く装置産業までが海外に逃げ出す傾向に歯止めがかからない。
 マッカーサーによって日本は抑圧から解放され、言論の自由と民主主義を与えられ、男女同権の明るい良き時代になったと云う人が多い。しかし所詮それまでの成り行き、事情を無視して一方的な思い込みから、強権で諸制度が変えさせられたに過ぎなかった。今、日本社会に無理な細胞移植が拒絶反応するかのような現象が起こっている。多くの若者が30才代では3人に1人が、結婚を拒絶しているのである。戦前より男女平等の、自由な社会で、現在さぞかし人生を謳歌していると思いきや、そうではなく、安定した性生活や家庭作りを保障する筈の結婚を拒否している。信じ難い現象である。戦前は少子化という忌まわしい現象は陰も形もなかった。戦後変えられた社会の諸制度が、日本社会に適合していない一つの大きな証明である。急激な少子化は経済的にも暗黒時代に入る事を意味する。既にその兆候が現れている。
 内政干渉は教科書にも及んだ。それは尾を引き歴史教科書は中韓両国に今も内政干渉され続けている。中学校と小学六年の社会科教科書を展示会で見たことがあるが、両方共に日本は侵略戦争をしたとか、南京で大虐殺したとか、秀吉は朝鮮を侵略したとか自国を貶める記述のオンパレードの反面、元寇は日本に対する侵略とは書いていないのである。
 戦前の人間なら日蓮の書状で元・高麗連合軍が対馬・壱岐で如何に残虐な所行を働いたか知っている。「百姓等を、男をば殺したり生け捕りにしたりし、女をば取り集めて手をとおして(掌に穴をあけて綱をとをして)船に結いつけたり生け捕りにしたりした。一人も助かった者はいなかった。壱岐に攻め寄せたときもまた同じであった」(日本の歴史8・中央公論社・昭和40年)通州事件と似た残虐さで、正真正銘の侵略軍であった。日本にはこの様に教科書で自分の国は良い国と子供に教える自由がないのである。
 自由が無いと云えば占領中の言論統制がなくなったというのに、それ以降五十五年続く自主的言論統制は甚だ不愉快である。目に見えない膜が張りめぐらされ、主要なメディアからは偏向した情報しか発信されない。これでどうして戦後は言論が自由になったと云えるのか。
 このように言論の自由もなければ、国家の誇りもない、閉塞感に閉ざされた戦後こそ暗黒時代と私は感じるのだ。日本が立ち直るには憲法を改正し、9条を捨てる以外きっかけを掴めないだろう。戦力を持たなければ、我が国を罵りわめく国と口喧嘩一つ出来ないという事が60年の経過で充分証明された。平和憲法だから平和だと悦に入っている間に拉致を仕放題にされ、それを解決するのに自力で出来ないとは国家がないのと同様だ。
 戦前の人間は占領軍の徹底的な宣伝と東京裁判で殆どが洗脳され、戦中、戦後生まれは小中高校から歪められた教育を受け続けた。その結果、大半の日本人は卑屈な贖罪意識に毒されてプライドを持てずにいる。それは道徳の退廃と犯罪を呼び、日本人としての一体感を失わせている。自殺者の激増、親殺しや子殺しの多発、30~50才代の独身パラサイトの増加、少子化、等を見ると、戦後は良くなったという言葉が空々しく響く。戦前は昂然として胸を張って生きる事の出来た時代だったし、世界の一等国として堂々と生きていた、と子供心にも実感出来た。昭和一桁世代が消えた時、それを証言する者がいなくなるので、愚痴を並べてぼやいておくのだ。
 先の戦争は負けさせられる為に引き起こされた戦争であったから、あの戦争はなかった方が良かった。戦前の社会体制のままでも、明治憲法下の政治体制のままでも、大多数の日本人はそれなりに幸せであった。社会の改革は長い時間が掛かるかも知れないが自力でやれば済む問題だった。外の力に身をゆだねた結果、日本人から主体性と自立心を奪ってしまった。  今の戦後体制は戦争と引き換えにしてまで手に入れるには値しないものであった。戦争がなくて戦前のままであるのと、戦争と引き換えに今の戦後があるのと、どちらか選べと云われれば私はためらわずに前者を選ぶ。
                                  終
