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金光教高田教会、「血脈」を生んだ霊現象
34 改めて死生の安心を問う
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 左右両派と親しくさせてもらっている
▲  左派のTさんから死生観を問われた 
▲ 死に対する恐怖心の克服が安心の第一歩
▲ 神も霊魂も信じないと言う人は信用出来ない
▲ 当時の教えだけで霊様を信じるのは困難であった 
▲ 外からの知識も動員して、やっと信じる気になれた 
▲ 「再生」の話にも関心を持った 
▲ 一度きりの人生が、やり直しのきく人生に
▲ 先師の教えの中にもそれがあった
▲ 新教典には、転生を前提にした教えがいろいろ
▲ 南紀教会西沢師が転生説に基づいた本を出された
▲ 本当は、「やり直さねばならうぬ」人生 
○ 余談
平成三十年九月二十二日 奈良県 桜井教会にて
左右両派と親しくさせてもらっている
 私の話を文書化したものを毎回送らせてもらっている数少ない友人知人の一人に、幼稚園と高校で一緒であった同級生のTさんがおられます。
 信者さんではないのですが、ずいぶん昔、ある信者さんの仲介であることで御祈念を頼まれた、というご縁でつながってきたのです。名門女子大卒、もう亡くなられたご亭主共々、ある左翼政党の党員で、向こうからも党機関誌の日曜版を時々送って下さいます。
 左派と言えば、もうお一人、れっきとしたお道の信者さんで、教団会の信徒議員までされたYさんがおられます。私の著書を読んで便りを下さり、訪ねて来ても下さったご縁でお付き合いが続いていますが、この方も、亡くなられたご亭主共々、その政党の党員だとのことでした。もう90歳を超えておられます。
 もちろん右派と目される方々とのお付き合いも深いので、どちらにもよい顔をする八方美人かというと、そうでもありません。政治的主張はわりあいはっきりとしていて,どちらかといえば右寄りと見なされ勝ち(自分では真ん中のつもりでも)なのでありますが、それでも左派の方々は付き合い続けてくださるのです。
 それはこのお道の信心そのものに、そうならせて下さる何かがあるおかげであろうと私は思っております。実際、教団を構成する教師信徒の人々の政治的立場は、多分保守系が主流ではあろうとは思いますけれど、右から左まで全部欠けることなく揃っているのであります。どちらかというと関東の方に左派の人が多いとは聞いていますが、この関西でも、あくまで是々非々で、時によっては、今言った左派政党に投票した、と言われた教会長を二人お見かけしました。お道のこうした自由な言論環境は、巨視的に見た場合、保守系の人にとっても、とても望ましい有難い環境なのではないかと思います。
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左派のTさんから死生観を問われた
 前置きはこれくらいにしておくとしまして、そのTさんから、昨年暮、年賀状欠礼の挨拶状が届き、文面には娘さんを亡くされたとありました。
 すぐにでも電話してお悔やみを言うということができず、今年の春の文書を送る際に、ようやくお悔み状を添えて送りました。
 するとまた数ヶ月して、一周忌を終えてもなお癒えぬ悲痛な心境が縷々綴られた手紙が届きました。更に、私がどのような死生観をもって生きているのかを問われ、近くの教会にでも来た折、ぜひ立ち寄ってほしいとも書いてありました。体も弱っておられるようだし、これは猛暑がおさまったら一度直接会いに行くしかないなあと思いました。
 同時に、ここでさせて頂く話の準備に取りかからねばならぬ時期にもなりましたので、今回はどのような話をさせて頂けばよいのかを神様に問い続け、よい材料を授けて下さいと願い続けたのですが、しばらくは何も思い浮かばず、コレと思う材料になるような出来事も起きませんでした。
 話のテーマと彼女の手紙の問いかけとが結びつくようになったのは、ようやく八月も末頃になってからでした。なんだ、立派な課題が既に与えられているではないか、そういえば死生観については、しばらく話をしていないなあ、十二、三年前、佐藤愛子さんの「血脈」という小説を題材にして話をさせてもらって以来のことだ、と思い至ったのです。
 その「『血脈』を生んだ霊現象」という話を、十年前ホームページに掲載させてもらったところ、以来どういうわけか毎月のアクセス数が大抵一位かそれに近い順位を占め続けているのであります。
