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金光教高田教会、我が信心を語る
19 人の運命について
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もくじ
▲ 人間の尺度だけでは天地のことは推し計れない
○  神様があるなら、なぜ人間をひどい目にあわせるのか
▲ 人間は無知無力の自覚に徹するとき、多少は強くも賢くもなれる
▲ 人生が不条理な事柄に充ちているからこそ、神は信仰するに値する
▲ 信仰は証拠によってではなく、感性によって選び取るべきもの
▲ 長い目で見た時、やっぱり勧善懲悪の原則は貫徹されていく
▲ 神の眼はつねに行き届いている
▲ 人の運命はある程度決まっている
▲ 運勢は変えることができる
▲ 生まれて以後の生き方によって、運勢は変わる
▲ 災害で死ぬのは悪いことをしたせいだと言うのではない
▲ 運命を愛し、他力信仰に徹せよ
平成七年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
人間の尺度だけでは天地のことは推し計れない
 つい最近まで、新聞のベストセラーの欄に、「ゾウの時間ネズミの時間」という新書版の割合かたい本が時々顔を出していました。この本が売れた大きな理由のひとつは、生き物にはそれぞれ固有の時間があるのだ、という新鮮な驚きを読む人に与えてくれた点にあると思います。
 簡単に言いますと、身体の大きい生物ほど、時間はゆっくりと流れるので、寿命の長いと見える生物も短いと見える生物も、結局は同じ長さの一生を過ごしているということなんです。
 一般に、身体の大きい生物ほど寿命は長く、ゾウは百年近く生きるそうです。それにひきかえネズミは数年しか生きません。しかしほ乳動物だと、一生の間に心臓の打つ回数はいずれも二十億回で、当人たちが感じている一生の長さというものは、ゾウでもネズミでも同じであるらしいのです。
 仮にこの天地がご神体であるとして、この論法を教祖の教えにあてはめてみますと、あの「人は十年は長いように思うけれども、神にとっては、あちらを向いてこちらを向く時間ほどもない」という教えが、実感としてよくのみこめる気がします。
 また人間にくらべたら、バクテリアなどにとっての時間はもっと早く流れているわけで、仮に人間の鼻毛の先とか、のどの繊毛にとりついたバクテリアが、クシャミによって弾き飛ばされるまでの間には、既に何回も分裂を繰り返して、世代交代を終えているというわけです。
 人間もまた、言ってみれば天地の鼻毛の先にとりついたバクテリアのようなもので、仮に大地震などの災害を天地のクシャミと考えるなら、天地が一度クシャミをして次にまたクシャミをするまでの間に、人間はせっせと、家庭を持って子供を育てたり、家を建てたり、孫の顔を見たり、というようなことを何度か繰り返して、自分たちの生活基盤があたかも磐石でゆるぎのないもののように思い込んでいるのです。
 そしてたまたま天地にクシャミをされてみて、自分達の無力さや、ちっぽけさや、はかなさをあらためて思い知らされるという寸法です。
 私は「人のいのちは地球より重い」という言葉がどうも嫌いです。人命尊重の精神からそう言うのでありましょうが、そういう思い上がった言い方はすべきではないと思います。「人のいのちは羽毛より軽い。だからこそ大切にしたい」というならまだわかりますが…。
 信心は、我々に神様の尺度でものをみようとすることを教えてくれます(そんなことが実際にできるかどかは別として)。それが、我々を謙虚な生き方、目先のことにとらわれない生き方、真に頼るべきものに頼る生き方に導いてくれるのです。
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  ○  神様があるなら、なぜ人間をひどい目にあわせるのか
 今度の阪神淡路大震災で、神様があるならどうして人間をこんなひどい目に遭わしなさるのだろう、という疑問を感じた人も多いようです。その典型的なものとして、横山たかしという漫才師の方が次のような意味のことを言っています。
 「すまんのぉ!大金持ちのおぼっちゃまじゃ」というギャグで毎回始まる新聞の連載エッセイの中で、およそ次のように書いているのです。