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談話室より
 奥村実さん H.22.5.8
普天間基地県内移設反対で騒がしいですが、4月25日の読谷村県民大会参加者数が主催者発表では9万人とされています。4月28日の朝日新聞朝刊に上空からの撮影写真が出ていましたので試しに人数を数えてみた処、凡そ5千人ぐらい計数出来ました。
この写真はテレビで見た全景画像と比べると会場全体の4分の1程が写っていると推定されますので、参加者は2万人程と云う事になります。子供ずれが多いので大人の実数は更に少ないかと思われます。
今度ばかりは間違いなく9万人が集まったと信じ込まされてましたのに当てにならないものです。

教会長より
やっぱりそうでしたか。それなのにマスコミは相変わらず主催者発表を無批判に(或は意図的に)垂れ流すだけだし、週刊誌もまだ書き立てませんね。それにしても、ウソの数字と事実との落差があまりにも大きすぎます。
ここであらためて高橋秀美の「からくり民主主義」という本を思い出しました。この本のことをネットで検索してみるだけでも、実にいろいろなことがわかりますよ。

教会長より H.22.5.18
やっと参加人数の誇張を指摘するメディアを見つけました。17日夕方の読売テレビで勝谷誠彦氏が、ある警備会社が集会の全景写真を分割拡大して計測した結果、なんと11569人に過ぎないことを暴露していました。 沖縄の人々の気持ちや言い分は理解しなければならぬとしても、集会の主催者が、何故主張全体の信頼性まで疑われることになるようなウソをつかねばならないのか、理解に苦しみます。

追伸 H.22.6.2
数日前のタカジンの「そこまで言って委員会」では、反対運動に対する北朝鮮の強い関与までもが取沙汰されていました。しかし、裏事情がどうあれ、ここまでこじれてしまったら、アメリカとの合意通りに実施することは無理と思われます。沖縄の負担軽減のための、もっとも"現実的"な方途としては、訓練を新田原基地に移す(自衛隊と共用)とか、訓練用空母を建造するという案が浮上しているみたいですね。
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教会長より H.22.6.1
  「近頃思うこと」についての談話室において、小泉元首相の評価にからんで皇位継承問題のことがチラッと話題になりましたが、過日、その点につき北海道の牧場教会長乙犬拓夫師より更に長文のご意見をいただきましたので、「談話室関連資料2」として、実名で転載させていただきます。締切りのない作業とて、書き写しについ日数がかかってしまいました(ちなみに、師はパソコンをお使いにならぬ主義です)。
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資料2 乙犬拓夫「皇位継承問題について」 (「近頃思うこと」について関連)
 H.22.3.13
 …さて、ちょっと、皇位継承問題について、申しそへたいと存じ、ペンを執りました。先便にも少しくふれましたが、悠仁親王(男子)のご誕生は、ひとまず、皇統断絶の危機を凌ぐことができたかと、安堵するところがありましたが、しかし依然として皇位継承といふことにおいては、まだまだ問題が残り、いづれにせよ、これからも何かにつけて浮上する問題であります。
 そもそも、万世一系の天皇と称される皇室の伝統は、男系男子の皇統が一二五代の現天皇陛下に至るまで、例外なく続いてきたといふところにあります。さうでなければ、犬やねずみもまた、すべての生物の血統は千年万年億年続いてゐることになります。男系継承とは、皇位といふものが
 天皇の男系の子孫に例外なく受け継がれてきたといふことであります。