 その当時はそれをTさんにも送ったはずですが、もう内容を忘れてしまっておられるでしょうし、この場で聴いて下さった方々も同様だろうと思います。或いは,顔ぶれもだいぶ入れ替わっておられると思います。
 そこで今回は、改めて自分の死生観を問い直してみようと思い立ちました。
 宗教というものの大きな役割の一つに「死生の安心を与える」ということがあります。そしてどのような死生観を持ち得るかということが、死生の安心と深く関わってくるのですが、この道では、「生きても死にても天と地はわが住みかと思えよ」などのように、一応それに対応する教えはあるものの、
 あまり細かいことまでは教えられておらず、どこまでの安心を求めるかは、個人の資質に委ねられてしまっているところがあるように思うのです。
 そういう少ない手がかりの中で、外からの情報も取り入れながら、私なりに築いてきた死生観について聴いていただこうというわけです。
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死に対する恐怖心の克服が安心の第一歩
 まず、安心を得る第一歩としましては、死に対する恐怖心がどこまで克服できるかということがあります。
 ある時新聞の人生相談の欄に、死ぬのが怖くて仕方がないという二十三歳の女性の投稿が載りました。子供の頃から死に対する恐怖心が強く、いい大人になっても、ふとした瞬間、残り時間のはかなさを考えると恐怖と絶望に襲われ、いてもたってもいられなくなるというのです。
 こういう悩みは、人生相談ある限り、半永久的に蒸し返され続ける定番の悩みであろうと思われます。この場合の回答者であった渡辺えりという女優さんは、要するに、自分なら仕事に打ち込むことで死を忘れ、全ての人が天寿まで生きられるよう戦争に反対し続ける、というふうに答えています。
 いかにも無神論的なリベラルであるらしい人の言いそうな答えでありますが、しかし、この女性が訴えている恐怖は、生命が物理的に脅かされるという意味の恐怖ではなく、もっと根本的な、たとえ長寿を全うできたとしても、人間に根強くつきまとう恐怖心なのです。それは自分という存在が無に帰してしまうのではないかということに対する恐怖心です。それは結局、人間の魂は死後も存在し続けるか否か、それを信じるか信じないかという問題に行き着きます。
 そしてそれは神を信じるか信じないかという問題とセットになっている場合が多いように思いますが、今の日本の指導層の人々のものの考え方は、神も霊魂も信じないというのが主流で、我々は日々、いやでもそういう人達の影響を受けつつ生きていくしかないのであります。
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神も霊魂も信じないと言う人は信用出来ない
 神も霊魂も信じない、死ねば死にきり、あとは無に帰するのみ、それでも平気、という人は意外と多いかも知れません。大方の人は、人生相談に出てくるような女性程には悩まないのかもしれないのです。
 私自身も、一時は、死ねば死にきりの方がむしろ後腐れがなくていいと思っていました。死んでもまだ続きがあって、生前の行いが審査の対象になったりしてはかなわんなあと思いました。
 同時に神様も信じていなかったので、自身の内面までも支配する倫理道徳というものも信じていませんでした。「道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである」という芥川龍之介の言葉に、心から共感を覚えていました。『左側通行』ということは、単なる約束事に過ぎないということです。
 要するに、生きている間さえよい目ができればそれでよい、蔭で何をしていても、バレさえしなければそれでよい、上辺だけ取り繕えればそれでよい、と考えていたわけです。
 そういう私自身の心的経験や、他の人々の意見からも類推して、私は、神も霊魂も信じないと公言する人は、蔭では何を考え何をしているかわからぬ、信用出来ぬ人であると決めつけても、ほぼ間違いないと思っています。
 つまり、例えば渡辺えりさんがもしも神も霊魂も信じないと言う人なら、いくら「戦争に反対し続ける」などと殊勝なことを言っていても、蔭では何を考え何をしているかわからぬ人だ(信じていてさえいい加減なんだから)、と決めつけてもいいということなのです。ついでながら、ただ単に「戦争に反対し続ける」というだけでは、立派なことでも正しいことでもない、ということも言いたいのですが、それはまた別の問題です。
 神様が信じられるかどうか、ということも今回は横に置くとしまして、死後も人間の魂は生き続けるのかどうか、ということに話の的を絞ることにします。そのことが信じられさえすれば、投書の女性の悩みや恐怖も、一応は解消するわけでありますから…。
