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金光教高田教会、「血脈」を生んだ霊現象
32廃れることのない信心とは
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲  80になっても一人暮らしできるのが有難い
▲ しかし、危機感はつねにある 
▲ 既成宗教の後退は世界的な傾向らしい
○ どんな時代にも廃れることのない信心とは
▲ 我々の信仰の対象は一神教的な神様であるが、金光教祖は多神教的な神様も敬っておられる  
▲ 神様と呼ぶのも仏様と呼ぶのも、人間の側の都合 
▲ 無神論者の言い分を忖度してみると 
▲ どんなに時が経とうと、人は「いのちのもと」に対して祈ることだけはやめることができない
▲ 入りやすく続けやすい信心はこれだ
▲ 信心を始める人の間口を拡げたい 
▲ そんな信心を広めるためにも、真に活気ある教会にしたい
▲ 最近二つのことを重点的に願った
▲ 途端に数字が急激にアップ
▲ 生きた神にすがりてこそ、おかげがある
平成二十九年九月二十二日 奈良県 桜井教会にて
80になっても一人暮らしできるのが有難い
 後期高齢者になったのが、ついこの間のことのように思えるのに、先月とうとう80歳代に足を踏み入れさせてもらいました。
 と言いましても、まだあまりピンときません。確かに体の機能は全てにおいて衰えてはいますが、気持ちの方は、若い頃想像したような、達観した境地にも枯淡の境地にもなっておらず、ただ従来の意識をそのまま引き摺って生きているだけという感じがしています。
 いずれにせよ有難いのは、まだ一人暮らしがさせて頂けることです。そのためには何より健康でなければなならないし、生活の全てのことを自分ひとりで処理できなければなりません。教会の御用の他に、食材の調達、調理、掃除、洗濯等、全てを億劫がらずにこなさねばなりません。その元気をまだ頂いているのが何より有難いです。一時は歩きづらくなったり、突然身体が崩れ落ちる原因不明の発作に見舞われたりしたこともあっただけに、なおさらそう思います。
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しかし、危機感はつねにある
 しかし、このままただダラダラと歳を重ねていくだけでいいのかという危機感はつねにあります。老齢の信者さんが一人また一人と亡くなられて、後が続かず、新しい人も入ってこず、すっかり寂れた状態のまま私もいなくなり、跡を継ぐものもなく教会の門が閉ざされてしまう、というような事態にならぬよう、つねに工夫をこらし、祈りを込める日々なのでありますが、先細りの状況は一向に改善されないのです。
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既成宗教の後退は世界的な傾向らしい
 それはひとえに私自身の不徳非力の故であると言えばそれまでですが、別の視点から見るならば、このお道全体を見渡しましても、その傾向はあり、それはまた、全世界的な傾向でもあるというのです。
 ある宗教学者の調査によりますと、既成の仏教各宗派はおろか、金光教と同時期に生まれた天理教、或いは戦後に大きく発展した新宗教と言われる教団まで、軒並みに大幅に信徒数を減らしつつあり、その傾向は止まることがないというのです。私は一度も見たことがないのですが、某教団の名物の花火も、昔に比べるとずいぶん小規模になったらしいです。
 欧米においても、カトリックもプロテスタントも、共に教会離れする人達が増え続けているといい、逆にイスラム教徒の移民だけが増えて、これはこれでいろいろと軋轢を生んでいます。不安定な移民にとっては、イスラム教が心の支えであり、結束の拠所でもあるのですが、そこからくる習俗が、なかなか現地のやりかたに溶け込めないのであります。その上、よく知られていますように、一部ではあっても、彼らの中から、過激派テロリストが生まれたりするから困るのです。また今では、維持できなくなったキリスト教会が買い取られて、相当数がイスラム教の寺院に転用されるようにもなっているらしいです。
 いずれにしましても、その宗教学者ば、いま例外的に信徒数を増やしている教団も、やがては同じように消滅の方向をたどるものと予測しているのであります。
 その理由として、彼は各宗教の信仰の中味そのものにはあまり深く立ち入ることなく、主として外面的な理由、例えば社会情勢であるとか、教団の集金方法であるとか、教団の年齢構成であるとかで説明しようとしています。
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○ どんな時代にも廃れることのない信心とは
 私はいくら信徒数を減らしているといっても、各宗教がそう簡単に消滅するとは思いませんし、その説明がわが教団に必ずしもそのまま当てはまるとも思いません。それでも、どういう宗教ならこれからも生き残れるのか、世の人々に受け入れられていくのか、或いは、どんな時代にも廃れることのない信心とはどんな信心なのか、というようなことは、これまでにも折に触れ気にかけてはきましたが、これからの残り時間、ますます気にかけていきたいと思っています。
 そこで、どんな時代にも廃れることのない信心とはどのようなものか、信仰の対象と信心に仕方、という二つの面から、考えていることを聴いていただきます。
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我々の信仰の対象は一神教的な神様であるが、金光教祖は多神教的な神様も敬っておられる
 まず、信仰の対象ということについてですが、我々が信仰の対象としている天地金乃神様というのは、いわゆる一神教的な神様であります。単純素朴に一般的な表現を用いるなら、「天地の神様」です。もう一歩踏み込むなら、「天地の親神様」となります。
 天地ある限り、人間からこういう受け止め方をする感性が失われることがないと思いたいです。
 私達が信仰の対象とする一神教的な神様に対して,多神教的な神様というのがあります。日本では、神社などに祀られた神様です。金光教祖様のご信心も、出発点は多神教です。子供の頃から神社仏閣にお参りするのが大好きという変わり者でした。そこから、最終的に一神教に到達されたのでありますが、かといって多神教の神様を否定はしておられません。