「この世の中には、神や仏はいないのか。
何一つ悪いことをしていない善良な市民が、なぜ一瞬のうちに家や親兄弟を失わなければならないのか、納得できない。腹立たしい。
 兵庫県の人も大阪府の人も、京都府の人も、正月には一年の幸せを祈って、初もうでに行ったではないか。なのに何故神様は、一生懸命生きてる人間の命を奪う権利があるのか、教えてほしい。
 自分は今年から、この世の中に神や仏があるものか、と心に決めた。本当にに神様がいるなら、あの神戸の生田神社のお社が決してつぶれる事はなかったと思う」
 

 すでに色々と信仰的な知識やリクツや体験を身につけてしまった者にとっては、素朴過ぎる疑問ではありますが、依然として的確には答えにくい問題でもあります。
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人間は無知無力の自覚に徹するとき、多少は強くも賢くもなれる
 今回のことで多くの人が書いたり語ったりした中で、いちばん数多く引用された宗教家の言葉は、良寛さんの「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」という言葉でありました。
  何にでも文句をつける人はいるもので、早速投書欄に、庶民が一生懸命災害を乗り越えようと闘っているのに、そんな諦念をとり上げて人間の営みを無力感で片付けてしまうのはけしからんという意見があらわれました。
 これは明らかに取り違えでありまして、そういう諦念を持つことと、一生懸命災害を乗り越えようと闘うこととは、少しも矛盾しないばかりか、人間は〃無力観〃、言い換えれば無知無力の自覚に徹することで、はじめて多少は強くも賢くもなれるものなのだと、私などは常に思うのです。
 諦めるというのは、もともとは真実を明らかにするということだ聞いたことがあります。諦念をもって生きるというのは、あくまで真実に立脚して生きるということなのであります。   
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人生が不条理な事柄に充ちているからこそ、神は信仰するに値する
 横山さんの疑問に対する一つの解答になりそうなものとしましては、作家で熱心なカトリック教徒である曾野綾子さんが、面白いことを書いていたのを思い出します。人生が不条理な事柄に充ちているからこそ、神は信仰するに値するというのです。
 曾野さんによれば、「この世は決して勧善懲悪の原則にのっとって動いたりはしていない」、つまり善は栄え、悪は滅びるとか、良い行いには良い報いがあるとはかぎらないので、そういうことを神信心に求めるのは、むしろ信仰として邪道だというのです。
 「私の中の聖書」という書物の中の原文にあたってみますと、
「…それこそがこの世の実体であり、神の沈黙と正義が行われないことこそ、人間を純粋の精神性に向わせる原動力である…。この世に隅々まで正義が行われ、人間が正しく報いられるようになったらどうなるか、人間の堕落と功利性は目を覆うばかりになるのであろう。そこにはもはや『アガペー』的な愛もなく、純粋の善、自己犠牲による奉仕もなくなる。人間は哲学も求めず、人生について考えることもなくなるだろう。なぜなら、人間の全ての行為と意志は、正しく評価され、すべて報いられるというのだから。
 地球は人間の精神の崇高さを保つために、矛盾だらけであってもらわねば困るのである。…報いられるからやるというのは商取引である。人間は報いられなくてもやる時に、人間を取り戻すのである。全世界を敵に廻し、ただ一人の理解者もなくとも、真理と心中しようと思う時に、現実の悲惨さを超えた尊厳をもって生を全うできるのである」

★ 注 「アガペー」的な愛…キリスト的な自己犠牲的な愛。

 曾野さん一流の鋭い発想ですが、ともすれば功利的な動機で善行を求めがちな、おかげ目当ての信心に走りがちな我々にとって、耳の痛い指摘でもあります。
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信仰は証拠によってではなく、感性によって選び取るべきもの
 いずれにせよこういう考え方に立てば、神というものは、証拠がなければ信じられないとか、ご利益がなければ信じられないとか、神殿がつぶれたから信じられないとかいうものではなくなります。高橋正雄師も、証拠がなければ神を信じないというのなら、信じなくてもよい、とどこかに書いておられました。
 つまり神に対する信仰というものは、証拠によってではなく、自らの感性によって選びとるべきものなのです。信じる信じないは感性の問題なのです。
 別に証拠はなくとも、一枚の木の葉、一枚の花びらの中にも神を見る人は見ます。今回の被災者の中にも、人の心の中に神を見たとラジオで語っている人がありました。そして神を信仰するということは、そのこと自体に価値があり、喜びがあるのです。
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長い目で見た時、やっぱり勧善懲悪の原則は貫徹されていく
 ところで、曾野さんは人生は不条理に充ちているといわれるけれど、神様は決して薄情なばかりではありません。試練も与えられますが、ほんとうは、受けている恵みの方がはるかに大きいのです。
 それに、この世には結構正義も行われております。というよりも、長い目で見た場合、やっぱり「人間の全ての行為と意志は、正しく評価され、すべて報いられる」と考えておく方が無難だと思うのです。「天地の帳面はキッチリしている」と湯川安太郎師が説かれたのもうなずけます。
 斎藤宗次郎という人の伝えに、次のような話があります。