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当時の教えだけで霊様を信じるのは困難であった
 と言いましても私の場合、神様を信じるようになったと言うか、信じようとするようになったのは、今から六十年ほど前のことでありますが、その時期と、霊魂の不滅というか、霊魂の実在を信じようとするようになった時期とは、ほぼ同時進行であったように思います。
 と言いますのも、この道の教えそのものが、霊様を大切にするように説かれていますし、教会で実際に行われている霊祭というのは、霊魂不滅ということを当然の前提として営まれているものだからです。
 しかし、当時教典とされていた教えや、流通していた教説だけで、霊魂の存在を信じられるようになるのは、とても困難なことでありました。
 これが多少なりとも霊能や霊感のある人なら、信じるのが容易かも知れません。程度の差はあっても、世にはかなり高い比率でそういう人たちがいるらしいのです。お道の先生方(特に女性)の中にも時々そういう方がおられます。
 男性でも、前回紹介したシンガポールのSさんは、子供の頃、古い暗い借家に住んでおられて(もちろん日本での話です)、よく台所や階段の傍で幽霊を見かけられたとのことです。家を変わってからは見ることはなくなられましたが、もとの家は後に火事で焼け落ちてしまったそうです。
 漫才コンビ「メッセンジャー」のあいはらさんは、旅館などに泊まった時、部屋に霊が取り憑いていると、その気配がすぐわかるとラジオで話しておられました。
 幸か不幸か、私にはそんな能力が全く欠けていまして、これまで幽霊を見たことも、その気配を感じたこともありません。霊様に向かう気持ちが、神様に向かうときほど真剣になれたことがない、ということもあるかもしれませんが…。
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外からの知識も動員して、やっと信じる気になれた
 したがいましてその当時も、ただ知識だけに頼って判断するしかなかったのであります。その頃から心霊研究や心霊現象に関する本や記事が、ぼつぼつ目につくようになりました。心霊学の研究家でもあった作家の長田幹彦の本や、「大法輪」という仏教雑誌に載ったそういう特集記事などを読んだ記憶があります。
 そうした外からの知識をも動員することで、やっと霊魂の不滅を信じる気になった、と言うよりも、まず思い至りましたことは、どうやらまだ続きがあると考えた方が無難かもしれないなあ、死ねば死にきりなら、蔭で罪を犯しても死ねばチャラになるかもしれないが、そうは問屋が卸さないかもしれないぞ、ということでありました。
 薄っぺらな考え方ではありますが、それらの知識が悪行の抑止力となり、少しは善い行いを心がけるもとになったのであれば、決して無駄ではなかったと思っています。それ以来今に至るまで、知識だけで本当は何もわかっていないのかもしれないけれど、その知識のおかげで、それなりの「死生の安心」を得させてもらっていることもまた否定できないのであります。
 そしてその頃はまだ、自分にとっての死後の世界は、そのまま直線的に続いていくものと思っていました。教団の人々もその考え方を疑っていませんでしたし、今もその考え方が主流だろうと思います。
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「再生」の話にも関心を持った
  転機が訪れたのは、三十歳の頃であったと思います。金光図書館で、日本心霊科学協会というところから出ている「霊魂の世界―心霊科学入門」という本を見つけました。霊魂を科学的に研究するという、普通の学会からはいかにも白眼視されそうな、しかもちょっと安っぽい作りの本でしたが、心霊研究に関する全般的な知識が網羅されていて、結構参考になりました。
  とりわけ関心を持ったのが、「再生」の章でした。生まれ変わりということを扱った章です。中でも印象の深かったのが「勝五郎の再生」の話でありました。
 再生の事例は、現代においても世界中で次々と報告されていますが、我が国ではいまだにこの古い話が典型例として珍重され、小泉八雲によって、海外にまで広められたらしいのです。そして今では、ネットで検索すれば、容易にその詳しい内容を知ることが出来ます。そこから最も簡単に要約したものを紹介してみましょう(カッコ内の注は、元からあったものと、私がつけ加えたものが混ざっています。またホームページに転載するにあたって、サイト運営主である「日野市郷土資料館内勝五郎調査団」の了解も頂きました)。