 その男系と女系を区別する習慣や感覚は、私たち庶民の中にもいまに伝はってをります。息子が生んだ子は内孫で、嫁いだ娘が生んだ子は外孫で苗字も嫁いだ先のものになってゐます。家の跡継ぎ(男子)がゐない場合は、他家から婿をもらひ、自家の姓を名乗り、そこに男子を得て、家の存続をはかるといふ入婿養子制といふのが、長らく続いてきたことは、御承知のとほりであり、このやうに男系と女系を区別して「家」存続を大切にしてきたといふ風習伝統は、この頃では意識がうすくなったとはいへ、家柄一筋といふのが正当な日本人として望ましいあり方でありました。そのやうな「家」には、自づから家風といふものがあり、由緒来歴を大切に、ご先祖さまの心を心とする独特の伝統と習慣文化が息づいてきたところです。そして日本人にとって、天皇のご存在とは、あまたある「家」の中でも、最も神聖にして由緒ふかいお家であり、日本全体をひとつの家(家国)としたときの家長として、遠く天つ神につらなる尊貴なる家柄としての皇室を頂くことによって、日本は、日本全体が一つに統合されて、繁栄してきたといふ国民意識が培はれてきたと言はなければなりません。
 さうとして、歴代のなかで、八名十代の女性天皇が存在してをられ、今日、現代にふさはしい開かれた皇室のあり方として、男女同権、あらゆる職域においても男女の参画が推進されてゐる現状に鑑みれば、何も男系男子に把はれることはない、そのやうな硬直した考へ方こそ、皇室の尊厳と存続を損なふものであるといふ意見があるやうです。この辺のところから、げんこん、保守陣営、保守論客の中でも意見が分かれ、ゆくゆくは、皇室(彼らのことばを以ってすれば「天皇制」)が廃絶されればよいと深謀遠慮してゐる残党左翼、隠れ左翼にとっては、心中ひそかにほくそ笑んで、更なる分裂行動を期待してゐることでせう。
 しかし、これら八名十代の女性天皇[推古/皇極・斉明(重祚)/持統/元明/元正/孝謙・称徳(重祚)/後桜町]は、いづれも男系女子であり、かつ独身を終生保ち、本命たる皇嗣の君(男子)の中継ぎ役を果たされた方々であったといふことであり、女性天皇が配偶者を迎へ、その間に子供をもうけ、その子が皇位継承者になる(この時点で皇位は女系に移ることになる)といふことは一例もないといふことは注目されてよいことでありませう。この点については旧皇室典範の実質の責任者であった井上毅は、当時、広く海外近代国家の憲法に目を開き、帝国憲法と皇室典範といふ二大法典を以って明治憲法の骨格をなした彼は、決してヨオロッパ先進国の単なる模倣に甘んずることなく、「皇位の継承は祖宗以来既に明訓あり。皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり」との見識を示してゐるところです。
 保守側にあっても、女性天皇でよい、男系女系で皇統が保たれればよいではないかといふのが、私の眼に入るところでは、西部邁、高森明勅、小林よしのり、高橋紘、田中卓、所功らであり、男系男子の伝統をきっちりと守るべきとするのが、中西輝政、渡部昇一、小堀桂一郎、八木秀次、西尾幹二といった人らであり、勿論、小生は後者の立場をとります。最近の月刊誌で、好漢小林よしのりを評価しつつ、それ故に、高森や田中卓らの学者に引きずられ女性天皇を認めることには、よくよく考えよとやんはりとたしなめてゐるのが小堀桂一郎氏であります。
 それにしても、男系男子の天皇、万世一系の皇位の継承といふのは、決してなま易しいことではなく、先人たちは祖法に鑑み、さまざまな苦心深慮をめぐらして、今日に至ってゐるところです。なかでも深刻な皇統の危機を招いた事例がこれまで三例あります。古い例では第二六代の継体天皇、室町期の一〇二代後花園天皇の例、そして江戸後期の一一八代後桃園天皇の例であります。そして第四の皇統危機を迎へてゐるのが、現代の皇太子が天皇になられて後の皇位の問題といふことになります。この間の経緯と問題解決の事歴については、元皇族の竹田恒泰氏の『皇族たちの真実』(小学館2006・1刊)が、明解に叙述してをり、敬読に価するものと存じます。ともあれ、皇室に関して詳しい現今の評論家は存外心中に反皇室の連中が少なくないやうで、保阪正康や半藤一利、高橋紘、原某(失念)など油断できない人物です。従って朝日や岩波系の出版による論者は申す迄もありませんが、文芸春秋社系の論者の中にも、軽信できない連中が入ってゐるやうに思ってをるところです。  いま、岡山でのホテルで書いてをります。乱文のほど、お寛し下さいませ。敬白。