 「神様といえば、みな神の位であるから、堂宮の前を通る時には、ご拝をして通れ。その日の悪魔は、その神の威徳で逃れることができる。ほかの神を侮ってはならない。薮荒神でも神の位はある」

と教えておられます。
 また、こういう言い方もなさっています。

「道端の地蔵でも、礼拝して通れ。けっして乗り打ちに(ないがしろに?)してはならない。『金神の氏子は教えがよいから私の前でも拝んで通る』と喜んで、地蔵としての力だけの守りをくれる。薮神でも小神でも、粗末にして無礼をすれば、腹を立てて、出来物でも出す。小神は小神だけの当たりをつける。天地の神に無礼粗末をしては、立ち行かない」

 一神教の教祖で、こういう目配りのできる教えをした教祖は、なかなか 見当たらないのではないかと思います。
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神様と呼ぶのも仏様と呼ぶのも、人間の側の都合
 信仰の対象としては、それ以外にも、仏様という言い方があります。神仏とも言います。神様と仏様の違いは何なのか、専門的な知識はないので、深くは立ち入りません。ただ、ほとんど同じ意味で使われていることもあれば、違う意味に使われていることもあるように思います。
 そして,それらはあくまで人間の側の都合、人間の側の解釈の違いによって使い分けられているに過ぎないのだと思うのです。同じ対象を神様と言ってみたり仏様と言ってみたりしているだけかも知れないのです。
 興味深いことに、金光教祖様の場合、神様の呼び名でさえ、絶対視しておられなかったようです。
 四男萩雄様の伝えに、ご在世中、ご神名についてかれこれ言った者があることに対して、