 (1)文政5年(1823年)11月、中野村(現在の東京都八王子市東中野)に住む8歳の勝五郎(小谷田姓)が、兄と姉に、自分の前世は、程久保村(ほどくぼむら:現在の東京都日野市程久保)の藤蔵(とうぞう:須崎姓)で、6歳の時に疱瘡(ほうそう:天然痘)で亡くなったと語りました。
 (2)勝五郎の話は、やがて父や母の知るところとなり、12月、勝五郎は生まれ変わりの顛末を以下のように、父母に詳しく語ったのです。藤蔵が死んだとき、魂が身体から抜け出して家に帰ったが、誰も気づかなかった。→白い髭に黒い着物を着たおじいさんに導かれ、あの世に行った。→三年たったから生まれ変わるのだと言われて(普通はそんなに早くないようですが)中野村の柿の木のある家に連れて行かれた。→竈の蔭に隠れていると、父母が相談をしていた。それは、家計を助けるために母が江戸へ奉公に行くというものだった。→藤蔵の魂は母の胎内に入り、文化12年(1815年:金光教祖生誕の翌年)10月10日に勝五郎として生まれた。(柿の木は、あの世とこの世の境にある木だといわれている)
 (3)勝五郎の生まれ変わりの話は、両親にとっては信じがたいものでしたが、母が江戸に奉公に行く相談をしていたという話は、両親以外の人は知らないことだったので、両親は勝五郎の語ることは本当かもしれないと思うようになりました。程久保村のことを知っている人に聞いてみると、藤蔵の家は実在し、疱瘡で亡くなった子どもがいることもわかりました。勝五郎の生まれ変わりのうわさが広まり、「ほどくぼ小僧」というあだ名がついて見物に来る人もいたので、勝五郎はとても嫌がりました。文政6年(1824年)1月20日、勝五郎とおばあさんは程久保村の藤蔵の家を訪ねることにしました。勝五郎は行ったことがないはずの程久保村の事をよく知っていて、祖母を藤蔵の家に案内しました。
 (4)藤蔵の家では、母しずと義父の半四郎がいて、勝五郎が藤蔵によく似ているといって喜びました。勝五郎は、初めてきたはずの家の中の事もよく知っていて、向かいの「たばこや」(屋号)の木は以前はなかったなどといって、みんなを驚かせました。(藤蔵の屋敷は、今も同じ場所にあります)藤蔵と勝五郎の家は、その後親類のように行き来するようになり、勝五郎は実父久兵衛の墓参りもしました。
 (5)2月のある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)という大名(鳥取藩の支藩の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました。3月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつうらせいざん:テレビの時代劇にたまに登場するスゴイ人)や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には、文政5年11月、藤蔵と同じ6歳で疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました。
 (6)4月、中野村の領主で旗本の多門伝八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は、4月19日に源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました。
 (7)多門伝八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね:今でも超有名人)のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして、4月22日に、源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎(いぶきのや)へ来た勝五郎から直接話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは、4月22・23・25日の3日間でした。
 (8)6月、篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて、『勝五郎再生記聞(かつごろうさいせいきぶん)』をまとめ、7月22日からの上洛に持参、光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです。
 (9)文政8年8月26日、勝五郎は気吹舎の門人になり、およそ1年ほど気吹舎にいたといわれていますが、その後の消息ははっきりしません。
 (10)勝五郎は、中野村に帰ってきてからは、普通の人と変わらない生活をし、農業の傍ら家業である目籠の仲買を行ない、裕福な生活をしていたと伝えられています。明治2年(1869年)12月4日、55歳で亡くなりました。
 (11)明治30年に、小泉八雲が、随想集『仏の畠の落ち穂』のなかに、「勝五郎の転生」を書いたので、勝五郎の生まれ変わりは、海外の人にも認知される事例となりました。
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一度きりの人生が、やり直しのきく人生に
 もっと詳しく面白いものを読みたければ「勝五郎生まれ変わり物語」で検索してみるとよいです。「勝五郎」で検索するだけでも、色々と出てきます。
 ここで見逃してはならないと思いますのは、当時(文化文政の頃)の人々の、そういう超常現象に対してみせた敏感で柔軟な反応と、対応の早さです。本人がそのことを最初に口にしてわずか一年足らずの間に、その話が江戸から京にまで伝わったのです。黒船以前に既に蓄えられ、明治維新をもたらした日本人の知的活力のようなものが、そこにもはっきりと示されているように私は思います。その頂点にいた人達の一人であった平田篤胤が、何の偏見も持たずに、聴いたままをきちんと書き残そうとしたたことで、この話は今に至るも第一級の資料たり得ているのであります。
 私がこの話に衝撃を受けましたのは、もしもこういう話が真実だとするならば、死ねば死にきり派から霊魂不滅派に転向する以上の、死生観の切り替えが必要かもしれぬからです。つまり、一度きりの人生だと信じ込んでいたのが、そうではなくて、あの世とこの世を何度も往き来させられる人生なのだと、考えを改めなければならなくなるからであります。
 しかし、いったんその考えを受け入れるならば、すっきりと説明のつくことも多く、ほんとうの生きがいが生まれそうな気もしたのです。
 何故なら、自分が今あるのは、全ての過去世からの行いの積み重ねの結果であり、この世での行いもまた、先の世までも持ち越されていく、というのですから、どんなに悪い運命でも、気付いた時点から前向きに生きる努力をするならば、その努力はいずれ必ず報われるということを意味するからであります。言わば、やり直しのきく人生ということになります。しかも、それを信じたからといって、失うものは何もなく、一番よい生き方を心がける励みになるだけなのです。
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先師の教えの中にもそれがあった
 そして、この道の先師の教えの中にも、それ以前から気になっていたものがありました。それは玉水教会初代湯川安太郎師の信話集の第四集の中の話でした。
 信者時代から神徳家であられた師は、幾人ものお子様を亡くされ,商売も欠損が続くたびに、神様から、先祖のめぐりを取り払うためであると教えて頂かれました。「有難うございます」と、その都度お礼を言っておられましたが、あまりに度重なるのでとうとう我慢ができなくなり、どのような罪によるものなのかと、しつこく食い下がって問い詰められました。そしてようやく教えてもらわれたのが、四代前にこれこれの罪を犯したので、子孫二十代苦難が続くとのことでありました。
 「わかりました。四代前といいますと、ひいおじいさんの代でございますね」ということでお詫びを申されると、「いや違う」と言われる。「それでは、もう一代前の先祖でございますか」と問い返されると、「いや違う。それはおまえ自身である。おまえ自身の生き代り死に代り四代前じゃ」、とお答えになった、という話が出てくるのです。
こういう話は、転生説に立ってはじめて腑に落ちるのであります。
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新教典には、転生を前提にした教えがいろいろ
 そんなこんなで、私自身はけっこう輪廻転生説にはまってしまったのでありますが、教祖様は転生ということはあまり積極的に説こうとはなさりませんでした。