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談話室より~資料2の生まれるもとになった対話(一部抜粋) 
T.O さん(男 教会長 68歳) H.22.2.17
かつての小泉純一郎首相に好意的な評をなさってをられますが、このてん、まことに珍しく先生の意とは異にして、小生は小泉を全く評価しません。
人心が時に情動的に流れてゆく、悪しきポピュリズム(大衆迎合)に乗っかった最悪の首相の一人であったとしか、私には思はれません。あの、ちょっとダンディなルックスと姿、短いコピー表現に、大多数の国民が洗脳されたといふか、炭酸飲料のような爽快感のやうな感じを持ったのでせうか。とにかく、彼には郵政民営化しかない、実に間口の狭い、奥行きのない、政策能力のない人物でした。
そして何と言っても、皇室会議のメンバーをほとんど素人の連中でかためて、女性天皇もよしといふ、とてつもない国体破壊といふ最大の困難を将来しようとした人物として、断じて許すことができません。日本と日本人のアイデンティティの中心軸である皇室に対する敬意を少しでも持ってゐたなら、恐懼に堪えないはずのものを、それこそ国会に上程して議決するかといふところまで行ったところで、まさに天佑神助、悠仁親王のご生誕をみたのであります。これで小泉のもくろみは、一旦アッサリと消えたわけでしたが、この問題は、なほこれから浮上してくることでしょう。小泉のやらうとしたことは、万死を以って値する大罪を冒したしたことになります。

教会長より
皇室の男系絶対原理については、不勉強で理解できておりませんが、現在の宮家と一夫一婦制度のもとにおける男系維持の困難さは私にも理解できます。外国人参政権問題で触れたと同じ「Will」の3月号で、あの小林よしのりさんでさえ、そういう問題で心を痛めておられる今上陛下が、どうやら女系天皇や女性宮家の容認に傾いておられるらしい、そのご意思を無視すべきではない、という発言をし始めています。
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生前退位問題について(追加資料)
H28.12.20
お察しのごとく、日本のこと,国の行末を心配してをります。
ご承知のごとく、今上陛下におかれては、生前退位のご意向を示されました。即ち、自ら体調不如意のご自覚から、譲位したいといふ「わがまま」を仰有ってをられます。私の恩師、葦津珍彦氏は「天皇に私なし」と申されてをりまして、このことばには深甚の意味がこめられてをります。これまでの有識者会議での発言では、渡部昇一、八木秀次、平川祐弘、大原康男といった各氏に同調してをります。
現憲法についても、皇室典範についても、敗戦時のGHQによる改変押しつけのまま、自主憲法として未だ改正しえないで、七十年をすぎようとしてゐるわけで、この国は全く困ったものであります。皇室についてのあり方についても、同様で、現天皇が譲位したいと仰有るのも困ったものですが、明治憲法が占領権力によって一方的に否定改変され放置してきたツケが、いま、をどろをどろと出てきたわけであります。
被災地への慰問、外国親善、国民各位への臨席とお言葉、その他の国事行為など、まことにお忙しくお務めになってをられます。お齢をめされてご負担が大きくなり、ご退位のご意向を示されてをられます。しかしながら、抑々、皇位とは、ある有用な役割や成績を示し得たから天皇であり、果たし得ないならば皇位を退くといふものでありませうか。普通人の勤務評定によって、出勤、退職するといった性質のものではないと考へるのであります。
