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教会長の読書感想文 |
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① 古田博司「新しい神の国」(ちくま新書・735円) |
H..20.2.16
この本の存在を知ったのは、新聞の読書欄の短評によってです。評者は(昌)とあるので、多分山内昌之氏(東大教授・国際関係史)。著者はすでに数々の賞をとった論客らしいのに、私はこれまでまったく知りませんでした。
社会主義社会の到来を信じて韓国語、中国語、ロシア語等に習熟したのに、若き日に憧れのソ連を訪れて幻滅し、韓国に6年滞在しては彼我の差のあまりの大きさを思い知り、韓国語ペラペラのはずなのに、ノ・ムヒョン大統領の名前の漢字にも、「ろ・ぶげん」というルビをふるようなこだわりを持つ人です。
日本、中国、南北朝鮮をひとくくりにして、東アジアと呼んでいますが、わが国は地勢上、これらの国々からはどうしても逃れることができないので、我々がこの国々とどう付き合っていくかは、永久の課題です。
その際この3国は共通の文化を持つ国としてもっともっと連帯を強めるべきだと考えたのが、戦前は主として右翼、戦後は左翼のアジア主義者と呼ばれる人々でした。著者によれば、それゆえに福沢諭吉の唱えた「脱亜論」は、戦後アジア連帯を求める人々(それに社会主義イデオロギーがからんでいたことは言うまでもありません)からは蛇蝎のように嫌われたとのことです。そしてこの人たちは、今も言わば「脱米入亜」を求める傾向があると私は思っています。
しかし、著者によれば、わが国と他の二国の文化との間には、実際は共通点はほとんどないので、わざわざ「脱亜」するまでもなくもともと「別亜」だというのです。なまじっか儒教の影響があったり、漢字を使うことが思い違いを生むもとになっているというのは特に目新しい論ではないにしても、いまだにそう考える人々があとを絶ちません。著者は数々の痛切な体験や興味深い具体例でそのような誤解を打ち砕いてくれています。そして今や複雑な愛憎を抱きながらも「日本はアメリカにもっとも近い国としてある」という指摘も重い事実としてうなずけます。
そして「日本の国内には、東アジア諸国への接近をつねに図ろうとするアジア主義者が右にも左にも」いて、歴史上、この人たちの力が強くなるほど「日本を危殆に瀕せしめ」てきたので、「この事実をはっきりと記述し、東アジア連帯の不毛性を説いておく」ことが「東アジアの専門家であり、とりわけ朝鮮の土地と人々を愛し続けた筆者の使命であると考える」というのが著者の執筆の動機のようです。
それならどうしていけばよいのか、著者自身はあまりくわしい処方箋をここでは示してはいません。ただ、あまりに社会思想的哲学的一神教的な主張、要するにイデオロギー的な主張からは距離をおき、「日本人の気力を挫くような宣伝煽動にも騙されず」、異質な「国家群からの攻撃に現実的に対処しつつ、経済交流の可能な相手とはその局面では互いに儲け合い、……『和は己をもって尊しと為す』という日本の精神で日本文明圏を守り抜く。これぐらいの施策で日本は十分すぎるほど立っていける」と甚だ楽観的であります。
この著書に対するAmazonの書評は概ね好意的ではありますが、中には、この本はイギリス人が自分の国がフランスやドイツと違うと言っているのと同じで、それでも彼らはEUでその違いを乗り越えようとしているのだから、我々もまた両国と良好な関係を築くようにするのが当然だと批判する人がいます。
一見もっともらしく聞こえるのですが、そこにはちょうど私たち宗教家が「人類みな兄弟」だと説くに似た能天気さが感じられます。著者のように、実際に異国の人々と濃密な関わりを持った上で得たような痛切な認識が欠けているのです。そういう差異についての痛切な現実認識を持った上で、尚且つ「人類みな兄弟」的な信仰理念が、自身の中でどのように作用するのかが、私自身にとっては大きな関心事なのであります。
もう一つ興味を惹かれましたのは、私共の中国韓国北朝鮮に対する加害意識がどのようにして形成されていったのかという論及です。
著者によれば、それはだいたい1958年を起点としており、しかも、それぞれの国の対日工作に呼応して、中国に対する贖罪意識は主として進歩的文化人によって担われ、韓国北朝鮮に対するそれは「良心的」知識人によって担われたというのです。
そして対中国の場合、日本の進歩的知識人たちは、中共(中国共産党)の数々のマイナスの現実からは目をそらし続けながら「戦後約50年をかけて中共を倫理の高みに押し上げ、中国への印象を清く澄みわたらせ」ることによって贖罪意識を高めていきました。
それに対して、対韓国北朝鮮の場合は、在日60万の朝鮮人は好んで日本にやってきたのではなく、「強制連行」されてやってきたのだという、朝鮮総連などのプロパガンダが当時は見事に功を奏し、とりわけ朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」が「絶大なる威力を発揮し」「瞬く間に良心的知識人の間に広まっていった」のだそうです。そして半世紀にわたって「日本の知識人たちは中国や北朝鮮の現実に触れることなく、彼らの作った枠の中で土下座し、陳謝し続けたのであり、そのような進歩的文化人や良心的知識人が日本の庶民の手本になってしまった」わけで、そのことがまた「愛国しない心」を持った人々を大量に生み出すもとにもなったというのです。
