大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 ホームへ教会のご案内 教会長からのメッセージ
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 TEL:0745-52-6860 メールでのお問い合わせはこちら
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。

   大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。

金光教高田教会、我が信心を語る
25 六十年目の幸せ
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 子孫に喜寿を祝ってもらったが、それをひけらかす資格が私にはある
▲ 子を産む孫、同棲を始めた孫
▲ 地味婚ながらピッタリのお嫁さん
▲ つき合い方もいろいろ
▲ 出会えたチャンスは一度きり
▲ 当方で式を挙げることに
▲ 自慢できても私の手柄ではないが
▲ 結果が出るまで六十年
▲ 今の世だけでは結果の出ぬこともある
▲ 遠い先を見通し、感謝と辛抱で
平成二十六年九月二十二日 奈良県 桜井教会にて
▲ 子孫に喜寿を祝ってもらったが、それをひけらかす資格が私にはある
 私も先月でとうとう七十七歳になり、関西在住の子供や孫やその配偶者たちが俄かに集まって、当麻寺の近くの料亭で喜寿祝いというのをしてくれました。
 世には子のいない人や孫のいない人も多く、そのような人たちの多くが、そんな話を聞いたらどういう気がするかがわかりつつも、敢えてそれをひけらかそうとしますのは、いつも私が「問題山積、前途多難」と言っていますように、それが、同時に多くの悩みを抱えて、それらと格闘しつつある中で起きてきたことだからであり、これといって自慢できることがほかに何もないからでもあります。
 それに、人にはそれぞれこの世で課せられた課題というものがあり、恵まれてある点もそれぞれに異なっていますので、他人と比較して幸不幸を感じるというのは、あまり意味のないことです。
 しかも、今から六十年前、孤独地獄の中で、私がどれほどさびしく心細くみじめであったかを思えば、今の私には、そういう幸せだけは、誰からも許され祝福されてしかるべき資格があると思うのです。更にまた、それがひとえに二十歳から続く神信心の賜物であるとも思うからであります。
▲ もくじに戻る
子を産む孫、同棲を始めた孫
 今回の喜寿祝いに先立って、更に嬉しいことが二つ重なりました。  私には五人の孫がいますが、仮に上からA、B、C、D、Eとします。八月になって、結婚して関東に住む長女の娘、孫Aから暑中見舞いのハガキが届き、来年二月に子供が生まれると知らせてきました。つまり、無事出産すると、来年にはついに、私はひいおじいさんになれるというわけです。
 その少し前、大阪に住む次女の子、孫Cからもメールが入り、今つき合っている女性と、いよいよ同棲を始め、近々入籍をするというのです。写真まで添付してありました。
▲ もくじに戻る
地味婚ながらピッタリのお嫁さん
 このことを私がめでたいことであると受け止め、手放しで喜んでいるのを、普通の人に理解してもらうには、少々説明がいるかと思います。
 私を含めて私の子や孫は、形式的なことへのこだわりや執着が、普通の人に比べてどうも薄いみたいなのです。花嫁衣裳姿などへのあこがれも、あまりないみたいです。類を持って集まると言いますか、相手様の家系も似たようなもので、長女の場合も、孫Aの場合も、一緒になるときは、いわゆる地味婚で済ませてしまいました(経済的な理由もあったのでしょうけれど)。
 孫Cの場合も同じようなことなのですが、同棲から始めるというのは、私の子孫の中では初めてのケースです。詳しいわけは聞いておりませんが、両方の親たちが認めているというのですから、私などがあれこれと心配する理由はないわけです。
 実際、それから機会がありまして、彼らの新居に立ち寄って会ってみましたら、孫Cにピッタシな感じのお嫁さんなので、すっかり嬉しくなってしまいました。
▲ もくじに戻る
つき合い方もいろいろ
 男女のつき合い方でも、孫たちそれぞれに違いがありまして、孫Aは、京都の女子大に通っている間に、ボランティア活動を通じて京大生とつき合うようになり、そのまま遠距離に離れていた期間も途切れることなく続いて、三十近くになって結婚にこぎつけました。
 ところが男どもは、すなわち長女の子、孫Bも、孫Cも、あまり長続きせず、中学高校あたりからくるくると相手が変わってきたようなのです。孫Cはそのうち何人かの携帯に撮った写真を見せてくれたことがありましたし、一度などは、教会に置いてある卓球台で遊ぶために、女子大生の女の子を連れてきたこともありました。
 その都度私は、「へぇー」とか「「ふーん」」とか言ったきり、感想めいたことは言わないようにしていましたが、いずれの場合も「ピッタシ」という感じには見えませんでした。
▲ もくじに戻る
che07.jpg
出会えたチャンスは一度きり
 ところが今回ばかりは、実際会ってみて、「これで決まり」となったわけがなんとなく納得できました。昨今は晩婚化の傾向がありますが、この子となら、多少早くてもいいか、という気がしたのです。