 宗次郎さんの分家である隣人が、夜の間に屋敷の境杭を抜いたり、本家を義絶したりした。そのことを金光教祖に申し上げると、教祖は、「それは境がいるから抜いたのである、打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。 神様へ気を入れて、万事お繰り合せを願え。先を見よ。ただし、隣分家の人が先でいかほど不都合になるとも、よい気味じゃと言うなよ。あの人はただいまはお気の毒なりと言うておれ」と諭した。
 その後、その夜の間に境杭を抜いた人は、八年後には国を立ち退き、散り散りばらばらになったり、生き別れになったりして、あとは野原になってしまった。

 こういう話も、明らかに勧善懲悪の原則を肯定する立場に立つ教えですが、なるほどと、うなずけるところがあります。世間には、陰で悪事を働く者が栄え、いわゆる「正直者」が損をすると言いなす風潮がつねにありますが、長い目で見れば、やっぱり勧善懲悪の原則は貫徹されていくようなのです。
 問題はむしろ、それがわかっていながら、なおかつ善行ができ難いうことの方にあります。信仰が功利的な取引になってしまうことを心配するよりも、いずれにしたって自力でよい心になったり、よい行いをすることはむつかしいのですから、そこを 願ってさせてもらうということの方に力を入れるとよいと思います。
 それにしても、敵対する相手が不都合になっても、よい気味じゃと言うなという言葉が加わることで、この教えはなお一層輝きを増しています。そういう教えのお陰で、我々もまた、少しはよい心にならせてもらう手掛かりが与えられるのです。
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神の眼はつねに行き届いている
 震災で多くの人が亡くなったり、怪我をしたり、家族や財産を失いました。このような時でも、神様は決して気まぐれに十把ひとからげに、人々を不条理な目に遭わせられるわけではないように思います。いかなる時にも、神の眼は一人ひとりの上にこまかく注がれており、それぞれの〃定められた〃運命に従って、受け取るべきものを受けていくようなのです。
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人の運命はある程度決まっている
 人間の運命というものについて、教祖は、

「人間は、生まれる時に証文を書いてきているようなものである。生まれた時に、悔やみを言いに行ってもよいくらいのものである。どういう災難があるとか、こういう不幸があるとかいうことは決まっているのである。神はよくご承知なのである」

と教えました。
 運命ということについて、心に焼き付いている話があります。
 昔、作家の阿川弘之(今では阿川佐和子さんのお父さんと言った方がわかりやすいかもしれませんが…)という人の書いた、山本五十六(日本海軍史上最大の人物といわれた人)の伝記を読んだ中に、次のような話がありました。