私自身、過去を振り返ってみて、たしかにそんな感じだったなあと思います。また愛国しないことがあたかも良心的で正しいことであるかのような風潮も感じていました。そして、どこかがおかしいと首をかしげながらも反論できる知識がなく、黙ってついていくか見ているかするしかなかったのです。今では、こういう強制連行プロパガンダが全く事実に反することを述べてある本がいろいろ出ているようですが、例えば鄭大均「在日・強制連行の神話」(文春新書2004年)とか、鄭大均・古田博司編「韓国・北朝鮮の嘘を見破る」(文春新書2006年)などがそれであります。
こういう風に嘘が暴かれていくたびにホッとした気分にさせられるのは、自分もまた宗教者としてできるだけ良心的でありたいと願うのに、必ずしもその「良心的」知識人の言説についていけないと感じられる場合があまりにも多すぎたからです。そしてこれまでの経験上、どこかおかしいと感じたことの裏には必ず大きな嘘か、それなりの理由がかくされていました。
ひょっとしたら、「良心的」な人ほどだまされ易いということがあるのだとしたら、良心的たらんとする宗教者もまた、きわめてだまされやすい人種に属するわけで、良心的であろうとすることはなかなか容易なことではないのだなあと痛感させられます。
ところでそうした日本の言論状況も、2002年9月17日、すなわち金正日が日本人拉致を認めた日を境に、大きな変化を遂げつつあるようです。著者自身も、まったく自由にものが言えるようになったのはその日以後のことで、それ以前は、北朝鮮について事実を書けば書くほど激しい抗議にさらされたり、世話になったマルクス経済学の教授から強く叱責されたりしたそうです。
この本を読んで改めて日本の進路に思いをめぐらしまするに、結局、安全保障の面からも当分は日米関係に主軸を置きながら、地勢的に近いからといって特定の国に思い入れをすることなく、太平洋を取り巻くすべての国と良好な関係を保つことを考えた方がいいのかなという気がします。
時期を同じくして読んだ、岡田英弘「この厄介な国、中国」(WAC BUNKO)も、日中の違いの大きさと中国人の行動原理を知る上でたいへん参考になったので、次に書いてみたいとは思いますが、いつのことになりますやら。同じ著者による名著の評価高い「世界史の誕生」は、なかなか前に進みません。 |
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② 鹿島茂「吉本隆明1967」(平凡社新書・1008円) |
H21.7.25
この本の存在を知ったのは、例によって毎日新聞の書評欄によってでした。松原隆一郎という人が書評を書いています。
著者の鹿島茂氏は私よりちょうど一回り下の丑年,団塊の世代です。この世代のある層の人たちがどうして吉本隆明を大きな尊敬を込めて語るのかが、後に続く世代にはだんだん理解されにくくなってきているそうです。それをわかりたいという要望に応えて、なぜ吉本がそんなに偉いと思うのかを、高名な仏文学者にして自称吉本主義者の著者が、吉本自身が出自の似通った芥川龍之介や高村光太郎について論じた文章などを手がかりに、新書版400ページにわたって詳細に解き明かしてくれたのがこの本であります。
私自身は吉本隆明にそんなにかぶれた経験は一度もなく、文庫本を二、三冊は持っていても概ね難解過ぎて歯が立たず、本の題名すら思い出せない状態です。そんな私でも、吉本のどこがそんなに偉いのかということについてなら、知りたい気持ちをそそられる程度の関心はあるので、つい買ってみたわけであります。
優れたエッセイストでもある著者は、吉本の著作から難解な原文を引用しては、それをできるだけ平易にかみくだいて言い直そうとしてくれるので、実に助かります。それでもわからない部分がいくらでもでてくるのですが、そんなことはあまり気にせずに読み飛ばして粗筋を追っていくだけでも十分に面白いのです。
その上感動的なのは、そのように千万言を費やしたあげくに導き出された「結論」にあたる部分が、いたってシンプルなことです。つまり吉本をなぜ偉いと思うのかという尊敬と信頼の念をつきつめれば、結局「吉本隆明はお為めごかしや偽善的なことは絶対に言わない」というところに行き着くというのです。それを「白人、ウソつく。インディアン、ウソつかない」という西部劇のセリフをもじってさらに単純化するなら、「ヨシモト、ウソつかない」ということになるというのです。
しかし、この単純さにはきわめて奥深いものを感じます。これこそが吉本と他の凡百の知識人とを隔てる決定的な差異であったのだと思うのです。「インテリゲンチャ、ウソつく。ヨシモト、ウソつかない」ということであったのです。ウソをつかないということは、何よりもまず自分に正直ということです。自分にウソをつかないということです。そのためには、自分の心の中でウソと真を弁別する透徹した眼識が必要です。その上で大勢に逆らう意見を表明するには勇気が必要です。