 面白いことに、知り合ったのがまだたった一年前、お互いが出会えたチャンスは、ただの一度きりということでした。つまり、学校が一緒であったというわけでもなく、職場が同じであったというわけでもなく、同じサークルにいたというわけでもなく、通勤通学の時よく見かけたというわけでもない、ということです。職場の同僚たちと、大阪のミナミのある居酒屋で飲み食いしたとき、同僚の一人がたまたま隣り合わせに座っていた女子のグループに声をかけた、その中の一人だったのです。縁というものは実に不思議なものであります。
 そして、私の喜寿祝いにも彼女は出席して花を添えてくれました。みんなで撮った記念写真をみると、二人が寄り添う姿がごく自然で、いかにもお互いが好きなのだという感じがよく出ていて微笑ましく思えました。いつまでもそのままでいてほしいと、切に思いました。
▲ もくじに戻る
当方で式を挙げることに
 孫Cが最初にくれたメールへの返信の中でも、私はこんな意味のことをメールしました。「お互いが好きになるというのは、誰に強いられるのでもない、自然の成り行きである。しかし、これからは成り行きだけにまかせていてはならない。愛を持続させ、深めるためには意志が必要になってくる。強固な意志でもって、願わくば生涯仲良く添い遂げてほしい」と…。
 また、最初に会った時に、基本は地味婚だけれど、少人数でハワイへ行って式を挙げようか、などという話も出ていました。そこでその後のメールの中で、私は、「神前で誓いたいというなら、ウチとこも本職やねんでぇ、ちゃんとメニューがあるんやでぇ、どこよりも有難いでぇ、しかもタダやでぇ」と、冗談めかしてさりげなく売り込んでおきました。
 そうしますと、ちょうど一週間前、孫Cから電話がかかってきまして、十月某日に籍を入れることにしたから、その後いつでもいいから神前で祝詞をあげてもらえないかというのです。要するに、私方の教会で式を挙げてほしいということなのです。
 参列するのは親兄弟ぐらいの最低限の人数ですが、そういう気になってくれたことをとても有難いことだと思い、心を込めて仕えさせていただきたいと思っております。
▲ もくじに戻る
自慢できても私の手柄ではないが
 平素は、なかなか意のままにはならぬことや、苦労がいっぱいありますけれど、そんな中で私の今一番の喜べること、そして自慢できることといいましたら、まあこんなところです。
 ところが、自慢できるといいましても、こういう子孫繁栄の姿というのは、大方は私自身の手柄ではなく、私の手を離れたところで、勝手に起きてきてくれた出来事であります。子育ては子供らが成人するまでで、あとは表向きはわれ関せず、放任状態でありました。妻に先立たれ、私自身が自立するのにせいいっぱいでありました。東海地方に就職した長男(と言っても男は一人しかいません)の寄宿先さえ、一度も覘きに行ったことがありませんでした。
 ただ一人、普通に結婚式を挙げたのは、その長男だけでありますが、それさえ私はほとんど何もしてやれませんでした。ただ、ン十万円の祝い金を渡しただけでした。何もかも全部自分で段取りしてくれました。こんな調子です。
 あるとき電話がかかってきまして、結婚することにしたから、結納を納めに静岡県裾野市の相手方の家までついてきてくれないかと言うのです。指定された日時に、待ち合わせ場所の新幹線の三河安城だか豊橋だったかの駅のプラットホームに行ってみますと、大きな風呂敷包みを提げて待っていました。結納品の紙細工のセットが入っているのだとのことです。
 相手方の家でそれらを広げて自分で飾りつけをしました。私も、事前にあわてて本を買って、うろ覚えながら、一応、幾久しくどうのこうのという決まり文句の口上を予習して行ったのでしたが、「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう」と、向こうのご両親が言ってくださったので、それも言わずに済みました。結納の金額がいくらであったのか、指輪はいくらしたのかなどということは、とうとう聞きそびれてしまいました。
 式当日も、なんにもせず、ただ父親面をして挨拶の言葉を述べるだけでよかったのでした。
▲ もくじに戻る
結果が出るまで六十年
 こんな具合で、そのような有難いことにならせてもらえたのは、みんなが勝手にやってくれたことで、私の手柄でも何でもないのでありますが、それでもおかげはおかげです。しかも、こんなことでさえ、そうならしてもらうのに六十年近くかかっているのです。「信心辛抱」とはよく言ったものです。
 金光教祖様は、
 「信心するにも辛抱が大切である。その証拠には、神殿のお扉を開いてみよ。み鏡のほかは何もない。ただただ、信心の辛抱でおかげが出るのである。神様からおかげが出ると思わずに、信心からおかげが出ると思って、信心の辛抱を強くせよ」(津川治雄の伝え)
 と教えておられます。また、
 「若い時の信心、老いての楽しみぞ」(島村八太郎の伝え)
 とも言うてくだされてあります。
▲ もくじに戻る
che07.jpg
今の世だけでは結果の出ぬこともある
 しかし、どれほど努力しても辛抱しても、今の世だけでは結果の出ぬこともあります。私自身にもそんなことはいっぱいありそうに思えます。まだ全部終了はしていませんけれど…。
 そんな場合でも、信心するものは、さらにその先を楽しみにすることができます。努力したことや願い続けてきたことは、決して無駄にはならないのだと確信することができるのです。先の世まで持ち越していけるのだと確信できるのが有難いのです。