逆に申せば、仮に、前述のやうなことがいっさいお出来にならないとしても、ただ一つ、究極のお務めは、「天皇に私なし」のお立場においてただおはしますこと、これに究きると申さねばなりません。そして、ただ一つの究極のお務めがあるとすれば、神主のなかの最も尊貴なる神主として、皇祖皇宗はじめ天神地祇の神々に対し、ご祭儀を務められ、その祈りを果たされることと申さねばなりません。その祈りの内容は、一重に「国平らかなれ、民安らかなれ」との公の祈りに究きます。私意私欲の祈りではありません。天皇の成されることは、すべて天下国家のご公務であります。仮にご体調が損なはれ時には、摂政の宮がこれを代行なさればよい。「代行」と申しても、それは天皇の尊貴を一心に体するものであり、一体であります。
まあ、この辺のところは、わが金光教の信仰論理、即ち、「お手代わり」の信と同様のものと解すべきではないでせうか。神さまのお手代わり、教祖のお手代わり、歴代教主のお手代わり、各教会の教師としてのお手代わり、更に言えば、一時一局における信奉者のお手代わり、これみな、金光様と一心同体の信徳を体現発揮するものであると、信じられてをります。
ある識者が言ってをりますやうに、天皇のご退位を認めることは、皇位に即かないといふ自由意志を認めることに、連動するかもしれません。「天皇に私なし」との私意私欲を排した大御心に反し、それはやがてそもそも皇位に就くといふことを個としての分別、個として私意私欲の次元に貶めることになりませう。
皇室はその中枢において空洞化することになります。このとき、皇室は消滅するといふおそろしいことに相成ってしまひます。そもそも、皇位とは、はるかに高貴なる次元の問題であり、皇位に即かせられるといふことは、皇祖皇宗による絶対なる依ざしに基づくものであり、疲れたから退任したい、しんどいから辞めるなどといふ低次元の話ではありません。
 さあれば、このやうな皇位の問題は,西欧近代民主主義による基本的人権(個人の自由・人権)などといふ論理を以て語るには、余りに次元の高い、あるいは別次元の問題であることを、よくよく考慮する必要があります。
 私が金光教の道の教師になりましたのは、さまざまな要因があってのことでせうが、その主要な起点は、やはり福岡親教会三代吉木辰次郎先生のお取次を頂き、二歳足らずの幼児期、失明の開眼といふ神様のおかげを頂いたことにあったと申してよろしいでせう。去る十一月三日には、福岡教会百二十五年の開教記念祭に併せて、三代吉木辰次郎大人の五十年式年祭が奉行され、小生も参拝、御用をさせて頂いて参りました。その三代の師のことばに
 盡しても盡してもなほ盡しても盡し足らぬが眞(まこと)
といふ、み教えがあります。これであります。恐れながら,今上陛下におかれては、ぜひ、このやうな高次の宗教心意といふものに思ひを致して頂きたいものです。
 かしこしな神代のままに皇(すめ)神(かみ)の恵(めぐみ)つたふる天つ日継は(桜町天皇)
 天照らす神ぞ知るらむ末ながき代々の日継を祈る心は(桜町天皇)
 暁のねざめしづかに思ふかな我がまつりごといかがあらむと(明治天皇)
 我が国は神のすゑなり神まつるむかしのてぶり忘るなよゆめ(明治天皇)
 日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる(昭41.昭和帝)
たまたま、ここに御三方の御製を引用させて頂きましたが、歴代天皇がいかなるみ思ひの誠をつくして、天つ日継としての皇位の尊厳とお務めを果たしてこられたかを、窺ひ知ることができるやうに思ひます。
さうとして現陛下には、宮中祭祀について、お心をこめておつとめになってゐると報じられてゐることは、ありがたいことです。しかし、さうであれば、なほさら、天皇としてのお位とお勤めが、既にして私意私情の都合にて去就されるべきお立場でないことを、一番ご承知あって然るべきであります。仮にも、究極のお務めである御祭祀が自らお出来になれない体調になられたからといって、退位される理由とはなり得ない。摂政を以て、代行なさしめればよい。あるいは他の宮殿下によって奉行せしめればよい。最終的には、ただぢっとお寝みになって、肉体として最後を了へられるがよい。ひとたび、皇位に即かれた以上は、終身を以ておつとめになり、お位を守り通されることが大切であります。

教会長より H.29.8.18