そういう眼識と勇気でもって吉本は、自分自身も左翼に身を置きながら、フルシチョフのスターリン批判以前にスターリンの粛清、恐怖政治に断固反対し、それ以後も、左翼知識人の偽善や欺瞞や思い上がりを徹底して批判しつづけました。1980年代になっても、北朝鮮が裏で画策して出させたことが今では明らかになっている「文学者の反核声明」のいかがわしさを見抜き、ただ一人異論を唱えたりしました。つまり吉本ほどに思考が「自立」できている知識人はいなかったのです。いたとしても、きわめて少なかったのでしょう。著者はそんな吉本に幾度も「ガーン」と衝撃を与えられたというのです。
そういう吉本の偉さがわかりにくくなってしまったのは、吉本が批判の対象としたような、あれほど強力であった左翼知識人が今は鳴りを潜めてしまったせいではあるのですが、しかし著者によれば、「左翼の退潮と軌を一にするように吉本隆明の価値も減じたのかというと、決してそんなことはな」く、「吉本隆明が批判した左翼的思考法というのは、ある種の条件がそろうと必然的に現れる一つの典型であり、時代が更新されるたびに形を変えて蘇ってくる不死鳥のようなもの」だというのです。
そういう陥穽から抜け出すには、吉本のいう「自立の思想」を身につけなければならぬようですが、それとて「自分にウソをつかない」ということを抜きにしてはあり得ないだろうと私は受け止めました。そして、それが単純であればあるほど、宗教的徳目に似て(というより宗教的徳目そのものかもしれませんが)、身につくのが非常にむつかしく、奥が深いのです。
ですから著者をはじめ、そういう吉本の影響を強く受けた人たちが、どこまで「自立」を果たし得ているのかまではわかりません。むろん私自身も、自分が自立できているなど言える自信はまったくありません。ただ、できるだけ自立できるようになりたいと願うばかりです。
そのことはこの本の書評者についても言えると思います。たしか文武両道に秀でたエリート学者のはずですが、それさえ真に自立した思考力の持ち主であることの保証にはならないようです。書評を読む限りでは、この一番の要と私が思うところが、もう一つ伝わってこないのです。
見落としているのか、軽視しているのか、そういうことには全く触れず、枝葉末節の、たまたま引用されたビートたけしの漫才ネタにかこつけて、小泉元首相の息子の世襲話を皮肉ってみたり、後年吉本が「サブカルチャーに好感を示すようになる」のは、「吉本が大衆の生活の量的な豊かさに満足し、その先の質的な充実には目を向けなかったからではないか。稀代の趣味人である著者は、吉本を批判すべきではないか」などと、私から見れば、どちらも大きなお世話ではないかと思えるような評言でしめくくっているのには、首をかしげざるをえません。
もう一つ、鹿島氏らが吉本の「正直さ」に喝采を送った大きな理由は、「自分の得にならないことはしたくない」という、自分たちの出自である下層中産階級の行動の論理を、吉本がそのまま「肯定されるべきものである」と言い切り、倫理的な負い目から解放してくれた点にあるといます。
乱暴に代弁するなら「当たり前だよ。その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムやファシズムが生まれるのさ(こう言い換えてもらうとほんとによくわかります)」と断言するに等しい発言をしたのだそうです。
例えば、吉本は、一番危険なのは、心底真面目で、どこまでもマルクス主義の理想に忠実で、すべてを耐え忍んできたことだけを生きがいにしてきた詩人・K(実名をあげてあります)のような存在であるとして、そのような人たちが
「良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、二十四時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そしてその虚像は民衆の解放のために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。(中略)もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる『ナチスよりひどい』歴史の意味するものだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつにKのような良心と苦悶の表情の競い合いの倫理にあることはいうまでもない」
と述べているそうです。
「自分の得にならないことはしたくない」ということは、いわゆる「利己主義」として排斥するむきが根強くあります。一方、それこそが人間の当たり前の姿、むしろ健全な在り方であると主張する人々も出てきています。
そういう「利己主義」は、一見、もともと利他的な生き方を刷り込まれ、人をもそのように導くことが求められることの多い我々宗教者とは正反対の立場のように見えますが、実はそうでもありません。少なくとも私自身は、自分を大切にすることをつねに基本に据えてきましたので、こういう考え方にもあまり違和感はありません。
そして実際は、両方の行き方を適当に使い分けているのです。私どもの教団では「自他共に立ち行く生き方」という言い方をよくしますが、これなどは両方をミックスさせている、調和させているということになるのかもしれません。