 「『先の世のことは知るまい』と言って、神様が三日の間、先の世のことばかり教えられた。こういうことはめったに話さない。話しても、真に受ける者もあるし、受けない者もあるから」

というふうに、極めて慎重であられました。それでも肝心なところは伏せたままで、「めぐり」ということだけはお説きになったので、後の者たちは、「めぐり」ということについて、非常に抽象的な受け止め方をしたり、ほとんどの人は、先祖というのが自分自身も含むとまでは思い至っていません。
 実際以前は,そんな輪廻転生に絡めて信心を考えるなどということは邪道である、地に足が着いていないと思われそうな雰囲気がありました。
 新教典が出てからも、直接転生を説く教えは見当たりませんが、転生を前提としなければ解釈のつかないような教えがいろいろと出てきましたので、話題にはし易くなったと思います。それでも、まだまだ指導的な立場の人々の基本的な考えは変わっていないと思うのです。教祖様の「先の世」についての今のようなお言葉自体も、新教典になってはじめて明るみに出たものであります。
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南紀教会西沢師が転生説に基づいた本を出された
 しかし、私と同じ考えの人もたまにはおられるもので、と言うより、私など及びもつかぬ霊能と霊体験をお持ちになり、御神徳も備えられた,南紀教会の西沢真淵師が、新教典刊行に先立つ五年前、昭和五十三年に「霊の真理研究」という、公然と輪廻転生説に基づいた本を出されました。それで私も、教区の信徒研修講座では、安心してというか、思い切ってその説に立つ死生観を披露する試みができたのです。
 西沢師はその本の中で、湯川師の話を裏付けるかのように、人間は主として自分の子孫の中に飛び石伝いに生まれかわるという考え方をしておられます。先の「霊魂の世界」でもそうした事例がいろいろ紹介されていますが、もちろん例外も多いようです。
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本当は、「やり直さねばならうぬ」人生
 私が本教内で見つけさせてもらった、転生を暗示するもう一つの重要な手がかりは、奥平野教会初代の片島せんという高徳の先生のご伝記の中の次の言葉でありました。