皇室のあるべき姿について、無知な私は教えられることばかりです。ということは、国民の大半は無知なままであると言っても過言では無く、そういう無知な大衆によって皇室が支えられていくしかないところに、むつかしさがあるように思います。
彼らには、表には出ない宮中祭祀によって、我が国が、実は大きく支えられているかもしれぬのだという認識はほとんどなく、被災地慰問や国民へのお言葉など,眼に見える部分、言わばパフォーマンス的な活動にのみ皇室の存在意義を感じているように見えます。
リベラル系論者たちの中にも、祭祀の重要性を認識出来るほどの宗教的感覚や信念を持ち合わせず、祈るだけでは何も変わらないなどと主張して、パフォーマンス重視の世論を助長する人がいるような気がします(実際の記憶があいまいなもので)。実際、リベラル系マスコミが、貴先生が述べられたような原理原則を重視する保守系論者を、「冷たい」と評しているのを目にした記憶はあります、皇室そのものを否定しようとしないだけでも、まだマシというべきでしょうか。
しかし、あの天皇さまがそこまで仰有るならばと、陛下の譲位に賛同する世論が多数を占めたとなれば、時の政権はそういう民意を軽視することもできなかろうと思います。事実、暫定的に今回限り、陛下の退位のご意向は承認されることとなりました。原則論よりも人情論が優位に立ったわけです。時を同じくして、保守系最大の論客渡部昇一氏も逝去してしまわれました。
貴先生には、さぞかし暗澹とした気分に沈んでおられるかとお察しするのですが、私自身は必ずしも悲観はしておりません。保守系論者の主張されるような高次元の原理原則が、いつ頃からどのように形成されていったかは、全く知るところではありませんが、実際には、もっと「低次元な」動機や理由による譲位が、過去には行われたこともあったのではないかという気がするのです。
それでも、それによって皇統は今日まで維持され、現在の国体を形作っているのですから、続くことさえ出来ればまあ何とかなると考えるのは、楽観的過ぎるでしょうか。
曾野綾子さんが、だいぶ昔、外国の帝室と比べて、日本の皇室の真面目さは際立っていると指摘されていたことがありました。たしかに、近・現代国家になってからの皇室にはその傾向が強く、明治帝も昭和帝も、そして今上帝も、歴代天皇の中ではもっとも誠実に真剣に、天皇としての職務に精励された方々なのではないかと思うのです。なればこそ、あのお方がそこまで仰有るのならばと、国民の支持が集まったのだと思います。
また、陛下におかれても、ご自身が祭祀とパフォーマンス活動の両方に真剣に取り組んでみられて、摂政では十分にその任を果たし得ないと、よほど強く実感されるところがおありだったのではないでしょうか。
まあ、私は、好き嫌いで言うなら、戦後リベラル派嫌いの保守系知識人贔屓ということになりましょうが、この件については、そのように感じております。
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 教会長より H27.6.20
 近頃の安保法制論議をめぐる新聞(私方は「毎日」)の執拗な安倍政権たたきにはホトホト嫌気がさしていますが、悠長な憲法論議を続けるうちに、国の危機管理が後手にまわり、憲法守って国滅びるというような事態を招きかねません。
 それにつけても、この前お送り下さった貴先生の「国の安全が最高の法」という一文は、三十年前に書かれたものとはとても思えぬほど時宜にかなったものに思われますので、「談話室関連資料3」として別途紹介したいと思います。
 安保関連法案にかぎらず、何かの法案が提出されると、必ずその「悪用」や「弊害」を懸念する反対論が出てきますが、それも度を過ぎると何も決められなくなり、「善用」すなわち新たな事態への「適切な対処」すらも不可能になってしまいます。
 法律というものは、最初から身動きの取れないような枠をはめてしまうのではなく、たとえ「悪用」の懸念はあっても、ある程度運用に幅を持たせるしかないと思います。そして、時の政権の裁量が「善用」であるか「悪用」であるかの判定は、選挙民に委ねるしかないと思うのです。