要するに、健全な利己主義もあれば、不健全な利他主義や没我主義もあるということです。どちらかに凝り固まるのがよくないと思うのです。「主義」などいらないのです。ケースバイケースで生きていくしかないのだ、と、それを読んで改めて考えたことでした。 |
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③ 小林よしのり「本家ゴーマニズム宣言」(WAC・1200円) |
H22.11.22
新聞広告につられて、久しぶりに小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」を買い求めました。ひところは小林さんのかなり熱心な読者であったのですが、ここしばらくは遠ざかっておりました。少し飽きてきたのと、彼の漫画には細かい書き込みがびっしりしてあって、とにかく目が疲れるのです。
それでも買い求めた一番の動機は、やはり「外国人参政権問題」が取りあげられていたのと、その他の国家の重要問題についての、小林さんの最近の考えを知りたかったからです。国をおもう情熱と勉強ぶりは相変わらずでした。
「『外国人参政権』という売国法案を許すな」の初出は今年2月ということですから、ちょうど私がこの問題をホームページで取り上げた時期と重なります(「外国人参政権問題について」とそれに続く「差別とケジメ」)。
私の主張も彼のそれと重なり合う部分が多く、口調まで似ている箇所があるので、まるで私が真似たかのようですが、この問題について本気で考えるならば、似てきて当然なのです。彼のものは、わずか7ページではありますが、必要最小限の知識と背景、及び法案が成立した場合生じるであろう弊害について、たいへん要領よく説得力をもってまとめてあると思いますので、できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思いました。影響力という点では、私などとは比較にならないにもかかわらず、それでもまだまだ微々たるものです。
この問題については、どういう考えが正しいかなどと、もはや議論している段階ではないようにさえ思います。一番深刻なのは、国民の大部分とまでは言いますまい、きわめて多くの国民が、このことに無関心であったり、また、一部マスコミの情報操作などもあって、安易に能天気に参政権付与を容認してしまっていることです。そういう無知無関心に乗じて、外国勢力などの後押しもあって、いつ法案が成立してしまってもおかしくないところまで来ているのです。この国民の無知を少しでも正していくことこそが、緊急の課題だと思います。
他の問題については、例えば、米軍基地の辺野古移設問題、きちんと現地を訪ね歩いての、右にも左にも与せぬまっとうな見解はさすがです。そしてここでも、地元のメディアが本当の民意とはかけ離れた偏った勢力に支配され、結局は民意までもがそれに影響されてしまうことのやりきれなさを痛感します。また、ことをここまでこじれさせてしまった鳩山さんの罪はやはり重大ですね。
皇室問題についての言及の多さも今回は目立ちます。皇位継承問題についての見解は、私のような無知な人間にはかなりの説得力がありますが、いわゆる男系絶対論の人々の意見も聞いてみなければと思います(その中のお一人のご意見を「談話室関連資料」で紹介しています)。けれど、これらを読めば、近年彼が並々ならぬ「尊皇家」に変貌したことだけは、男系絶対論者も認めざるを得ないでしょう。
この本ではじめて知らされ、驚かされた問題に、「アイヌ民族問題」があります。ここでもこんなウソと偽善と利権がまかり通っていたとは…。
彼は、本当はありもしない「アイヌ民族」を「虐げられた先住民族」としてでっち上げ、国会決議によって巨額の税金を投入するようになったのは大きな過ちであり、不正であると断言してはばかりません。その理由については、実物にあたってみてください。
私もこの手のウソや偽善がいちばん嫌いなのですが、そういうことを告発するには、かなりの見識と勇気がいります。とりわけ、進歩的で弱者の味方であると思われたいマスコミほど、そうしたことには目をつぶろうとするようです。例えば、この告発の根拠となる資料の一つとなった、「アイヌ民族問題」の虚構を詳細に検証した或る本の新聞広告の掲載を、北海道新聞は拒否したのだそうです。
そういえば、中国共産党を神聖視する風潮がまだ少しは残っていた頃、チベットに対する中国の悪質極まる侵略政策(戦前の日本など及びもつかない)をはじめて知らされたのも、この「ゴーマニズム宣言」によってでした。こういうやり方から「尖閣問題」などが生じてくるのは必然であり、今後ますます深刻化することは覚悟しておいた方がよいでしょう。
更に思い起こせば、命をねらわれながらも、早くからオウム真理教を告発し続けた彼の記事を、リアルタイムで読んだものでした。次いで薬害エイズ問題をいち早く追及し始めた人たちの一人でもありました。
そういうことからも、ろくに読みもしないで訳知り顔で彼を批判する識者よりも、私ははるかに彼の方を高く評価するのです。 |
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④ 内山節 「文明の災禍」(新潮新書・714円) |