 「この世は苦の土、苦の世界、あればあり、無ければ無うて苦労する。この世で徳を積んでおけば、神に祀られる。お前には沢山取次をさせておいた故に、今度は人間に生れずに神の傍に置いてやると教えて下さる」

 知識が無いとうっかり見過ごしてしまうか、言葉のアヤ程度にしか受け止められぬかもしれないのですが、この短い言葉の中に、重要な意味がいくつか込められていると私は思うのです。
 まず「この世は苦の土、苦の世界」ということについて、教祖様はこういう言い方をなさっています。これも新教典で出てきたお言葉です。

 「人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである。生まれたといったら、その時に悔やみを言いに行ってもよい。それくらいのものである。どういう災難があるとか、こういう不幸せがあるとかいうことは、決まっているのである。神様はよくご承知なのである」

 また現代の霊能者である江原啓之さんと佐藤愛子さんとの対談を読んだ中でとても印象深かったのが、霊様たちからすれば、こちらの方がむしろ「死後の世界」なのだという言葉でありました。
 我々はともすると死後の世界というものをとても暗い恐ろしいイメージでとらえて、死を極端に忌み嫌いますが、霊様たちは、これから生まれ変わっていく霊魂をこの世に送り出すときには、今からつらいつらい修行が始まるのだということで、泣きの涙で送り出すのだそうです。この点まさに教祖様の教えとぴったり符合します。そして死んで戻ってきたときには、ご苦労様でしたと、にこにこ顔で出迎えるそうなのであります。
 この世が苦の世界で、「生れるときに証文を書いてきているようなものである」ということは、言い換えれば、必ず何らかの課題を与えられて生れてくるということです。そのための苦労であり、運命なのです。やり直しのきく人生というのは、本当は、やり直さねばならぬ人生なのです。しかし、ちゃんと救いも用意されていて、先ほどの教祖様の言葉の続きは「信心を強くすれば、大厄は小厄にしてくださり、小厄はお取り払いくださるのである。それが、おくり合わせをいただくということである」となっています。
 また、それほどの「苦の世界」ではありましても、同時に色々な楽しみも用意されていますので、我々は何とか耐えていくことができるのです。この世の生に執着する気にさえならされているのであります。
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徳を頂くことが死生の安心に通じる
 そして、片島せん師の言葉の後半の部分、「この世で徳を積んでおけば、神に祀られる。…今度は人間に生れずに神の傍に置いてやる」は、人間は霊的にある程度の水準に達すれば、もう生まれ変わらなくてもよく、それが可能になるのは「徳」だということが、示されているのです。そこを教祖様も

 「先の世まで持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳である。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。神徳は尽きることがない」

と教えておられます。
 そのお徳、神徳人(にん)徳を頂くことを目指すことが、まさに我々信奉者の誰でもが授かることのできる「死生の安心」なのであります。私自身の死生観そのものは、今も昔と比べてほとんど進歩していません。そして、実際どれだけの安心が得られているかという、安心の程度は、どれだけお徳が頂けたかということにかかっていると思うのです。
 いまだにお徳が頂けているとは到底思えませんが、そういう生き死にについての見通しを持った上で、あせらず背伸びせず、あくまでお礼を土台に、おあてがいのままに生きさせて頂けるなら、それこそが私に授けられた救いであり、幸せなのだと思っています。
 ひとまず終わらせていただきますが、文書化してホームページに載せる際、もう少し補足させて頂きますので、関心のある方はお読みください。
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余談
 西沢真淵師はとうの昔に亡くなられましたが、一度だけ、或る年の本部大祭の折、既に八十を超えておられた師と結崎山で出会い、同方向に歩きながら言葉を交わした思い出があります。
 師の著書にも、参考文献として「霊魂の世界」の名が挙がっています。発行元である日本心霊科学協会の起源は、大正十二年(1923年)、関東大震災の年に、浅野和三郎という著名な英文学者が創設した心霊科学研究会で、既に百年近い歴史があります。
 当時、コナン・ドイルらにより盛んに行なわれていた欧米の心霊研究を、日本にも取り入れようとするところからはじまったようですが、それ以来、後藤新平、柳原白蓮、土井晩翠、豊島与志雄などと言った著名人達も関わりをもつようになりました。その人達の多くの主たる入会の動機は、自分の子供に先立たれたことだったようです。数年前亡くなった文芸批評家の松本健一氏が、浅野和三郎の評伝を書いた中で、そのことを指摘しています。
 日本心霊科学協会と名称が改められたのは戦後のことで、今も活動は続いているようです。ホームページも、部分的にほぼ毎日更新されています。
 「霊魂の世界」が初めて出版されたのは昭和四十二年(1967年)のことで、昭和四十九年にも別の出版社から「心霊科学入門」という書名で再版されています。金光図書館にあったのは前者、私が後に買い求めたのは後者です。著者は板谷松樹と宮沢虎雄との共著となっています。
 宮沢虎雄という人は、協会の理事という肩書きですが、明治九年(1876年)生れで、研究会発足時からの中心メンバーの一人でした。
 板谷松樹という人は、四十九年版では協会理事長という肩書きですが、ずっと若くて、それでも明治四十年(1907年)生れで、工学博士。これがなんと、テレビの「鑑定団」でいつも高値のつく陶芸家、板谷波山(いたやはざん)の子息であったことを最近知りました。
 昭和五十七年に亡くなったという新聞の死亡欄の切り抜きを、所持する本に貼り付けていますが、心霊科学協会のことには触れてなくて、「終戦直後にサインカーブ歯車ポンプという汎用油圧発生装置を発明した」とだけ書いてあります。ご本人も、板谷樹(たつ)という筆名とも偽名ともとれる名前を、著者名として使っていました。この本はとっくに絶版にはなっているけれど、古書としては、まだけっこう売買されているようです。
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談話室
 H.Kさん(男 教会長の孫 29歳)H30.10月

 余談も含めておもしろかった!