 昭和十年代の頃、海軍に水野義人という手相骨相を観る人が雇われていました。その頃海軍では、飛行機の操縦士の適性を調べるのに苦労していました。当時として科学的と思われるあらゆるテストをして選抜しても、時が立つと必ず不適格者が出てくるのです。そして事故を起す。なんとかよい選別方法はないものかと思案しているところに、その人が現われて、特異な能力を発揮してみせたのであります。
 そういう人を採用するについては、当然大きな反対がありましたが、実験のため飛行士や練習生を集めて、その技量や適性を甲乙丙の三段階に分けて判定させてみたのです。そしてその人が一人について五、六秒ジーッと観て判定した結果を、それまで何年も何カ月もかけて判定した結果とつき合せてみたところ、驚くほどの的中率を示したので、とうとう山本五十六の決裁でその人物を採用することになったのです。
 それ以来、海軍航空隊では、学力体力が優秀で、その人が甲の判定を下した受験生を優先的に採用するようになり、終戦まで二十万人以上の骨相を判定することになったといいます。
 その最初に甲乙丙の判定をさせた時、水野氏は、「一年ぐらいしたら、戦争が始まるのではないでしょうか」ということも言いました。居合わせた人が、いやそんなに早くは起こらないだろうと反論しましたが、翌年に日華事変が起こったのです。
 そこで、どうしてあの時それを言い当てたのかと尋ねますと、
「昔、手相骨相に興味を持ち始めた頃、東京で死相の出ている人間がたくさん目についた。大阪へ行くとそれがないので不思議に思っていると、関東大震災というかたちでそれがあらわれてきた。今度の場合は、東京の町に、ここ一、二年のうちに後家になるという、いわゆる後家相をした婦人がひどく目につく。これは天変地異ではあるまい。いくさが始まって夫を喪うのだろうと判断したのだ」
と答えたといいます。
 実際、事変の始めに、東京を中心に編成された師団が、上海戦線で戦って多くの戦死者を出したのです。
 この人はさらに、太平洋戦争の始まりと終りも予言したそうです。終りについては、特攻隊の基地をまわってみて、特攻隊の若い士官下士官の中に、死相をした人が極めて少なくなった、ということを理由にしたといいます。

 こういう話の中で私が注目したのは、死の近くなった人には、その人の健康状態とは無関係に、死相というものが現われるということです。もしそれが事実だとしたら、人間の運命というものは、やはり教祖も言われるように、あらかじめ決まっているというか、少なくともわかっているということになります。地震や戦争でも、死ぬ運命の人は死に、死なない人は死なない。そして死ぬ運命の人には死相が現われるというわけです。
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運勢は変えることができる
 それなら、運命というものは絶対に変えられないものかといえば、そうでもないらしいのです。先の教祖の教えの続きはこうなっています。

 「信心を強くすれば、大厄は小厄にしてくださり、小厄はお取り払いくださる。そ れがおくり合せを頂くということである」

 つまり運命という大きな枠組は変らないが、運の勢い、すなわち運勢というものは変えられると考えたらどうでしょうか。
 人間は、前々のめぐり合せ、つまり先祖の行いの積み重ねであるとか、或は自分自身の前世までの行いの積み重ねによって、生まれてくる時、取り組まねばならぬ課題が決められている、それが運命というものであると考えられます。人には分かりませんが、各人の人生には、どうしても定められた課題と取り組まねばならないように、見えざる手がたえず働きかけているのです。それはそれぞれ「生まれた時に、悔やみを言いに行ってもよいくらいのもの」なのです。
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生まれて以後の生き方によって、運勢は変わる
 ただし、生まれて以後の行動は、自分の自由意志によって選ぶことができ、その生き方によって、悪い運の勢いを弱めたり、良い運の勢いを強めたりすることはできる、そしてそれがまた先の世の運命につながっていくと考えるのが、いちばん理屈に合うように思います。
 運勢が変るということで、子供の頃読んだ講談本の中に、案外真実を言い当てているかもしれないと思う話がありました。話そのものは、作り話に過ぎないとしても …。荒筋はこうです。

 清水次郎長が若い頃、旅の僧から、顔に死相があらわれていて、気の毒だがもうあまり長く生きられないと言われ、自暴自棄の荒れた生活を送っていました。ところが何年経っても死なない。ある時再びその僧に出会ったので、この野郎よくもだましやがったなと、とっちめようとしました。旅の僧は次郎長の顔を見て、死相が消えていると言い、ひょっとして人の命を救ったことはないかと尋ねました。そう言われてみると、荒れた生活はしていたけれど、以前池だか川だかに身投げした人を、飛び込んで助けたことがあったことを思い出し、そのことを告げると、僧は、それで死相が消えたのだと言ったというのです。

 ここには、人を助けるということ、とりわけ人の命を助けるということは、寿命さえも引き伸ばすほどの功徳を持っているのだという考えが示されています。そういう考え方は、我々の腹に極めてすんなりとおさまりますし、教祖の教えからしても、それは大いにあり得ることです。
 教祖は大西秀に、人助けの大切さや、自分より他人を優先させることの大切さをさまざまに説き、
 