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資料3 乙犬拓夫「国の安全が最高の法」(「投書して見えてきたこと」の談話室関連)
 (昭和59年11月19日「神社新報」に掲載されたもの)

 戦後の久しい風潮といふべきだらう。国家や公権力を悪しざまに言ふ人が少なくないやうだ。批判して然るべき事がないわけではない。が、その多くは無知無責任な放言みなすべき場合がまた少なしとしない。
 ここには、大学の講壇にあって一世を風靡したマルクス経済学や、常に反権力反政府の論調を張ってきたマスコミの影響、無論その背景にあるのは、かつての戦争における惨たる敗戦=占領体験といふ国民的心理に宿った暗い心のしこりが横たはってゐる。つまり国家権力を憎悪するといふ風潮は、戦後を生きる者の一種流行の時代意匠となった。
 かくして、何かにつけて公権力の個人への介入を危険視し、戦争への危惧を高唱するといふ見えすいた論法が、存外に世情人心を有効に捉へて離さない。
                ○
 が、さて、これならば本当に私たちにとって、国家は要らないか、国家は無くてよいのかといふと、人はやがて口籠って甚だ要領を得ないのである。
 私達がこの日本といふ国土の上に共同生活を営む以上、相互に認め合ふ一定の規範がなければならないとするのは、誰しもが認めるところであらう。その規範の中で、人間の内面の心理を規定するものが道徳(習俗)であり、それを更に根底から支へてゐるのが、広い意味で、その民族の伝統的な宗教意識である。一方、人間の外面からこれを規定するものが法である。道徳や法は、人間社会の秩序を維持してゆく上に、必要不可欠のものだ。
 ところで、法が法としての機能を充全に果す為には法の背後に、法に違反した者を拘束し罰するだけの物理的強制力がなければならない。この物理的強制力、即ち、権力を独占してゐる団体が国家といふものである。そもそも、権力なき国家などといふのは、それ自身、自己背理である。国家は国民を構成する国土の範囲において、並ぶなき権力を有する。それ故、個人の生命財産の保全はもとよりのこと、戦後すぐに理想とされた「揺りかごから墓場まで」といふ、あの福祉国家の像も次第に現実のものとなった。政府を非難する国民の自由権が許容されているのも、他国はいざ知らず、日本といふ国家権力に依ってである。
                ○
 西洋古典哲学の第一人者田中美知太郎氏は、現代に流行する世界平和、人類救済、軍備廃止といふ、それ自身文句のつけやうのない理想論が先走ってゐるのを私達は世界政府から直接雇はれてもゐないし人類から月給をもらってゐる訳でもないと揶揄しつつ、次のやうに述べてをられる。
 「国の安全が最高の法でなければならない」といふことがローマ共和制の時代から言はれてゐるが、われわれ国民生活が全体的に脅かされるやうな場合にはこの法が他のいっさいの法に優先し、憲法といふものも停止されなければならないことになる。これは危険な至高の法であるが、このやうな非常時の生じないためには、かへってわれわれ平常の時に、自由の時代に、かかる至高の法の存在を心にとめておかねばならない。(『直言、そして考察』)
                ○
 国の安全といふこと、これがローマ時代からの至高の法であったと言はれる。考へてみれば、これは当然すぎる道理だ。何故なら、国家が崩壊してしまひ、難民と化したヴェトナムやカンボジア人民の例を引く迄もなく、国の独立安全といふ前提なくしては、独りの人間としても、安全と福祉、自由と権利、平等と繁栄など、全ては無きにひとしい空手形にすぎないといふことが判るのである。更に言へば、民族の精神や文化伝統の継承発展など思ひも及ばぬことにならう。
 ある一つの世界的秩序を将来するためにも、先ずは各々の国家において、名誉ある自存の権威が保たれてゐなくては、何事も始まりはしない。
 一国の安全が最高の法であるといふ所以である。
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