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金光教高田教会、うどんが好きかラーメンが好きか
31壁を目当てに拝む
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 壁目当ての信心こそ、神信心の原点
▲ 壁目当ての信心なら、何時でも何処でも始められる
▲ 一人一人向き合える壁がいる
▲ このことは既に信心する人にとっても重要
▲ 叙勲では色々と幸せな思い
▲ 悩みが大きいほど幸せも大きい
▲ 幸せのもとをたどれば、壁目当てに拝む信心
▲ 引きこもりはまたとないチャンスでもある
▲ その時期に得た祈りについての最高の指針が二つ
▲ 求めていたのは、そういう願い方をする生き方
▲ 思いつかしてもらうことが全てお知らせ
▲ 願いそのものが授かりもの
▲ そういう生き方だけは廃れることがない
▲ その上で教会の存在意義を再確認するならば
平成二十九年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
壁目当ての信心こそ、神信心の原点
 教典をひもときますと、金光教祖様は数カ所で、壁を目当てに拝むということを例え話としてしておられます。
 「願うのは壁を当てに頼んでもよい」とか、「無理に遠い所を参って来なくても、毎朝、壁をにらんででも、心を正しく持って信心するがよい」とか、時には、折角遠方から参っても、参拝道中の心がけのよくない人達に対しては、「うちで壁でも拝んでおくがよい」という言い方もなさっておられます。
 要は、「わが心に真さえあれば」という条件付きながら、どこから拝んでも人の祈りは神様に届く、「おかげは十分受けられる」と言う意味で話をしておられるのです。「畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中」なのであります。
 私は近頃、この壁目当ての信心ということをとても大切なことと思うようになりました。それこそが神信心の原点であると同時に、何処まで行っても欠くことのできない重要な要素でもあると思うのであります。
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壁目当ての信心なら、何時でも何処でも始められる
 しかも、そういう壁目当ての信心ならば、する気になれば何時でも何処でも始めることができます。ですから、なかなか教会にまでは足が向かないような人でも、宗教団体などと関わりを持ちたくないような人でも、せめてそういう形で神様に心を向けることから始めてくれるならば、より多くの人々が救われ幸せになる端緒となり得るのにと切に思うのです。
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一人一人向き合える壁がいる
 そもそも神信心というものは、一家のうち誰か一人がしていれば事足りるというものではありません。各人一人一人の営みでなければならないものです。
 もちろん一家に一人でも熱心に信心する者がいれば、他の家族にもその恩恵は及びますが、それだけでは十分とは言えないのです。食べることも排泄することも、他の者に替わってしてもらうわけにいかないように、神信心という営みも、めいめい自身でしなければならぬことの方が多いのであります。
 でありますから、そういう人達には、まず心を神様に向けることのできる壁、祈ったり問いかけたりする目当てにできる壁を持つことから始めてほしい、と思っているのです。
 そのために避けて通れない現実的な問題として、一人一人があまり人目を気にせずに、落ち着いて心を神様に向けることのできる壁、つまりは場の確保ということが必要です。
 神様に心を向けるというような営みは、それが真剣なものであればあるほど、大切な秘め事であります。一人暮らしなら問題はないのですが、複数で生活する人達は、できることなら、傍目を気にせずに向き合える自分自身の壁を、一人一人が確保できることが望ましいのです
 何度も言いますが,、壁というのはあくまでも例えでありまして、それにふさわしい対象なら何でもいいのです。神様のお社やら、天地書附の額ならなおのこと良いわけです。
 そういうわけで、この頃は、お葬式の場や、世間で言う法事、お道で言う式年祭などの折、私自身の身内や信者さんの身内の前で短い話をしなければならぬような時には、できるだけ皆がそういう壁を持つように勧めることにしているのです。これからも勧めていきたいと思っています。
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このことは既に信心する人にとっても重要
 このことはまた、既に信心して教会にお参りしている人たちにとっても重要です。日常生活のなかで神様に向かう気持ちをより強固にし、神様に向かう機会と時間をより多くするのに欠かせない営みであります、教会の基盤は、そうした強固な信仰を持った人が一人でも多くなり、そしてつながり合う場となったときに、はじめてゆるぎないものとなるのであります。