 「神名はどうでも、おかげは一心にあるのであるから、まあ、わが一代はこのままでよい。また、お前たちの代になったら、何とでもよいようにするがよい」

と言われたとあります。
 ここにも、一つの考えに凝り固まらない教祖様の柔軟性がみてとれます。この柔軟性こそが、このお道を長続きさせ得る重要な要素ではないかと思うのです。
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無神論者の言い分を忖度してみると
 そして、いつの時代にも、何様をも信仰しない無神論者という人達はいるもので、これからますます増えていくのか、それとも案外減っていくのか、どちらとも言えません。科学が発達したからといって、増えるとはかぎらないのです。先ほどの学者も、既成宗教の信者が減ったからといって、無神論者がそれだけ増えたと言っているわけではありません。ただ既成宗教の枠におさまりきれないで浮遊する人が増えただけかも知れないのです。
 また、仏教は無神論だという人がいますが、そうとも言い切れない面もみられます。実際にやっていることは、神様を信じている人とあまり違いがなかったりするのです。
 無神論者の言い分を忖度してみますと、天地宇宙は一定の法則に従ってただ機械的に動いているだけで、天地宇宙そのものに心があるわけではないと言いたいのだろうと思います。心というものは、進化の最先端である人間においてのみ初めて生じてきたもので、天地宇宙そのものを拝んでも意味がないと言いたいのでしょう。私自身も、以前はそう考えていたのであります
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どんなに時が経とうと、人は「いのちのもと」に対して祈ることだけはやめることができない
 それに対して信心する者は、人間は神の分霊(わけみたま)である、すなわち神様から心というものを分け与えられているのだ、と教えられ、そしてこう考えます。
 「我々は物体としての天地宇宙を祈念の対象としているのではない。目に見える一切のものを生み出す,目に見えぬ力、時々刻々生きて働く天地のいのち、或いはそのもと、とも言うべき存在を『神様』と名付け、祈念の対象としているのである」と、
 そしてこうも考えます。
 「その神様は我々の祈りに応えて下さるのである。またそうした『いのちのもと』に呼びかけたり問いかけたり出来ること、それ自体が大きな救いなのである」と。
 したがって、どんなに時が経とうと、文明が進もうと、そして既成宗教が衰えたとしても、人は「いのちのもと」に対して祈ることだけはやめることができないと思うのです。「いのちのもと」に心を向けることをしない人は、糸の切れた凧のように、あてどもなく漂い続けるしかないのであります(いずれ墜落するとまでは喩えませんが)。
 そして、神信心するがよいのか、無神論のままがよいのか、こればかりは実際やってみるしかわからないのであります。
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入りやすく続けやすい信心はこれだ
 次は信心の仕方ということについてです。
 どんな時代にも廃れることのない信心の仕方ということについては、金光教祖の教えの数々の中に,私はその可能性を見ます。
 我々が日頃信心生活を営んでいる信心の仕方から、余分なものを一旦全部そぎ落としてみたら、一体何が残るでしょうか。そういうことについて、むかしから言い続けていることがあります。
 教祖様の説かれたご信心はつきつめると、

 ①  時間と場所と施設を問わず、いつでもどこでもできる信心
 ②  連れのいらぬ、一人でもできる信心
 ③  金も物もいらぬ,素手でできる信心
 ④  特定の儀式儀礼にこだわらぬ,形にとらわれぬ信心

というようなことになるのではないかと、時々思い出したように主張してきました。
 その根拠となる教えを1,2挙げるとしますと、
 ① の「いつでもどこでもできる信心」につきましては

 「神様は目にこそ見えないが、そこら辺りいっぱいにおられるので、神様の中を分けて通っているようなものである。…願うのは壁を当てに頼んでもよい」
とか
 「たとえ畑で肥をかけていても、道を歩いていても、天地の神の広前は世界中である」

というのがあり
 ② の「一人でもできる信心」につきましては

「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ」

などと、たびたび仰せになっています。もちろん、連帯ということも大切ではあるのですが、その前にまず一人一人が自立せよということなのです。
 ③ の素手でできる信心ということについては、布教に当たってつねに「神を商法にする」ことを厳しく戒められました。