H24.1.17
この本を読むきっかけとなったのは、昨年12月下旬に、M教会長のWさんからいただいた次のようなお便りです。
「…今、新潮新書の内山節(たかし)という人の『文明の災禍』という本を読んでいます。まだ途中です。なかなか難しい。ふと角埜さんが読んだらどう感想を持つかと思ってしまいました。神様のお知らせかも?年を取るとなかなか読書もすすまない。…」
内山節?不勉強なもので全く知らない著者でしたが、年が明けてからようやくその本を手に入れて読みはじめました。内容に関心がないわけではなく、全く面白くないわけでもないのに、アクビの連発です。それにコックリコックリが加わる。私もまあ、それは年のせいということにしておきましょう。それでも数日かけてやっと読み通しました。
自分にわかるようにその大要をまとめてみますと、
「このたびの東日本大震災とそれに伴う原子力発電所の事故は、これまで我々の生活を支えてきた近代の西欧的科学文明が行き着いた先にもたらされたものである。そこからの復興を図るということは、単に技術的物質的な復興計画にとどまってはならない。そして、西欧的な、人間中心主義的知性中心主義的な思考法からも脱却しなければならない。中央からの行政の主導による復興であってもならない。
被災地のみならず各地域も、これからはそれぞれの『風土』に根差した、『文学的、あるいは文化的に語られる』ような『グランド・デザイン』をまず描いた上で、『過去とは違う社会をつくっていかないと』いけないのではないか。
そして、人間の生き方としては、『欲望を無限に解き放つ』『自利』を追及する生き方から、『利他的生き方』に切り替わっていく必要がある。実際、人々がそういう生き方を求めようとする予兆は各所に芽生えつつある」
と言っているように私には受け取れます。
この場合、著者が言う「文学的文化的に語られるべきグランド・デザイン」とは、けっして難解で抽象的なものではなく、「自分たちと等身大の」例えば「海の偉大さを感じながら暮らすことのできる町」とか「学校帰りに子どもたちが道路や草原で遊んでいる町」とかでもよく、或いは「お祭りにみんなが集まってくる街」でも「高齢者たちの笑い声が聞こえてくる町」でもよいと言うのです。
そういう考えの生まれてくるもとは、例えば戦後の「東京づくり」を推進したグランド・デザインは「経済発展とそのための基盤整備」ということであり、具体的な計画よりも「その思想こそがいまの東京をつくりだした」と著者は考えるかららしいのです。
そして、そういう思想は全国的に波及し、「ミニ東京のような地方都市をつくりだし」ました。そういう思想による社会形成は、戦後のある時期まではある程度有効でしたが、やがていろいろな形で破綻をきたすようになり、「戦後の思想とともに形成された文明が原発事故を起こす」に至って、ついにそういった「戦後の思想の敗北」が明らかになったというのです。 ですから、重要なのは「これまでの社会形成の思想を検証」し、練り直していくことである、というのが著者の主張のようです。
著者はまた復興とは「風土の再建である」とも言います。その風土とは、そこに住む人々が、彼らを取り囲む自然や文化や歴史や死者たちから「働きかけられ、働きかけている世界」であり、そういう場にあってはじめて人間は「自分の存在が自己了解できる」(やや難解な表現ですが、便利な言葉なのでそのまま引用します)のです。
そして、そういう風土に根ざす「日本の伝統的な共同体は、自然と人間の、生者と死者の共同体としてつくられていた」のでありますが、西欧的な人間中心主義の思考法では、えてしてそのような視点が抜け落ちて、伝統的共同体の破壊を招いてしまい、また原発事故は、そのような風土さえも、再創造の不可能な汚染地域に変えてしまうという、かつてないような深刻な事態を生み出してしまったと言うのです。
「利他的生き方」ということについては、一応、我々宗教者の得意分野のはずなのですが、それを道徳的宗教的な説教としてではなく、著者の場合、それを哲学的、社会学的観点から説くというところに、新鮮味が感じられます。
しかもその理由として、戦後、学校や大人たちから教育されてきたような「自分を大事に」という論法では、つきつめていくとどうすればよいのか答えが出せないからだ、というところがなかなか興味深いのです。つまり、「自分のために生きるとはどうすることなのかはよくわからないが、他者のために生きるということなら、どうすればよいのかはわかる」と言うのです。
しかしながら、その論点を私自身にわかる言葉で手短に要約しようと試みても、どうもうまくいかないのは、どこかに論理の飛躍があるか、まだ十分に練れていないところがあるからなのかもしれません。「自分のため」がよくわからないと言うなら、「他者のため」ということも、ほんとは同じくらいよくわからないのではないかとか、利己的生き方と利他的生き方をはっきり二分してしまうのには無理があるのではないかとか、いろいろと疑問がわいてくる余地があるのです。
それでも、「近代社会は人間たちの欲望を解き放ち、ためらいもなく自分の利益を追求していく」言わば「『自利』の社会」「として形成された」が、「この社会が全体としては豊かさをもたらしていくという諒解が崩れたとき、人々は別の生き方を模索しはじめ」「この過程の中で『利他』という言葉が甦った」という論究には一定の説得力があります。