 M.O2さん(男 教会長の弟 77歳) H30.10月

 この世には「人智を越えた何かがある」と考えられる。宇宙エネルギーで、吾らが知覚できるのは其の5%に過ぎないとのことである。
 霊については、今ある人間だけでも70億の生き霊、最初はどうして生まれたのか、増え続けるのか、霊にも死があるのか不明である。

 例1
 北本に暮らしていた頃、ある日曜日の朝、駅前のパチンコ店に呼ばれる気分で目覚めた。10時前であった。ふらふらっと自転車に乗り、駅前のパチンコ屋へ、開店直前であった。開店に伴い入店、手には百円硬貨一枚のみ、玉12個と交換して、10年近いブランクで最新の機械に戸惑いながら1台目、玉は増えも減りもせず、これじゃない2台目、やや増加、これでもない3台目、急にじゃんじゃん玉が出だして、10分程で打ち止め、山の様な土産と現金で合計6千円相当、15分間の稼ぎ、「守護霊の悪戯」としか言いようのない出来事であった。
 後日談:欲が出て、その後は呼ばれもしないのに通うこと数回、忽ちすってんてん、あの日稼いだ分を結局摩ってしまった。
 
 例2
 20代の頃、結婚を決めた。何かが猛反対した。男が一度口にしたことを止められるか!・・これでもかこれでもかと妨害があった。それでも強引に進めようとしたら、とうとう仕事中に火災を起こして大やけど入院した。式の一ヵ月前であった。入院してふと見ると、ベッドの足元で、亡き父親や事故死した2人の兄たちが「止めろ!止めろ!」と騒いでいる気配がした。それでも強引に挙式して、何とインポになった。これには遂に降参。破談に至った。次の結婚の時には妨害が全く無かった。むしろ後で聞くと、色々な危機を無意識にかわしていたことが判った。ほんの僅かの行き違いで成立していなかった。2人の守護霊が結託して結婚へと仕向けたとしか考えられない。


 M.Oさん(男 教会長の兄 85歳) H.30.10月

 いつも思うけど、今回もよくもこんなに死生観を掘り下げて考えるなと感心するばかりだ。
 そしてO家の系統に生まれて奇跡の様に信仰心厚い角埜の血を継ぎ角埜に旨く養子にはまって活躍しているなんて、神のお導き以外にないとつくづく思うね。
 安っさん以外誰も宗教心なく神信心してないしその能力も無いし、養子に行ったのが“安っさん”でよかったよ。


 教会長より

 珍しく私の孫、弟、兄のそろい踏みです。
 弟の飾らぬ感想に、敢えて掲載許可を求めたのは私ですが、その後、立派な男子2人を得たことだけは、弟の「名誉」のためにつけ加えておきます。
 兄の感想については、きょうだいのうち私にだけ宗教心があったというのではなく、教会にもらわれてきた結果、本来誰にでもある宗教心が無事育ったというべきでしょうか(はじめから順調にというわけではありませんが)。
 昔、新章文子という推理作家の書いた四柱推命の本で自分の運命を調べてみたら、「養子の命」と出ました。天乙貴人という「芸術、宗教の星」というのまでありました。やはり何かにあやつられて生きているのかも…。

 坊っちゃん(男 40代)H.30.11月
 
 人間、年齢(とし)を重ねるごとに、生きること・死ぬことについて、考える機会が多くなると思います。
 『年齢を重ねる』=『家族、親戚、友人、知人等々、身近な人たちの死に接する機会が多くなる』ということも、大きな要因だと思います。
 そこで、人それぞれ、どういう死生観を持ち、その時点から、どういう生き方をするのか?
 それぞれに課された課題なんだろうなと思います。
 