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叙勲では色々と幸せな思い
 ところで、昨年の秋には、私自身の体調の異変について話をさせていただきましたが、幸いにしてその後六ヶ月、つまり発作から八ヶ月間、何とか無事に過ごさせて頂き、誠に有難いことと思わせて頂いております。
 そしてまた、叙勲のことについても、ここではまだ公表以前の内々のこととして、ごく曖昧な形で話をさせてもらいましたが、文化の日に、新聞で報道されたのを見てくださった方もあろうかと思います。
 結果としましては、瑞宝単光章というのを頂いたわけですが、
 たかが勲章、されど勲章とでも言いますか、思いがけずいろいろと幸せな思いをさせてもらいました。身内を始めいろんな人たちから祝福を受けました。
 孫の一人に付き添ってもらって三十年ぶりに上京し、ホテルでの伝達式に出席し、次いでバスに乗せられて皇居に参内し、陛下に拝謁しました。はじめて千葉県に足を踏み入れ、一度行きたいと思っていた弟の家に宿泊させてもらい、歓待を受けました。船橋市に住む孫とひ孫達にも会うことができました。
 その後、子供や孫らが祝いの席を設けてくれたり、中学の同窓会に出席したら、同期生達から祝福の花束をもらったりしました。実家のきょうだい達も、実の両親の式年祭を、叙勲祝いを兼ねるため当方の教会で仕えるように企画してくれ、既にかなりの老齢にもかかわらず、甥や姪達の介助をうけながら、生存者五人とその配偶者達全員が、わざわざ高田まで足を運んで祝ってくれました。
 そうしたことに劣らず有難いと思いますのは、最初は独りぼっちと感じていたのが、今では子、孫、ひ孫とそれらの配偶者たちを含めて、総勢十六名にならせてもらっていることです。
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悩みが大きいほど幸せも大きい
 いつも言いますうに、それと同時進行で、いろんな問題をかかえてはおります。私共の教会の信奉者の中で、いちばん悩み多き人間は私自身であると、変な自負を持っているくらいです。そのかわり、抱えている悩みが大きければ大きいほど、授けられる幸せ、味わえる幸せも大きいと言えると思うのです。
 そして、今述べたようなところだけを取り上げて見ますと、まことに順風満帆、幸せいっぱいの人生であります。
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幸せのもとをたどれば、壁目当てに拝む信心
 そういう幸せがあるということも、私の場合、もとをたどっていきますと、六十年前、教会の物置に引きこもって、壁目当てに拝む信心をはじめたことに由来します。
 二十歳前後の数年間、私は学校にも、社会にも、教会にもどこにも居場所が見いだせなくて、落ちこぼれて引きこもり状態になっていました。
 その引きこもりも、今から思えば前期と後期に分けることができるのです。前期は予備校をさぼって中之島の図書館に入り浸っていた時期、後期が今言った物置での引きこもりです。その引きこもりを境目として、紆余曲折はありましたが、私の運勢は好転していったように思います。
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引きこもりはまたとないチャンスでもある
 引きこもりとはいいましても、私の場合はいたって自由気ままに出たり入ったりしていたわけですが、今全国でもっと深刻な引きこもり状態にある人が何十万といるようです。そういう人たちにこそ、あなた方は壁目当てに拝む信心を始める、またとないチャンスを手にしているのだと言ってあげたい気がするのです。
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その時期に得た祈りについての最高の指針が二つ
 その壁目当ての(正確に言うと前には机とガラス窓があったので、ガラス窓目当てということになますが)私の祈りは、まず言葉探しから始めねばなりませんでした。何をどう祈ればよいのか見当がつかず、言葉がすらすらと出てこないのです。一生懸命考えたあげくにやっと思いついたことを、片言のようにポツリポツリと壁に向かって差し出すことから始めるしかなかったのであります。
 その時期、教会の本棚にあった教内の書物や印刷物にもかなりの部分目を通しましたが、そこから得た祈りについての最高の指針が二つありました。
 これも、これまでに手を替え品を替え話したと思いますが、一つは、湯川安太郎師の「願いは、ありのままをありのままに願えばいいんです」という言葉、いま一つは、高橋正雄師の「心の底から生まれたがっているものを生まれさせよ」という言葉です。
 二つとも、「身の上のこと何なりとも実意をもって願え」という金光教祖様の教えの、実に見事な翻訳であり、言い換えであると常々考えているのであります。