そして、著者が「他者のために生きる」という場合の他者とは、「他の人々」はもちろん「自然」や「歴史や文化、思想」や「町や村」や「外国人」や「死者」までもが含まれ、他者のために生きるとは、「何かに困っている人に手を差しのべ」たり「自然のために自分ができることを考え」たり、「町や村のためになることを」したり、「歴史や文化を守ったり創造したりするためには自分はどうしたらよいかを考え」たり、或いは他人と「協同」して何かをなそうとすることであると言うのです。
もう一つ、著者は今度の原子力事故の根本原因、及びそれに対する対応のまずさの原因についても、いろいろ重要と思える指摘をしています。しかし、それをいざスッキリとまとめようとすると、なかなか大変なのです。内容を紹介したいという私の根気もここで尽きてしまいましたので、興味のある方はどうか実物にあたってみてください。と言っても、断片ぐらいは幾つか列挙しておきましょうか(原文そのままの引用とは限りませんが)。
「我々の世界には、あらゆる分野で大量の情報が溢れるようになったが、情報を大量に受け取るほど、逆に人間は適切な判断ができなくなる」「情報機能を高めるには、誰かが(専門家が)選択してわかりやすく伝える必要があるが、それは必然的に情報操作を生むというジレンマを抱え込むことになる」
「我々はまた、今ではあらゆる分野で巨大システムに依存して生きざるを得ないが、システムは巨大化すればするほど、『専門家』の領域、つまりは素人の介入できない領域が拡大していく」「専門家とは、大抵専門領域でしかものを考えられない人のことである」「この構造が、専門家たちの『村』をつくらせ、その中にいれば専門家として安住していられる閉鎖的世界(ときに利権をも含んだ)を形成させる」「こうしてつくられた集団が暴走し、ついには多くの人々に大災害をもたらしたのが、今回の原子力発電所の事故であった」
「これからは、たとえ巨大システムが崩壊しても、最低限の生活を維持できるよう、普通の人たちがバックアップできる方法を持ち、また巨大システムに対しても介入していける仕組みをつくりださないと、専門家の暴走に翻弄されるばかりで、無事な社会はつくれない」
全体的にこの本は、部分部分には大切な興味深い指摘がいろいろとちりばめられているのですが、それらがどうも統一のとれた形でスッキリとは頭に入ってこないキライがあります。それがアクビ居眠りを誘う一因にもなっているようです。目次も不親切で、それを眺めただけでは言いたいことの見当がつかず、読んだ後でそれを見ても、内容がおさらいしにくいのです。わかりやすい目次にしたら安っぽくなる、とでも本の編集者は考えたのでしょうか。
でも、読んでみた価値は十分あったと思います。Wセンセありがとう!
著者が言うような「利他」ということに関して、さしあたり私自身に可能な実践の一つは、こういうお便りを頂けた「絆」「おあてがい」「お差し向け」といったものに深く感謝し、精一杯そういう働きかけに応えようとすることでしょうか。しかも、それに応えようとすること自体が、同時に大きな「自利」にもなっているのです。
念のためネットでもいろいろと調べてみますと、なんと、この本は毎日新聞の昨年11月6日の書評欄で既に取り上げられていたらしいです。だとすると一応は目を通したはずなのに、全く記憶にありませんでした。いやはや!
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⑤ 森下典子「前世への冒険」(光文社知恵の森文庫・700円) |
H24.6.3
この本の初版は1995年なのに、私がその存在を知ったのは、昨年秋、BSジャパンで放映されたテレビ・ドラマによってでした。前世だの生まれ変わりだのという話には、戸惑いを覚えたり、頭から拒否反応を示す人もまだまだ多いことでしょうが、ある程度の予備知識のある人にとっては、もはやさしたる驚きも抵抗もない話でしょう。
私が知っている範囲では、四つのパターンが考えられます。
まず第1に、本人自身が前世のことを覚えているというもの。
大抵幼児期のことで、年齢を重ねるにつれて記憶もうすれていくようです。そのような事例をいくつも読んだり、テレビでもやっていたのをみたように思うのですが、あまりよく覚えていません。
唯一強く印象に残っているのは、少し古い話ですが、国学者の平田篤胤が直接聞き取り調査をして本にしたという「勝五郎の話」です。若い頃これをはじめて知ったときの衝撃は相当なものでした。今は便利な世の中で、これも念のためネットで検索してみましたら、ちゃんとありました、ありました!まだの方はぜひ一度引いてみてください。
第2に、宗教上の教えとして。
私の所属する教団では、そのような輪廻転生説は、まだ公認まではされていませんが、否定もされていません。教祖の教えとして伝えられるものの中にも、そこに通じるようなものがないわけではありません。そして、先師たちの個々の教説の中には、例えば次のようなものもあるのです。