「よい心を持っていればよいことがある。朝と晩とでも違うからなあ」

と教え、逆に、自分が助かったらもう他人のことは知らぬという気持でいると、また同じ病気がぶり返すと荻原須喜に説かれました。
 だから、自分達が震災を免れたからといって、他人ごとのように思っていると、また自分達も難を受けることになるかもしれないのです。
 曾野綾子さんはこういう勧善懲悪功利主義思想を否定され、嫌っておられますが、私はそれはそんなに捨てたものではないと思っています。人間が幸福を求めるのは不純でもなんでもなく、自然なことなのですから、幸福になるためによい心になろう、よい行いをしようと目指しても少しも差支えないと思うのです。ただ、すぐに報いられないからといって、神を恨んだり、勧善懲悪の原則に疑いを抱いたりするのがいけないのです。
 また教祖の教えは、言うまでもなくそのような功利的な世界だけに留まるものではありません。

 「たとえ人にたたかれても、けっして人をたたいてはいけない。人に難儀をさせるな。よい心にならせてもらえば有難いと思い、すれ違った人でも拝んであげよ。できるだけ人を助けるようにせよ」

 これはあくまで損得を超えた世界です。
 いずれにしても、我が力でそういう心持ちになれたり、そういう行いができたりすることはむつかしいのですから、少しでもよい心になれたり、人の助かることがさしてもらえたら、それはこの上なく有難いことなのです。
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災害で死ぬのは悪いことをしたせいだと言うのではない
 ここでもうひとつ断っておかねばならぬことは、災難で死ぬ人はそういう運命にあると言うと、何か悪い報いを受けて死ぬように聞えますが、生き死にのことは、人間の解釈のらち外のことでありますから、あれこれあげつらうつもりはありません。もちろん信心していても、いのちを失うことはあります。「死んでおかげの者もあれば、生き残っておかげの者もある」のであるのですから、そのまま謹んで受け入れていくしかないのです。
  それのみか、信心する人は、他人を救うために自分の命を投げ出す場合だってあるのです。ナチス・ドイツの収容所で、他の囚人の身代わりに志願して死んでいったコルベ神父の例などが有名です。そのおかげで生き延びることができた人が、最近九十四歳で亡くなったという新聞記事が出ていました。
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運命を愛し、他力信仰に徹せよ
 そういう話の前には、ただただ頭を垂れるのみですが、私がつねに求めたいのは、そういう非凡な生き方ではなく、平凡で微力でケチ臭い人間でも安んじて生きられる道というか、少しはマシな生き方ができていく道であります。何事もわが力でするとは思わず「お願いしてさせていただく」という信心が、そのことを可能にしてくれるように思うのです。
 被災地の人達の為に、何かさせてもらうといっても、私など一回でもポランティア活動に出かけたわけではなく、貯金をおろしてまで義捐金にあてるということもようしなかった。それでもぜんぜん何もしなかったわけではない。それでよしとしてはならないけれど、できただけはやはり感謝しなければならないと思っています。
 特別な善行、とびきりの親切はできなくても、自分が背負った役割を果たすことを通して、何がしか人の役に立つことができれば、それが自分にとっての主たる善行だと思うのです。
 そして、どんなに悪いと見える運命でも、それを自分に授けられたものとして、有難く受けきって信心していくならば、その運命を生かし、運勢を好転させることができると信じております。
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談話室より
 教会長より H.30.11.17

 この話は平成7年3月、阪神淡路大震災の2ヶ月後にさせていただいたのを、平成23年頃掲載したもので、このサイトに載せた話の中では一番古く、既に24年近く経っています。私もまだ50代でした。
 これまでに自分でも何度か読み返したはずなのですが、その都度ほとんど内容を忘れてしまい、読み返すたびに、我ながらなかなか面白いことを言っているではないかと、新鮮な驚きを感じてしまうのです。
 その反面、今でも相変わらず同じようなことばかり言ってるなあと思うこともあります。
 しかし、その方がむしろ大事なのではないかという気もします。大切なことほど、手を変え品を変えしながら、幾度でも言い続けられねばならぬと思うからです。繰り返し言い続けていることだけが、語る人聞く人双方の記憶に残っていくのです。いくら気の利いた発言でも、一度きりでは、聞く人はおろか語った人の記憶にさえ残らないのです。
 金光教祖も、またあの話かと思うほど、同じことを口が酸っぱくなるほど語っておられたと、身近にいた人達が伝えています。

 尚、この話の今月の訪問者数は、今のところ5位につけています。
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