 そういう意味でも、勝五郎さんの生まれ変わりの話は衝撃的だなと思います。
 8歳の勝五郎さんが、ただただ、「私は誰々の生まれ変わりだ!」、的なことだけを言っていたのなら、「こいつ何言うとんねん?!」で終わってしまいますが、知っているはずもないことが、次から次へと語られ、それが事実と合致している。
 科学で証明されているか・いないか云々より、勝五郎さんの場合であれば、藤蔵さんの生まれ変わりとしか言えないなぁと思います。

 と同時に、遥か遠い過去から……→前世→現世→来世……→そして、遥かかなたの遠い未来へと、魂は生き通しであるならば、やはり、そのときどきに自分に与えられた『命』=『今を生きる』、ということの大切さを思います。
 子供の頃、「そんなことしたらバチ当たるよ!」とか、「悪いことしたら、死んだとき、閻魔大王に地獄へ落とされるから、善い行いをしなさい!」と、回りの大人たちから言われた人も多いと思います。
 そう言った『地獄行き・極楽行き』の考え方や、先生も仰られていますように、「どうやらまだ続きがあると考えた方が無難かもしれないなあ、死ねば死にきりなら、蔭で罪を犯しても死ねばチャラになるかもしれないが、そうは問屋が卸さないかもしれないぞ」という考え方も、悪行の抑止力となり、今を大切に生きることに繋がってくると思います。

 夢の実現ということに限ったことではありませんが、今、この世での名前で存在しうる自分では、残念ながら実現できないことがあるかもしれません。
 しかし、魂は生き通しで、死に変わり、生まれ変わりを続けていると思えるならば、救いはあるなと思えます。
 生まれ変わった先の世で、あるいは、もっとその先の世で、自分が実現したいことを実現し、この世では味わえなかった充実感を味わうことができているかもしれない。
 そう思えるならば、過去、現在、未来という時系列の生を、未来、あるいは、もっとその先の未来で無事離陸をし、飛び立って行くための、『長い長い滑走路における、長い長い助走期間』と考え、今という生を大切にできるような気がします。
 この世で『夢を実現する』ということが叶わず、『夢を実現する』達成感を味わうことができなかったとしても、先の世で、現世での夢とは叶えたい夢は変わっても、『夢を実現する』という一点においては、達成し、現世で味わえなかった喜びや幸せを得ているかも知れない。

 「生きても死にても天と地はわが住みかと思えよ」
 宗教というものの大きな役割の一つである、『死生の安心を与える』ということ。
 あれこれ思わず、シンプルに、皆が、安心して生き、安心して死んで行けたらなぁと思います。


 教会長より
 
 私自身の死生観は、ここ数十年あまり変化がなく、自分なりに死生の安心を得させてもらっているつもりでも、つねにそれを小出しにするだけで、系統だって語ったことがなかったように思います。
 今回はじめて、安心の得られる死生観というものを系統立てて説いてみせようとしたわけですが、結局霊能霊体験の無い私には、知識だけによる自身の死生観の形成過程を振り返る、という形でしかそれを語り得ませんでした。それでも、一度はしておかねばならぬことがさせてもらえた、という充足感があります。
 
 本文の始めに出てくるTさんとは10月末に会ってきました。とても有意義でした。



 S.Sさん(男60代)H.30.10月

 先の世のことについての3日間の話は、岡山の教学研究所に尋ねましたが、ないということでした。丁寧な返事を研究員の方から頂きましたが。今の研究所のスタンスは、教祖様の生きざまを振り返りながら金光教を理解するという感じのようです。
 それでもいいですが時間のかかる方法だと思います。恐らく教祖様の親戚だった向明神先生のメモ書きに答があると思います。盲目が治るわけがないと言い最後のほうで教祖様と合わなくなった神徳家の方です。
 角埜先生のおっしゃる通り、死生観、人生観、霊、御徳、天地金の神は対であり、セットなので、死後の世界をきちんと説明できないならば、宗教としての発展性はないと思います。
 日本は少子高齢化なので、死後について不安な高齢者は多いはずなので、対象領域は巨大だと思いますが。。。
 大分の副教会長だった清水ルイ先生(稲津先生の姉弟子、湯川誠一先生の学院同期)の本を金光図書館で読んだことがあります。普通は生まれてくるときにこの世の過去、あの世の過去の記憶を消去してからということですが、勝五郎さんのケースはレアケースだったと思います。
 片島せん先生のことは初めて知りました。教典や追補に入っていない話が恐らく金光図書館の二階にたくさんあると思います。

  教会長より

 「三日間の話」の内容は私も知りたいですが、そこまではわからなくても、「先の世」というのが単に「霊界」だけを意味するものではないと想定させてくれるだけでも、私にとってはとても貴重な教祖様のコメントです。
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