ある高徳の師が、幾人も子供を亡くされました。そのたびに神様から、先祖のめぐりを取り払うためであると教えて頂かれ、「ありがとうございます」と礼を言ってはおられたのですが、あまりに度重なるのでとうとう我慢ができなくなり、どのような罪によるのかを聞かしてほしいと神様にしつこくつめよられました。そしてようやく教えてもらわれたのが、4代前にこれこれの罪を犯した故、子孫20代苦難が続くとのことでありました。
「わかりました。4代前というとひいおじいさんの時でございますね」と言うと、「いや違う」と言われる。「それでは、もう1代前の先祖でございましょうか」と返されると、「いや違う。それはお前自身である。お前自身の生き代わり死に代わり4代前じゃ」と神様が言われたという話が残されているのです。
「やはりそんなことがあるのか」と、それを読んだ時、不徳な私などはただ感嘆して受け入れるのみで、疑いを差し挟む気になどなれなかったのです。
そして、それら二つの事例は、輪廻転生説に基づく私の死生観や「めぐり」観の形成に、有力な手がかりとなってくれたのであります。
第3に、催眠療法の結果として。
1980年代になって、転生説に強力な援軍が現れました。精神科の患者に催眠術をかけて記憶を遡らせ、トラウマを探るのが治療に有効であるとされるようになり、そうやって記憶を遡っていくと、患者の前世の記憶にまでたどりつくことができるという医師があらわれはじめたのです。一番よく知られているのが、アメリカのブライアン・ワイスという人です。
その人の著書の邦訳が1988年に「前世療法」と題して出版され、私も早速買い求めました。
第4に、特殊能力者による透視
他人の前世を透視できるという特殊な能力を持った人は何時の世にも絶えぬようで、そういう人が時々テレビにも出演します。ほとんど検証のしようがないので言いたい放題ですが、全部が全部ウソであるとも言い切れないのが悩ましいところです。
ここに取り上げた本は、その第4のパターンを扱ったもっとも良質な必読書であると言えると思います。
著者の森下典子さんという人は、もともとエッセイストであり、ルポライターでもあり、そんな転生などということは、全く認めていない人でした。
ところがある時、ある雑誌から、前世が見えるという女性から自分の前世を見てもらって記事を書くようにと依頼されます。そうして出会った京都の女性から、二つの過去世を示されました。一つは、鑑真和上の弟子と共に来日した中国の学僧、もう一つは、デジデリオというルネッサンス時代のイタリアの天才彫刻家ということでした。
最初の取材で、彼女の目に浮かぶままを語ったというその言葉も、その晩ファックスで送られてきた学僧に関する詳細な透視データも、著者はなかなか信用することができません。二度目の取材の折、イタリアの彫刻家に関して浮かんでくるという映像を、彼女は著者の目の前で書き留めていき、それがかなりの量になったのですが、それらのメモをも、著者は徹底的に疑いました。
それでも、言われてみれば思い当たるふしが多々あり、下調べの余裕を与えないように配慮したのに、二度目の取材の折のメモに書かれた人名、場所、年代、出来事などが、あらゆる手を尽くして文献を渉猟していくうちに、次々と事実と合致することが判明していくのです。しかも、文献にも出ていない細かいことまで、メモには書かれていたのです。
そこで、とりわけ後者のデジデリオという彫刻家の方に強く興味を惹かれた著者は、とうとうイタリアへの現地調査にまで乗り出すことになります。そのスリリングな探索紀行は、「事実は小説よりも奇なり」の言葉そのままなので、あとは是非とも実物にあたってみられることをお勧めします。普通の書店には置いていないでしょうが、ネットでなら、まだ簡単に手に入れることができます。先に述べた「前世療法」についても同様です。
そして、Amazonに寄せられた多くの書評で、両者に共通する特徴は、輪廻転生ということを信じるにしろ、信じないにしろ、書かれた内容そのものに対する否定的な見解は一つもないということです。そればかりか、これらの本で人生観が変わったとか、世界観が大きく変わったという人も少なくないのです。
たしかに、そのような輪廻転生説を信じることができたなら、今の世でかなわぬことも努力次第では先の世ではかなえられるかもしれぬという希望が持て、長い目で見た努力ができるようになったり、いわゆる「悪事」も消えずに持ち越されていくということで、振る舞いには慎重にならざるをえないでしょう。それによって得るものは多く、失うものはあまりないように思うのです。
人によっては、そういう功利性を理由に善い行いをしようとするのは、不純である堕落であると嫌うむきもあるようですが、わざわざ功利性を排したむつかしい観念操作をしなくても、ごく自然に素直に「まっとうな」生き方がしやすくなるなら、結構なことではないでしょうか。
最後に一つだけ、読む前から読者のつまずきになりそうな疑念に言及しておきます。現在の著者と、若くして死んだイタリアの美男の天才人気彫刻家との落差についてです。今の著者とて、それなりの知的職業につく立派な女性ではあるのですが、それでも著者自身が、彼と自分とでは、あまりに違いがありすぎるのではないか、という疑念を抱いたのです。