 「願いは、ありのままをありのままに願えばいいんです」の方は、昔出ていた湯川安太郎信話集の第二集の中の言葉ですが、単純平易でありながら、そこから無限に豊かで奥深い世界が開けてくるのです。この第二集は、私が救われていく端緒を与えてくれた貴重な本でもあります。
 「心の底から生まれたがっているものを生まれさせよ」は、今では何処へ収納したか見つけ出せない小冊子の中の言葉で、「我々自身の心の中に,何か生まれたがっているものがあるようだ」といった前置きのあとに続く言葉であったと思います。
 これは、「一筋のもの」という正雄師の代表的な著作の中で、「心の底の底から命がけで本気で願わずにおれぬこと」として、三つの願いを挙げておられた、そのことにも呼応するもので、私にとっては目からウロコの大指針、大ヒントでありました。
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求めていたのは、そういう願い方をする生き方
 それまでは誰もそういう祈り方、他から押しつけられるのではなく、言わば内的必然性に基づいて祈る、というような祈り方を教えてくれた人がおらず、教える力を持った人がおらず、枝葉末節のどうでもいいようなことばかり押しつけられて、神信心というものが大嫌いになり、あてどもなく迷走を続けていたのでありました。
 ところが初めて、私が求めていたのは、まさにそういう、心の底から真剣に願わずにおれぬような願いを願い続ける、という生き方であったのだと気付かされたのです。
 ちなみに正雄先生の立てられた三つの願いとは、「私にどうぞ本当のことをわからせて下さい」「どうぞ私に本当のことをさせて下さい」「どうぞ私を本当のものにならせて下さい」という内容でした。
 私は、めいめいが立てるべき願いの内容そのものは、はじめから必ずしもそのような立派なものでなくてもいい、まずは「ありのまま」ということを心がけていけばいいのだと思っております。
 私自身、日常、未だにそのような立派なことは願っていません。あるがままの「真実」というものを大切にしたい、という気持ちだけは常に持っていますが…。
 この六十年間、結局私は、その引きこもり状態の延長線上で救われてきているのだと思います。ある意味、引きこもり状態をまだ引きずってもいます。落ちこぼれ状態が続いているとも言えます。それでも、ようやく何とかこのお道の隅っこに居場所を与えてもらって、立ちゆかせていただいているのであります。
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思いつかしてもらうことが全てお知らせ
 祈りのスタイルも、私の場合、初期の頃とあまり変わっていません。団体行動の時は別として、自分一人の時は、形にしばられず、考えては祈り、祈っては考えるというやり方で通してきました。それで私は救われてきたのです。それでしか救われなかったのです。
 しかも、祈りの半分以上は問いかけです。この件はどう考えたらよいでしょうか、どうしたらよいでしょうか、などとしょっちゅう問いかけているのです。
 直接神様の声を聞かしてもらえるような徳も力もないけれど、そのようにしながら思いつかせてもらったことは、私にとっては全てが神様からのお知らせであり、神様からの授かりものなのであります。
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願いそのものが授かりもの
 願いそのものさえも授かりものだと考えていますので、いま自分にどのような切実な願いとか思いとかが授けられてあるのか、ということに常に関心を持っています。
 今の今自分が置かれた境遇、持てる能力、日々起こり来ること、思いつくこと、わき起こる願い、全てが授かりものであり、おあてがいであると思えるとき、感じられるとき、私はいちばん楽に生きられるのです。自主性などというものは、できることならひとかけらも持ちたくないのであります。
 自分がしているとか、自分で何とかしなければと思うと、必ず心配やストレスが生じるので、できるだけそうなるまいと、日々努めているのであります。
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そういう生き方だけは廃れることがない
 そしてこれからも、常に感謝を土台に、心の底から真剣に願わずにおれぬことをありのままに願い続けるという生き方を続けさせてもらいたいと思います。
 また、そういう生き方だけは、壁目当ての信心同様、信仰の形態がどう変わろうとも、人類が存続し得る限り、廃れることはないと思うのです。ですから、もし生まれ変わらねばならぬというようなことがあるとしても、必ずこれらの教えと再会できるように生まれ変わらしてほしいと願っているほどです

 今回は、壁目当てに拝む信心の持つ意義を改めて見直し、そのことで我々が神様に向かう心をなお一層強くすると同時に、神様に心を向ける人々の裾野をもっともっと拡げていけないものかという話をさせてもらいました。