 「金がなければ信心できないとなれば、貧乏人は、みな死ななければならない。私の方には乞食が参って、お供えする物がないと言っても、ご神米を下げるのである」
などと言われ、参ってくる人に対しても、
 「幾百万の金も、おかげの元手にはならざるものぞ」
 「お供え物とおかげは、相つきものにはあらず」

などと教えられて、「食い余り」の中からの真心からのお供えのみを受け取ろうとされました。現在も、各教会ではその方針が守られているはずなのですが、実際は、「金光教の信心をするとお金がかかる」とこぼす人もいると聞いたことがあります。特に大きな教会に関わりを持つ人の中に、そう考える人がいるようです。
 この問題はとても複雑で、短時間では言い尽くせませんので、また別の機会に取り上げるとしまして、でも大丈夫、教祖の精神はまだまだ生きているとだけ言っておきます。
 ④ の「形にとらわれぬ信心」ということでは、

 「忙しい時には、ゆっくりと拝んでいることはできない。さあ降りだしたという時に、ゆっくり拝んでいては、干してある稲や麦がぬれてしまう。忙しい時には、今日は、こうこうでございますからと申して仕事に出て、麦を刈りながらでも肥をかけながらでも、清浄な心で拝めば、それで神様はお受け取りくださる」
とか、
 「百姓の忙しい時など、女にいたるまで足を汚しておるので、ご飯を神へあげませねばと思い、よだって(大儀がって)あげるのでは、神は喜ばぬ。それよりも、釜の内で少しかき寄せて、神様と言うて拝んで、それをいただけい。それを喜ぶ」

などの教えがあります。
 こういう信心が、いつの時代でもいちばん入りやすく続けやすいのではないかと思うのであります。これならば、誰でもがすぐその場からでも始められるような気がするのです。
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信心を始める人の間口を拡げたい
  これからの残り時間は、信心を始める人の間口を拡げるために、もっとこのことを強調していこうかと思うのです。はじめから教会へ参れとも、組織に加われとも言いません。まず出来ることから始めてみてはどうかと言いたいのです。壁を目当てに拝む信心を奨励するのも,その出来ることの第一歩だからです。
  一人でも多くの人に、まずは、心の底から真剣に願わずにおれぬことを、ありのままに願い続けてみてほしいのであります。すると、いずれ必ず何らかの手応えがあります。そうなると、なお一層知りたいことも出てきます。仲間もほしくなります。或いは、自分一人では背負いきれない問題も出てくるかもしれません。教会へ来るのは、そうなってからでもいいではないかと思います。それでもまだ来たくないなら、それはそれでいいのです。
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そんな信心を広めるためにも、真に活気ある教会にしたい
 しかし、そういう信心をひろめていくにも、まだまだ教会はあった方がよいようです。そこで御用する私のような者でも少しは頼ってほしいし、逆に扶けてもほしいのです。何故なら、教会は私一人では維持できません。参って来る人がいて、はじめて存続し得るのですから。
 その点、今も少数ながら参ってくる人たちがいてくれることをこの上なく有難く思います。その人たちに寂しい思いをさせないためにも、もっと活気に満ちた教会にしたいと切に願わずにおれません。
 しかし、私が求める活気とは、単に人数が増えるとか、大声で拝詞をあげる人がいるというようなことではありません。物静かではあっても、ほんとうに真剣に神様を求め、神様に心を向けながら、自分自身とも向き合おうとする人が、たとえ一人でも二人でも増えてくれるなら、それが本当の活気になっていくのだと思うのであります。
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最近二つのことを重点的に願った
 そういう人が入ってきてくれる一つの入り口として、ホームページを設けているのですが、近頃はパソコンを使う人が減ったせいか、訪問者数も減少気味で、それでも1日50件前後のアクセス数はあります。しかし、それでわざわざ訪ねてきてくれる人はおろか、メールをくれたりする人さえ、ごく希なのです。
 それでも、今はそこに希望を託すしかないので、ごく最近、どうか、このホームページが、真に私を理解し支持し必要としてくれる人達の目にとまりますように、と重点的にお願いするようになりました。
 別に私の考えと合う人でなくても、誰が読んでくれても、入ってきてくれてもいいのですが、ホームページそのものが、一応私の考えを中心に構成されているので、勢いそれに共感してくれる人の方が入りやすい、ということはあると思います。
 それが教会の私物化とならぬよう、どんな考えの人でも受け入れる心の用意はあるものの、自分の教導能力ということを考えた場合、なるべくそれの及ぶ範囲の人をと考えるのも、許されていいかなと思い、そういう願い方をしたのであります
 また、今日のここでの話をまとめる課程で、こうも一生懸命お願いしました。桜井教会でさせて頂く話が、元気の出る話で締めくくれますよう、その材料をお授け下さい、と…。
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途端に数字が急激にアップ
 そういたしますと、今月に入って、訪問者数が急激にアップしだしました。先月の1日の平均が44.5人であったのに対して、今月は20日までの平均が、1日ちょうど63人に伸びたのであります。この調子でいくと、今月は1800人を超えることになります。そんなことは、過去1年間1度もなかったことです。ちなみに、昨年の9月は1日平均55.3人、合計で1658人でした。(註参照)
 変な言い方になるかもしれませんが、その原因は、一生懸命お願いしたから、という以外には考えられないのであります。
 このことで改めて、時々刻々に生きて働いて下さる神様のお働きということを実感できて、まさに元気をいただくことができました。せっかくのおかげがあだ花にならぬよう、更によい実を結んでくれるよう、引き続き願い続けたいと思っています。