それに対して、その霊感女性は、「あなた、前世では才能があったし、きれいだったし、男からも女からもちやほやされて愛されたんやけど、欲情にまみれて享楽的な人生を送ったから、今世で格が落ちたんや」「がっくり落ちてる。あるのよ、そういうことって」と、無遠慮に言い放ったのだそうです。
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談話室より |
森下典子「前世への冒険」について
坊っちゃん(男39歳)H24.6.28
森下典子著『前世への冒険~ルネサンスの天才彫刻家を追って~』(光文社知恵の森文庫)を読ませて頂きました。
イタリア語やポルトガル語のややこしい横文字のカタカナ言葉(人名・地名・建築物名など)や、「何年に何があって……」という詳細なところ、そして、風景や移動中の描写的なところは、あまり気にかけずに、少々ザザーッと流し読みさせて頂きました。
前世・現世・来世とか、また、生まれ変わり・輪廻転生といったことが、あるのか・ないのか、現代を生きる私たちには、まだ、真偽の程は分かりませんが、「世の中には、科学では証明できないことって、いくらでもある」、って思いますから、今回のこの本の内容は、世の中に一石を投じるものであるように思いました。
著者である森下典子さんの前世が、イタリアの天才彫刻家デジデリオという男性で、その人の詳しい資料というのがなかなか見つからないということ。日本はおろか、イタリアでも、ポルトガルでも、わずかな手掛かりを元に、探して、探して、探しまくって、やっとこさ見つかるという謎解きの難しさ。
そして、その解き明かしていった謎の一つ一つが、森下さんの前世を見たてた清水さん(仮名)のおっしゃってたことと、ことごとく一致するという事実。
確かに、デジデリオという人に関する資料が、日本であれ、どこの国であれ、潤沢に手に入るということであれば、森下さんに胡散臭いと思われながらでも、つじつまの合う話を清水さんがでっちあげることはできたのでしょうけれども、でっちあげるにしても資料がまず手に入らない。
なのに、清水さんには見えているということの一つ一つが当たっており、単なる清水さんの妄想や嘘っぱちのでたらめ話でもなさそうだ……、となると、やはり、清水さんには、人の前世なるものが見えているんだろうなぁとしか思えませんよね。
森下さんご自身が、ごく常識的な方であり、何でもかんでもむやみやたらと妄信される方ではなく、常に「騙されているのかも」とか「踊らされているのかも」的な、客観的な思いを持ちながらの旅でしたから、すごく真実味が伝わってきました。
私も、前世とかそういった類のことは、基本的には否定もしないし肯定もしない立場でして、あったらあったでいいし、なけりゃないでいいかなと思っています。でも、今回この本を読んでみて、あったらあったで、自分の前世って何者だったのか、さすがに知りたくなりましたね(笑)! いい人であってほしいですけど(笑)!
高校生か大学生の頃に、ゲームセンターで前世占いのゲームがありまして、もちろん、おもしろ半分で一回したことがあります。そのゲームでの私の前世は、北欧のバイキングと出まして、笑ってしまいました(笑)! そのゲームで出た回答が、私の前世の名残だとするならば、バイキング形式のレストランは、いまだに大好きだったりしますけれども、その形式のレストランが増えているという昨今の事情を考えると、今の世の中、前世がバイキングだった人がたくさんいるってことになりますからね(笑)。
教会長より
「行いの善し悪しに関わりなく、人間は死ねば無に帰する。後には何も残らない(他人の記憶の中や記録に残るのは別として)」というのが、今でも我が国の最も有力な知識層にとっての「常識」です。
殆どの人はそれでも格別悩むことなく生きていくみたいですが、ごく一部の人たちのみが、そういう虚無観、もしくは虚無感を乗り越えるべく奮闘します。そういう虚無感は、また犯罪の温床にもなります。犯罪者とまではいかなくても、普通の人々の間にさえ、他人に知られさえしなければ、何をしてもかまわないという気分を醸成します。
しかし、こういう話を読むにつけ、たとえ確信は持てなくても、自分の行いはすべて消えずに持ち越されていく、と考えて おいた方が無難のように思われてくるのです。自分が今あるのは、この世に生まれてくる以前からの全ての行いの積み重ねの結果であり、この世での行いはすべて消えずに先の世にまで持ち越されていく、と考えられることは、大きな希望と畏れを同時に抱かせてくれます。
T.Oさん(男70歳 教会長)H25.1.11
森下典子氏の「前世への冒険」、全く知らない人でしたが、その内容を懇切に伺ふことができ、ありがたいことでした。先生が篤胤の「仙境異聞」、即ち「寅吉もの」と言はれる話を読んでをられるとは、ありがたいことでした。かつて、国学の研究分野の他界観のテーマとして、小生も篤胤を読んだことがあります。「霊能真柱(たまのまはしら)」といふ著述は、初期金光教の他界信仰にけっかう影響をもたらしてゐると、私は観てをります。
教会長より
恥ずかしながら、篤胤を直接には読んでおりませんで、むかし、名前は忘れましたが、多分学界からは疎外されていそうな大学教授の「霊魂の世界」という著書を通じて、勝五郎のことを知ったのでした。
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