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その上で教会の存在意義を再確認するならば
 その上で、教会というものの存在意義をも再確認させてもらうとしますなら、教会というのは、心を神様に向けるという、そのことのためにしつらえられた場所であります。流行りの言葉で言いますなら、パワースポットでもあります。
 また神様に向かう心や、神様のことを大切に思う心がが強ければ強いほど、自ずと教会に足が向き、逆に教会に足を運ぶことによっても、神様に向かう心が強まっていくのであります。
 そこにはまた、信心の世話人であるお取次の先生がいて、参拝者の信心が育つよう、願いが成就するよう、手伝わせて頂いております。皆様におかれましても、わからぬことは何でもここの先生に教えてもらい、力及ばぬと思うことは共にお願いしてもらって、おかげを受けていただきたいと思います。
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追記
 世の中には、宗教団体と関わりたくないとか、わざわざ教会にまで足を運ぶ気になれないという人たちが実に多く、その傾向はますます強まりつつあると言われています。実際、私の子孫や信者さんの子弟の中にさえ、その傾向は見られますし、私自身さえ、もともとはそちら側の人間だったのです。
 多くの宗教に共通する要素は神信心ということですが、神信心の欲求そのものは、程度の差はあれもともと人類に備わった普遍的な欲求で、その欲求に応えるものとして宗教が生まれてきたのだと言えます。それなのに宗教や教会が避けられるというのは、宗教や教会がそれらの欲求に十分に応えていない、かえって神信心の邪魔をしているからだと言えなくもありません。
 壁目当てに拝むという行為は、あらゆる宗教的行為から余計なものをそぎ落としていっても、なおあり得る行為で、そこを手がかり足がかりとして、教会に足を向けたがらない人々の神信心の欲求にも応えていくことができたらと思います。
 少なくとも私自身は、それによって大いに救われてきましたので、同じようにしてみた人達の意見や体験を知りたいです。
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談話室

S.Sさん(男 60歳前後)H.30.4月.

私が言うのも不遜ですし、やや変ですが。。。
壁を目当てに自宅で拝むという教祖の教えがある一方で、おかげをもらうためにはできれば毎日、せめて週3日お参りするという考えがあります。特に尖った玉水、合楽等では顕著だと思います。
先代が実体験で、「お参りの数を増やしたほうがおかげが早い」と解ったのだと思います。時間をお供えする御用をしたほうが更におかげが早いという考えにも通じているかもしれません。壁を目当てに拝むという考えは心を真直ぐに天地金乃神様に向けるということで、教会に参っておかげを頂くとは次元の違う話かと思いますし、根本の発想が違います。

教典にはたびたび、そんなに参らんでも家から拝んだら、、、という話がでてきます。この時、いつも思い出す他宗教があります。それはキリスト教がカソリックからプロテスタントをドイツで中世に生み出したときです。
それまでは聖書はラテン語ですし、教会に拝礼して牧師からおかげ、免罪符をもらうというものでした。ですから教会至上主義とも言えます。マーティンルーサー自身は教会の牧師さんですが、聖書をドイツ語に訳しました。キリスト教は複雑なので私もまだ勉強中ですが。。。
キリスト教は教会主義から聖書の教えに至るまで1500年間かかっています。このことを角埜先生は約150年で達成されたと思います。おおげさに聞こえますが。

この壁を目当てに拝むということは他の教会ではほとんど教えていないと思います。なぜなら、教会にもっとお参りしなさいという教会の先生の話とぶつかるからです。自由な教風なのでできる?
金光教がなぜ子供や孫に伝わらないかを考えた時に、おばあさんやお母さんが熱心にお参りし、御用もしておかげをもらうのは見ていても、さて自分が信心するときに、お母さんのように旅行や趣味、友達との飲み会を犠牲にする生活は自分はできないと思うからではないでしょうか? 特に若い世代に当てはまります。
つまり壁を目当てに拝むは細くても、長く信心するインターネットが普及した忙しい若い世代むけのこつなのだと思います。時間も電車賃もかかりません。
おかげも、最短でおかげを頂く方法も非常に大事ですが、つらつらとこんなことを考えてみました。もっとも病気になったり難にぶつかると教会へのお参りが増えますが。。。

教会長より
顧みられることの極めて少ない私の話にキチンと向き合って下さり、有難いことに存じます。
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