 同じ八月に、ある中年の男性の葬儀をひっそりと仕えさせてもらいました。お兄さんは出世し、家庭的にも恵まれておられるのに、同じ兄弟でこうも違うかと思えるほど。弟さんは全てに恵まれず、はた目には決して幸せとは言えない生涯でありました。
 それだけに、神様にすがりたいと気持ちだけは強く、いつも家に祀ってある神様に拝礼を欠かさないとは聞いていました。通夜の日の朝、朝参りして来られたその方の叔父さんにあたる方から聞いた話に、沈みがちな気持ちの中で、改めて元気づけられる思いがしました。
 その亡くなられた方が、ある時何かのことで思い余って、ある拝み屋さんにみてもらいに行かれたことがあったそうです。するとその拝み屋さんが言うには、あなたには既にちゃんと立派な神様がついておられるから、自分などの出る幕はないという意味のことを言われたというのです。
 そんなことのわかる拝み屋さんを偉いとも、ちょっぴりうらやましいとも思うのですが、もしもそうだとするなら、どんなに思うに任せぬような状況にあっても、神様はちゃんと見守っておられるということなのです。長い長い目で人間を見守って下さっている、ということなのであります。この方の生涯もけっして無駄ではなかったのだと実感できて、少し明るい気持ちで葬儀を仕えることができました。
 私の好きな教えの一つに
 「人は十年は長いように思うけれども、神様にとっては、あちらを向いてこちらを向く時間ほどもないからなあ」(近藤藤守の伝え)
 というのがあります
 人はつい目先の幸不幸に振り回され勝ちですが、信心さしてもらう以上、私は少しでも、こういう神様のような「長い目」を身に着けていきたいと思うのです。
▲ もくじに戻る
遠い先を見通し、感謝と辛抱で
 また、宿老、佐藤範雄師が教祖の最晩年の教えとして書き留められたものの中に、
 「信心の道は、家柄も、ばか、賢いも、素人も、へだてなきものなり」
という教えがあります。
 自分が強いとか、有能であるとか思っている人、頼れるのは自分だけだとか、或いは金だけだと思っている人、普通であることや、或いは恵まれた境遇をさえも当たり前のように思っている人たちにとりましては、このような教えは有難くもなんともない教えかもしれませんが、自分の無力さを思い知る人や、現在逆境にある人や、不利な条件をかかえている人にとりましては、大きな救いとなり、はげましとなる教えであります。
 人間、それぞれ生まれる前からの過去を背負い、課題を背負ってこの世に生まれてきていますので、不平等はどうしても避けられませんが、どんな不利な条件をかかえている人でありましても、例えば、障害をかかえているような人でありましても、信心さえすれば、多少ヒマがかかっても、必ず幸せになっていく、という希望が持てるのであります。
 逆に、いかに恵まれた境遇にあるとしましても、たとえ家柄がよく、賢く、優れた専門知識や技能を身に着けていたとしましても、信心がなければ、次第に徳を失い、不幸を招くことになるのです。
 恵まれ方は、人によりみな少しずつ違います。この点では人より恵まれているが、この点では辛抱しなければならない、ということがみなそれぞれにはあります。
 せっかく家柄がよかったり、賢かったり、優れた専門知識や技能を身に着けることができているのなら、それはたいしたことなのですから、信心して、更なるお徳をいただくようにしなければならないのです。
 お互い、少しでも恵まれているところがあれば、それに感謝し、足りないところは辛抱さしてもらいつつ、遠い先々を見通し、楽しみにして、今の世での修行を積ましてもらいたいものであります。
▲ もくじに戻る
che07.jpg
談話室より
 M.Oさん(男 教会長の弟 73歳) H26.12月