 (註) 最終的に9月のアクセス数は2030、1日平均67.7でした。以前はもっと多い月もありましたが、2千を超えたのは3年半ぶりです
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生きた神にすがりてこそ、おかげがある
 我々は普通1+1=2の世界に生きています。そのこと自体がまず奇跡です。森羅万象、奇跡の真っ只中に生かされているのであります。それをつい当たり前だと思いがちですが、信心する者は、そのことにまず感謝しなければなりません。
 その上で信心さしてもらえば、1+1が3にも4にもなる世界が開けるのです。奇跡の上にさらなる奇跡を授けて頂けるので、二重に有難いのです。しかも、それを不思議だと言ってはならない、不思議でもなんでもないのだと言われるのであります。

 「生きた神にすがりてこそ、おかげがあるぞ」
 「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし」

と言われる生きた神様を、時々刻々に戴き続けさえすれば、人類は何の心配もなく存続していけるのであります。そういう信心をさせてもらっているのだという自信と誇りをもって、お互いこれからもしっかりと続けさせていただきたいと存じます。

 追記
 神様にお願いしてアクセス数が一気に増えたということだけでも、確かに有難いことにはちがいないのですが、もう一歩、画竜点睛を欠くというか、直接の反響が一つでもあれば、尚のこと嬉しいのにと思っていました。
 この話を文書化して配布するにあたって、ぜひそのおかげも頂きたいと願い続けていましたら、もうこれ以上待てないというギリギリの時になって、シンガポール在住の日本人男性から一通のメールが届きました。
 なんとその内容が、今回も主張させて頂いた「教祖の信心をつきつめた4つの特徴」という説に賛同の意を表して下さるものでした。ちょうど6年前に、「次世代に手渡したい信心」という話の中でも、同じ説を述べていたのを読んで、メールをくださったというわけです。

 この事実を追記として報告させて頂けることを、心底有難く思います。
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談話室より
 S.Yさん(女 92歳)H.29.10月、
 教話の冊子、いつも乍ら有難く読ませて頂きました。
 九十八才の御友達(信友)がケアハウスに入られて信心の話をする機会が少なく、私の所に時々電話を呉れて問題を投げかけて呉れます。今回の内容がその人の問いにぴったりと思い、早速ホームに送らせて頂きました。
 有難うございました。
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