「60年目の幸せ」拝読 同感!
青春の苦悩、「孤独と劣等感」、生き方の「あるべき姿と現実との乖離」、その結果「呼吸も苦しいニヒルの極地」。それでもしがみつく世間体。思い出すと今でも深々としてくる。10代後半から、28歳までの10年間、あんな苦しい時期は無かった。状況打破に強行した結婚が、破綻したことが吹っ切らせてくれた。しがらみから解放してくれたのだ。守り切れなくなった建前を捨てる決断させてくれた。「生物の原点に戻ろう」、「恥や外聞はかなぐり捨てよう」、「生きたいままに生きてみよう」!
あの10年間、心の中はまさしく疾風怒濤、孤独と不安と苛立ちが荒れ狂っていたが、生存本能が時に顔を出し、高卒以来、人の2倍、8年も掛けてではあったが、大学入学・卒業・就職を果たしていたのは救いであった。全てを捨てても、踏み締められる大地が残っていた。
当時、嵐山の猿の、淀みに浮かぶ写真があった。心地よく、悟りきった表情で!「修行の極地とはこういうものか」と感じ入ったことがある。高尚に悩んでいるつもりが、文章化しようとすると、余りの単純浅薄さにあきれた事ではある。日本人作家の私小説がつまらないのも、悩みの浅さ故なのだろう。体力的に、欧州人作家の苦悩の深さに至れないのかもしれない。
以来気儘に生きてきた。少々のことは「気にしない」、人に嫌われても「気にしない」。社内の軋轢など屁でもない。人の思惑など気にせず、思い切ってやりたいようにやってみると、仕事も人生も案外うまくいくものである。「悩まず一歩前へ」、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。後から考えると周囲は随分迷惑だったろうが、望外の成果を挙げ、望外の伴侶も得た。至福である。
家族は言う、「お父さんの20代の頃の写真には全く魅力が無い」!
引退後の今、日々幸せであるが、次の世代への継承が、今のところ無い。これだけはどうしようもない。未婚や子無しに平然を装う人が居るが、結局は絶滅危惧種、どんなに強がっても100年後は消去忘却されている。子孫有者の天下である。
話変わるが、以前にも話したと思うが、兄貴の子供達、「宗教家の子弟」という雰囲気が濃厚であった。知らず知らず家の雰囲気が染みついて、それが幸運を引き寄せているような気がする。我が生家一族の家庭には偏狭な利己主義と虚栄心が染みついていて、それが時に不運を呼んでいる感あり、宗教では救い切れない。自分にもその傾向があるので、我が家では自己主張を抑え気味にしている。子供達は母親の血を引くせいか利他性が強く、周囲の信頼を集めている模様。

教会長の注釈
次兄に次いで、はじめて弟の登場です。
このように兄弟姉妹は多いのですが、私は教会で一人っ子として育ったのです。

T.O さん(男 教会長 72歳) H.27.1月
七十七歳のお年柄を得て、お子やお孫さんたちの賑やかな私生活に囲まれ、いかにもお幸せでいらっしゃること、私として、うれしく、ありがたく、微笑ましく心あたたまる思ひがいたしました。

教会長の注釈
ホームページ掲載に先立って読んで頂いた方々から、同様の祝福の言葉を数々頂いています。
O先生からは「長寿社会に思う」や「ドラマで考えたことなど」についても懇篤な感想を頂戴していますので、追って掲載させて頂きたいと思います。

▲ もくじに戻る
メールでのお問い合わせはこちらをクリックして下さい